用事があると言って自宅へ戻ったきり、夕方になっても帰って来ないルドガーが住んでいたマンションの扉を開く。ルドガーがいなくても私がみんなの夕飯を作ればそれで問題なかったのだけど、旅のお姫様はそうではないらしく、ルドガーのご飯が食べたい、と言って聞かなかった。だから、文句のひとつやふたつでも言ってやろうと迎えを買って出たけれど、開いた扉の内側にいたルドガーを見つけると、文句よりも先に呆れてしまう。
ソファーで横になり、手には料理の本を握り締めたままのルドガーが、すうすうと寝息を立てている。思えば彼は借金返済のためとはいえ、毎日のように魔物討伐のため戦闘を幾度となくこなし、分史世界へ旅立ってはその力を駆使して世界中のあちこちを飛び回っていた。おまけに毎日毎食全員分の食事を作って、ぼんやりとしているようで意外と動き回っているのを、私は知ってる。
だけど、だからって。疲れているなら隠すことはないじゃない。そう思って溜息をつくけれど、手に握られたままの本に目が止まって、あるいは彼自身も自分の疲れに対して鈍感なのかもしれない。
「……しょうがないわね」
出来ることならこのまま疲れが取れるまで寝かせてあげたいけれど、宿にはお腹を空かせたエルや、みんなが待っている。事情を説明すれば分かってくれるでしょうけど、逆にルドガーの方が気を使ってしまうのが目に見えて、私はそろりと彼の傍に寄った。
ソファーの前にしゃがみ込んで、そうっとルドガーの顔を覗き込む。よく見ればそれなりに整った顔立ちで、メッシュの髪が寝息に震える。戦いの最中にいるくせに、肌も結構綺麗じゃない。人差し指を立てて羨むように頬をつつけば、ルドガーは小さく身じろいだ。
「起きなさいよ、ルドガー」
今度は鼻先を指でつついてみれば、ルドガーは眉をひそめる。それがなんだか面白くて、くすりと笑みを零せば、ゆっくりと瞼は持ち上がり、翡翠色の瞳に私を映した。
「起きた?」
小さく息をついて言えば、ルドガーはぼんやりと翡翠色を揺らす。ぱちりと一度瞬きをすれば、料理の本が床に零れる音がして、身体の脇から腕が伸びてくる。
「……ミラ」
指先が、頬に触れる。寝ぼけているのか、どこか熱っぽい声に呼ばれて、思わず身体が震えた。少しあたたかい指先は頬をすべり、唇をなぞる。少しずつ体温が上昇してきて、なんだか気持ちが悪い。
「キス、してよ」
「え……きゃっ!」
低めの声がとんでもないことを言ったかと思うと、後頭部に腕は回って、そのまま引き寄せられる。体勢を崩した私は床に膝をついて、引かれるまま鼻先がルドガーの目の前まで近づいた。
翡翠色にはさっきの数倍は大きく私が映って、そのまま飲み込まれてしまいそう。頬が熱くなってきて、慌ててルドガーから目を逸らすけれど、瞼の裏側には私だけを映すルドガーの姿が張り付いて離れなかった。
「……だめなの?」
誰もいない部屋にはルドガーの、少し甘えるような声だけが響く。穴があきそうなほどに見つめてくるルドガーにちらりと視線を向ければ、翡翠色はやっぱり私を映していた。
ああもう、どうしてこの家にはルドガーしかいないの。どうしてこの部屋はこんなに、静かなのよ。
どくどくと脈を打つ心臓の音がうるさいくらいで、頬に熱が上がって行くのを止められない。どうしようもなくなってきつく目を瞑れば、すっかり熱っぽくなってしまった頬を、少し冷えた指先がすべる。
「……ぷっ、ははは」
突然の笑い声に目を開けば、頬を撫でていた指先はとうに離れていて、ルドガーはソファーから身体を起こしながら、おかしそうに笑っていた。
からかわれた、そう気付くのに時間はかからなくて、違う意味の熱が全身を駆け巡る。怒りと恥ずかしさが入り乱れた感情が煮え切るのにそう時間はかからなくて、ふるふると身体が震え始めた。
「だ……騙したのね!」
「ごめんごめん」
きつく睨んで声を上げても、ルドガーは悪びれもなく謝って、口元を緩ませる。こっちはわざわざ迎えに来てあげた上に、疲れてるのを悪く思いながらも起こしてもあげたのに、感謝どころか物凄く恥ずかしい思いをさせるなんて、いい度胸じゃない。
「ばかっ!」
思い切り腕を振り上げて、掌をルドガーの頬目掛けて振り下ろすけれど、触れることすら叶わないまま、その腕は宙で止められる。ルドガーは私の手首を握ったまま薄く笑みを浮かべ、そっと鼻先を近づけるとまた、くすりと小さく笑った。
「期待に添えられなくてごめんな?」
「なっ、き、期待なんてしてないわよ!」
成人男性とは思えないほど、子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべるルドガーに、思わず声を上げる。期待、なんて、何をするつもりだったっていうのよ。
掴まれた腕が引き寄せられて、鼻先は頬に触れる。内側も熱い頬に濡れた感触がして、耳元にはルドガーの吐息がかかってくすぐったい。
それはほんの一瞬で、だからこそ何が起きたのか分からないまま、ルドガーは離れると腕を離す。にこり、と笑う整った顔に瞬きをしてから自分の頬を撫でて、ようやく何が起きたのかを理解すると、頭が沸騰しそうなほど、血が駆け廻る。
「な……なっ、あなた、何して……っ!」
「ミラ、顔真っ赤」
ルドガーはただおかしそうに笑って、エルにするのと同じように私の頭を、少しだけ指に髪を絡めてぐしゃぐしゃと撫でる。そうしてルドガーは立ち上がると、料理本を拾い上げてから、手を差し出した。
「続きはまた今度、な」
子供みたいな無邪気な顔でとんでもないことを言うものだから、静かなマンションの一室に、私の声だけが反響してた。




>>2013/05/15
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