ある分史世界のマンション・フレール302号室(タイトルが長過ぎたので)



マンション・フレール302号室は、少し前とは違って騒がしくも明るい声と、良い匂いが部屋を埋め尽くす。
キッチンでは俺とミラが、ユリウスから貰ったお揃いのエプロンを着けて鍋の前に立ち、沸騰した湯の中にパスタを入れる。火加減はミラに任せて、俺はソース作り。と、そういえば今朝買ってきたばかりの籠いっぱいのトマトは、コンロの横に置いたままだったな。
「ミラ、そっちの籠取ってくれ」
「良いけど……トマト入れるの?」
籠の中からいくつか赤く光るトマトを手に、ミラは眉をひそめる。ちらりとだけ動いた視線の先にはおそらく、テーブルでルルとじゃれながら待つエルを映しているのだろう。トマトが苦手なエルのために、本来はトマトを使う料理でさえ抜いて別のものを加えて味を調えてしまうようなミラだから、気になるのも無理はなかった。俺もそうだったし、結構気を使っていたから、気持ちはよく分かる。
けど、数日前から暮らし始めたこの家ではそうも言えない。だって。
「ああ、ユリウスが好きだからな」
「あなたって本当に兄ばかよね」
トマトを受け取りながら、テーブルでもう一人、エルと一緒になってルルとじゃれつく俺たちの料理を待つ人、ユリウスを映して向けて言えば、わざとらしい溜息をついて苦笑いを浮かべるミラが、悪態をつく。だけど、そんな姿も好きだから、一緒に暮らそうと手を取ったんだと分かっているんだろうか。
「でも、トマトなんて入れたらエルが泣いちゃうわよ?」
「大丈夫だって、ちゃんとエル用にトマトなしも作るから」
「親ばかで兄ばかで、忙しいわね」
先日買ったばかりの小さな鍋と大きな鍋の二つを持って笑うと、ミラは呆れたように笑う。俺はエルの本当の父親ではないけれど、確かに間違っていない。俺はエルも大好きだし、ユリウスも好きで、それから。
「ミラのことも好きだよ」
「なっ、ば、ばか!」
何言ってるのよ、とミラは顔をトマトよりも真っ赤にして怒鳴る。だけど、私は好きじゃないとか、そんな言葉はもう聞かなくなって、そのたびに俺は愛されてるなあ、なんて思ってしまって口元が緩む。締まりのない顔をした俺にミラはまた怒るけれど、それすらも愛おしい。
「ほら、ミラ。ちゃんと火を見て」
「っ、言われなくても分かってるわよ!」
パスタは茹で過ぎても、火加減を誤ってもおいしくない。声を荒げるミラに言えば、顔はやっぱり赤いまま、鍋へと向かう。
俺はその間にソース作り。トマトと玉ねぎ、それからベーコンを切って適量の水を沸騰させた鍋に移す。あとは味を調えて、エル用のソースも作らないと。
「お、良い匂いがしてるな?」
いつの間に席を立ったのか、ソースの匂いに釣られてユリウスがひょっこりと顔を出す。不意にテーブルの方を見れば、エルがルルを抱えてその毛をもふもふと触っていたから、大方エルにルルを取られて手持無沙汰になったんだろう。ユリウスも好きだもんな、ルル。
「ダメだよ、ユリウス。座ってて」
「味見くらいいいだろう?」
だけどユリウスをキッチンに立たせるわけにもいかない。料理が破滅的に出来ないということもあるえけれど、何よりこの狭いキッチンで大人が三人も並んだら動きづらい。追い払うように言えばそれが伝わってしまったのか、ユリウスはまるで子供のように口を曲げて、俺が味見用にと出しておいたスプーンを既に握っていた。
まあ、味見くらいならいいか。そう思って溜息をつくと、ずい、とミラが身体を乗り出して、ソースの入った鍋の前に立ちふさがるよう腕を伸ばす。そんな姿に俺もユリウスも思わず呆然としてしまって、ぱちぱちと睫毛が音を立てた。
「ユリウス、あなたは座って」
「ミラまでそんなこと言うのか」
少しばかりきつい口調で言うミラに、ユリウスは少し後退りながらも苦笑いで答える。けれどミラの釣り上がった眉が下がることはなく、ルビー色の瞳がきつくユリウスを睨んだ。
「聞き分けの悪い子供みたいよ。エルはきちんと座って待ってるのに」
びし、と指差す方を見れば、テーブルではエルがこちらを向いて、ちゃんと待ってるよ、とでも言うようににこりと笑う。そうしてゆっくりミラへ視線を戻せば、その威圧感に言葉を失った。
「う……ミラは時々言葉がきついな」
「本当のことを言ってるだけよ」
「分かった、分かった。座ってるよ」
強い口調は変わらず、降参だと言うようにユリウスはスプーンを置いてから両手を上げると、じわりと汗をかきながらテーブルへと戻っていく。そうしてユリウスが自分の席につくと、エルは悪戯が成功した子供のように、にかっと笑ってみせた。
「メガネのおじさん悪い子だー!」
ナァ、とルルまでユリウスを笑うかのように鳴く。ユリウスは返す言葉もないといった様子で苦笑すると、はあ、と溜息をついた。
「おいおい、だからおじさんはよしてくれよ」
「ちゃーんと良い子に座ってたらやめてあげるよ!」
満足そうに笑うエルの腕の中で、そうだとでも言うようにルルも鳴き、ユリウスは乾いた笑いを漏らす。参ったな、と頭を掻くと、がくりと頭を垂れた。
「エル……おまえ、誰に似たんだい」
溜息混じりに小さく漏らすユリウスの声に、ミラが振り向く。
誰に似た、か。確かに最近のエルは少し意地悪になったというか、ひねくれたような言葉を使うようになった気がする。とすれば誰の影響かなんていうのは明らかで。この中で言うならたった一人しかいないじゃないか。
「ミラじゃないか?」
「ルドガーでしょ」
思った通りを口にすれば、むっと顔をしかめたミラが俺の名前を上げる。だけど、俺は意地悪なんて言ったことも、教えた覚えだってない。ミラ以外に誰がいるんだ。
「はは。どっちも、か」
互いに自分じゃないと言うように睨み合う俺とミラを見て、ユリウスはおかしそうに笑うとエルの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。あれ、本人は優しいつもりなんだけど実際やられると結構痛いんだよな。それは今も変わってないようで、エルは少し痛そうにぎゅっと目を瞑って、ぶんぶんと頭を振っていた。
「むー!エルの髪ぐしゃぐしゃしないでよー!」
「あとでルドガーに直してくれるさ」
ユリウスの腕を無理矢理押し上げて、エルはその大きなエメラルドの瞳を少し涙目にさせて言う。けれどユリウスは反省した素振りもなく、なあ、と俺の方を向いて勝手なことを言ってのけた。
そうか、ユリウスがそのつもりなら、俺だって。
「ユリウス、俺の負担増やすならトマト抜きパスタにするけど」
「やめるやめる。だからトマトは入れてくれ」
言い終わるよりも早くユリウスはエルから手を離す。本当にユリウスはトマトが好きだよな、これですべてが解決してしまうくらいに。
ユリウスの手から解放されたエルは、軽く自分の髪を整えながら、あ、と声を上げる。そうして右手をいっぱいに伸ばすと、支えを失ったルルが床へと転げた。
「エルはトマトいらないからね!」
力いっぱいに主張するエルの足元で、ふにゃ、とルルが鳴く。だけどエルは気付いていないのか、手を上げたまま俺の返事を待っていた。
「はは、分かってるよ」
俺の返事を聞いてエルは椅子に座り直すと、その足がルルに当たってルルは横たわる。生きてはいるだろうし、あまり動かないせいであそこまで丸々と太ってしまったんだからしょうがないだろう。だけどユリウスはそうじゃないみたいで、自分の席を立つをルルを拾い上げて抱えていた。
「ほんと、騒がしいんだから」
ミラは呆れたと言うように息を吐く。だけど、その口元が少し緩んでいるのを俺は見逃さなかった。騒がしいけど、声が絶えない明るい家。旅を始めてからずっと、望んでいたことだ。
「でもそれが、いいんじゃないか」
「シアワセのショーコなんだよね!」
ルルを抱えたユリウスは笑い、エルもご機嫌と言った様子でにこにこと笑う。
狭い部屋に人も声も多いし、料理を作る量も増えた。だけどそれは倖せの証拠で、間違いない。
「ああ」
大好きで、愛おしい人に囲まれて、笑って過ごす。こんな倖せがずっと続けばいいのにな。




(この世界も、いつか消えてしまうんだろう)



>>2013/03/10
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