Beginning - 蝶は真冬に舞い降りた(1)

「乙葉旭! 動かないで!」
 突然、目の前に現れた着物姿の少女は、中世の騎士が使っていたような古式の銃を軽々と右手に掲げ旭の方へと向けた。
 黒地に蒼い蝶を描いた振り袖に身を包み、腰まで届く長い黒髪の頭上に着物と同じ蒼色の大きなリボンをちょこんと乗せている。猫のように丸い目を埋めるのは漆黒の瞳だ。桜色の肌が黒と蒼の中で映える。年齢は、旭と同じくらいだった。
 撃鉄が雷管を強打し、金色の火花が散った。
 火薬の爆発音が閑静な住宅街に響き渡り、旭の耳元を銃弾がかすめる。
 考えるよりも先に体が反応していた。
 何かが破裂するような音と同時に旭が振り返ると、まるで血の色を思わせる赤黒い煙が冷たい木枯らしに流されていくところだった。
「っ!」
 言葉はおろか、声にすらならない呼気の塊が旭の唇から零れた。
 本能的に両手を伸ばしていた。
 散っていく煙を抱き留めようとする。けれど高く上ってゆくそれに触れることさえできない。
 さっきまでそこにあった人影は、跡形もなかった。
 ぼさぼさの茶髪も、紫の瞳も、長い腕の先で重なり合う銀の腕輪も、笑顔も。
 その存在の一片さえ残さず消えてしまった――否、消されてしまった。
「……ほ、む……ら……?」
 そこにあるのは、旭の通う中学から家に向かう途中の、何の変哲もない住宅街だった。
 今日が二学期の終業式で、明日から冬休みだということ以外に特別なことなど何もない、いつもの風景だ。
 乙葉旭は、学校まで迎えにきた同居人の焔とともに、人通りのない静かな住宅街の中を歩いていた。背後からの凍風が強く、また空腹を抱えていたから、少しばかり早歩きだったかもしれない。
 家に帰ったら昼食にオムライスを作ってやると言っていた彼は、もういない。
 そこにあるのは、空っぽの空間だった。
 旭の膝が力を失った。十四歳という年齢よりも細く幼く見える身体が凍てついたアスファルトの上へと崩れ落ちる。ダッフルコートの上から斜めがけしていたナイロンのカバンが滑り落ちた。開いていた口から筆箱がぽろりと零れ落ちた。
 何が起きたのか、頭の中は真っ白で、何も考えられなかった。
 旭の目はただぼんやりと、何もない空間を見つめているばかりだった。
「危ないところでしたわ。乙葉旭」
 真冬の大気のように、凜と通る声が旭の名を呼んだ。
 さっきも自分の名を呼んでいなかっただろうか。なぜ名前を知っているんだろう。
 疑問は疑問のまま流れて消える。
 旭は、ただ声のした方へと、操り人形のように辿々しく顔を向けた。
 少女は銀と金でできた重厚そうな銃を軽々と宙へ放り投げた。銃は空中で分解し数十匹の蝶へと変化した。五色の蝶たちがバサバサと羽音をたてながら飛び去っていく。
 驚くまでもない。
 それは訓練された異能の力であることを旭は知っていた。
 旭と同じ血を引く、妖怪退治屋の血を引く者。
 少女は、旭の視線を受けてにこりと笑った。誰が見ても、日本人形が微笑んだ、なんと可愛らしいのだろうと映るような、無邪気な笑顔だった。しかし旭の目はそれを、異能の術をまるで神の如きに操る傲慢な嘲笑と捉えた。
 カチリとどこかでスイッチが入った。
 体の奥底で灯った炎は、瞬く間に旭の身体を内側から炙りつくし、流れる血液を沸騰させた。
「今……何をした……」
 からからに渇いた喉からようやく出た声は、みっともないほどに震えていて、少女まで届かなかった。旭の唇が動いたのに気づいたのだろう、少女が問うた。
「何と言ったのかしら? 乙葉旭」
 小さな顔を傾げ、少女の黒く大きな瞳は不思議そうに旭を見返している。
「……君は……なに、を」
「何って、妖怪退治に決まっているじゃありませんか」
「妖怪……退治?」
 旭には少女が何を言っているのかわからなかった。
「あなたのそばにいたアレは、人の形をしていたけれど、妖怪だったわ。あなたを襲おうとしていたのよ。人に害なす妖怪を倒すのは、私たち妖怪退治屋の役目だわ。あなたも知っているでしょう?」
「あれは……妖怪だけど……でも……あの人は……焔は……僕の……と」
 少女が旭の言葉を遮る。
「まあ! あなた、あやかしが友達だなんて言わないですわね? 妖怪は退治されるべきもの。東の乙葉と称される名門妖怪退治屋の跡継ぎが、あやかしに心を奪われているなんて、笑えない冗談ですわ」
「妖怪は……友人になれないと、なぜ言い切れる?」
 今度は少女の方が意味不明という顔をした。
「相容れない種族よ。そう習ったでしょう?」
 少女の言葉に、旭の心臓がどくんと強く脈打って反論した。
「仲間になんて絶対になれるわけがありませんわ。なるつもりもないですけれど」
 違う。
「妖怪は倒すべきもの。人間の敵ですわ」
 違う!
 旭の中で、少女への反発意識がはっきりとその姿を現した。
 猛獣が獲物を捉えるときのような旭の鋭い視線に、少女がはっと手のひらを口にあてる。
「君が……妖怪の敵だというなら……君は僕の……」
 それは呪詛のように、旭の唇からぶつぶつと零れた。旭がすべてを言う前に、少女は短い悲鳴をあげた。
 長い黒髪が空へと吹き上がる。
 風が少女を取り巻いていた。
 少女を中心に渦を作っていく。振り袖に描かれた蝶が乱舞しているかのようにはためく。
「おやめなさい! 乙葉旭! あっ!」
 少女の足がゆっくりと地を離れていく。脱げた草履の片方があっという間に風に飛ばされて空へと消えた。
 少女を見つめる旭の双眸がその色を変えていた。
 薄茶の瞳は暗く濁り、やがて深い蒼に燃え始めた。北極圏の海の底のように、暗く冷たい色だ。
 旭は自分が何をしようとしているのか、わかっていなかった。
 旭の中にあるのは憎しみだけだった。
 この世で一番大切ものを奪った少女へと、湧き上がる憤りのすべてを、少女へとぶつけていた。
 少女を包む風の壁が軋み、一層の唸りを上げた。
 風が空間を歪めていく。
 命の危険を察した少女の悲鳴が高く細く響く。
「旭! ダメだ!」
「お嬢様!」
 ――刹那、少女と旭の間に一線の光が走った。
 まるで一刀を浴びせたかのように、旭が作り出した風の壁が切り崩される。風と光の狭間で紫の火花が散った。
 その切り口から突風が吹き出し、少女と旭の体が引き離されるように反対の方向へと吹き飛ばされた。
 飛ばされながら、少女の悲鳴を聞いていたが、旭の心はぴくりとも動かなかった。
 もう何も考えられなかった。
 もう、どうでもよかった。
 なにもかも、どうでもいい。
 旭は瞼を閉じた。
 視界を覆っていた晴天の蒼が消えた。
 何か大きくて柔らかいものが、その身体が家屋の塀に激突する前に受け止めていたことも、旭は気づかなかった。
 そのとき、太陽の匂いがした。
 洗濯物を陽にあてた後のあの匂い――日向ぼっこが好きな、焔の毛の匂いだ。縁側に寝そべった焔の、真っ白な毛がきらきらと光を弾く光景が脳裏に浮かんだ。
「旭」
 自分を呼ぶ声がする。
 でも、これは夢だ。
 太陽の匂いを纏い、自分を案じて名を呼ぶ声の主は、もういないのだから。
 ついさっき、自分と同じ力を持つ退治屋の少女に消されたのだから。
 匂いも、声も、温もりも、すべて夢なのだ。
「おい! 旭!」
 鼻の頭に熱い痛みが襲った。
 閉じていた瞼を開くと、紫の瞳が二つ、旭を見つめ返していた。
「ほ……むら……?」
「俺だよ。夢じゃねえよ。生きてるよ」
 焔は確かに少女の放った弾丸に砕け散ったはずなのに、あやかしの姿で旭の身体を抱えていた。
「俺があんなひよっこにやられるかよ。食らったフリしただけだ。ややこしいことになりそうだったからな。あいつらが消えたら戻るつもりで隠れてたんだよ」
 旭の視界の隅で白い尾がふさふさと揺れた。
 旭は両腕で長い尾を抱きしめると、その毛に顔を埋めた。
「…………」
 大人の身長を軽く超える巨大な体躯を持つ白狐。
 五百年以上の時を生き、かつては人喰い妖怪として人間たちに畏れられた大妖怪。
 それが、焔という妖怪の真の姿だ。
「焔っ!」
 長い尾にしがみつく旭の身体を、ひどい震えが襲った。
 失っていた正気が、旭に現実を思い出させたのだ。
 本来ならば害ある妖怪に向けられる力を、人間相手、しかも同業の少女に向けて放った。
 人を殺そうとしていたのだ。
 自分が強い人間だなどと、一度も思ったことはなかったが、これほど弱い人間だという認識もなかった。焔がいなくなったというだけで、自分は呆気なく壊れてしまう。何をしでかすかわからない。
 これまで、人を襲うあやかしたち、そしてあやかしの力を利用しようとした人々の中に旭いは沢山の闇を見てきた。
 けれど、それらと同じものが自分の中にもあったことに気づいた。
 足下から闇に飲み込まれていくような気がして、しがみついた。
「ごめんな」
 長い尾が旭の身体をふわりと包み込む。
「心配させて、ごめん。旭」
 焔は悪くない。
 謝り続ける焔に、旭は何も返せなかった。返す言葉など、何一つ見つからなかった。
「大丈夫だから。あっちの子も平気だから」
 見てごらん? という焔の声に促されて、ぎしぎしと首をあげた。
 黒いスーツを着た男が着物の少女を抱きかかえていた。
「お嬢様、お怪我はありませんか?」
「大丈夫ですわ、一条。でもお気に入りの草履を飛ばされてしまいましたわ」
「同じものをご用意いたします。お車が待っております。このままお連れしてよろしいですか?」
「いいわ」
 黒塗りの大きな外車が、旭と焔のすぐそばに、音も無く滑り込んで止まった。
 一条と呼ばれたスーツ姿の男は少女を抱きかかえたままゆっくりと車の方へ向かった。
 旭と焔の前を通り過ぎる。
 その刹那、切れ長の目がちらりと旭を見やった。真冬の静電気のようにちりっとした痛みを感じ、旭は焔の胸の毛がふさふさした辺りへ顔を押しつけた。
「乙葉の犬になったという噂は本当だったのか」
 無表情のままの一条が話しかけた相手は焔だった。
 何か言葉があるとすれば、少女を傷つけようとした旭への非難だと思っていた。旭は焔を見上げた。
 焔の知り合いなのだろうか。
 旭は視線だけで焔に問うた。焔の長い尾がひらりと動き、肯定の意を告げる。
「そっちは子守か?」
 耳まで裂けた口から鋭い牙が覗く。焔は獣の姿のまま、挑発的な笑みを浮かべている。
「私はお嬢様の護衛だ」
「そのお嬢様には護衛だけじゃなくて、教育も必要なんじゃないか? いきなり攻撃すんのは余りにも礼儀知らずだろう? あれが乙葉に対する態度か?」
「犬に礼儀が必要だとは思わなかったが……乙葉の後継者に対しては、先に手を出したこちらが詫びなければなりませんね。乙葉旭様」
 一条は少女を抱いたまま、旭に頭を下げた。
「え?」
「お嬢様に代わりお詫びいたします。申し訳ありませんでした」
「えっと……こっちこそ、すみませんでした。あんなこと、するつもりは……」
「いえ、いいんですよ。乙葉後継者の真の能力も確認できたことですし」
「え?」
「どういう意味だよ、そりゃ」
「あら、まだお父様から話がいってなかったのかしら。乙葉旭、あなたは私と結婚するのです」
 焔の突っ込みに答えたのは少女だった。
「え?」
「またかよ!」
 旭はわけもわからず、焔と一条を見比べる。
 焔は軽く舌打ちをすると、一条からふいっと視線を逸らせた。
「では、私たちはこれで」
 一条が軽く会釈して歩き出すその先で、運転手が後席のドアを開けて待っていた。
「乙葉旭! 使役妖怪には識別子をおつけなさい。さもないとまた間違われて消されてしまいますわ」
 少女は一条の肩越しに旭を見て、「また会いましょう」と名乗りもせずに行ってしまった。
 着物に染め抜かれた蒼い蝶がひらひらと踊っていた。
 二人を乗せた車が消えると、旭の中で張り詰めていたものが一気に解けた。へたりと座り込み、焔に体を預ける。
「大丈夫か? 旭」
 旭は力なく首を振る。
 頭の中が混乱して、状況を何一つ把握できなかった。
「なんかもう疲れた」
 言葉にしたとたんに、それは真実となり体の重みが増した。
 半ば毛に埋もれるようにぐったりと寄りかかる旭を見て、その紫の瞳をわずかにひそめた。
「……帰ろうぜ。うまいオムライス作ってやるから。腹減ってるから動けないんだよ」
 旭がわずかに頷いた。
「掴まれ。跳ぶぞ」
 旭が焔の首にすがるように腕を絡ませると、焔は後ろ足で地面を蹴り高く舞い上がった。
 風になびく白い毛の向こうに、晴天が広がっていた。

【Beginning - 蝶は真冬に舞い降りた(2)へ続く】
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