32 | ナノ





 実際のところ、皇子は確かに、最後の街で交渉に失敗したのだ。ウカナ・ハクの老婦人は最終的に水門をあけることに合意したが、最後の街の街長は頑固な人物で、警告者である水の民、スイが同行していないことについて問いただすばかり。結局、警告者が自ら来ないのであれば水門を開けることはできない、と言いおいて一行を街から閉めだしてしまった。
 水門を開いた街は3つ、しかし最後の街は最大の街、そこが水門を開かないとなれば、少なからず王都に被害が出る。
 皇子の一行は、大慌てで王都に駆け戻る最中だった。あと一日もあれば王都にたどり着くというところで、しかし彼らはそれを目にする。濁流が、ラシャを駆け下る姿を。皇子はラシャの川辺で、それを呆然と見送った。何もかも遅かったのだ。王都には、少なからぬ被害があるだろう。
 しかしそこで立ち止まっていても始まらない。王都に戻って、被害の様子を確かめなくてはならない。さすがに、王都全域が再起不能に陥ることはないだろう。だとすれば、街の復興の手助けをしなくては。
 気がかりなのはカグとサク、そしてスイ。彼らとは連絡の取れぬまま、一行は王都に駆け戻る。しかしそこで彼らが目にしたのは、出発した時と一分も変わらぬ王都の姿だった。

 宮へ戻ったマツリを待っていたのは、驚くべき知らせだった。帝が、皇子に譲位すると言うのだ。マツリは父帝に呼ばれて、帝の私室へと入った。
 帝は、マツリの姿を見てゆっくりと笑みを浮かべた。
「まずは、長旅ご苦労だった」
 何か言いたげなマツリを手で制して、帝は表情を暗くして続けた。
「言いたいことは分かる。水害のことだろう。それについては、民にまぎれていた近衛士の一人が伝えてくれた。ラシャの濁流がまさにあふれようとしていた時、一人の水の民の若者が、摩訶不思議な刀をもって濁流を消し飛ばした、と」
 マツリは目を見開いた。
「摩訶不思議な刀……」
 頷いた帝を見て、マツリは片手で口元を覆う。心当たりはあった。いや、天龍丸以外に考えられない。カグの言っていた、月の民の伝説。ラシャの洪水を鎮めたのは、天龍丸だ。だとすれば、それを知っている水の民など、一人しかいない。
「スイだ」
 絶望的な気分になって、それでもマツリは帝に問う。その若者はどうなったのだ、と。帰ってきた答えはマツリの予想した通りだった。
「さあ、……濁流が消え去った時、若者の姿もかききえていたと聞いた」
 では、スイは死んだのだ。あの伝説通りに。己の命とひきかえにした願いを、天龍丸は聞き届けた。そして、スイは死んだのだ。
 マツリは、憮然として立ち尽くした。誰がなんと言おうと、仲間を死なせてしまった時点で、マツリの任務は失敗だ。そのマツリの様子を見て、帝は首をふって侍従を呼んだ。
「下がりなさい。話は落ち着いてからするとしよう」

 マツリは、与えられた部屋で悄然と座りこんでいた。スイを犠牲にしてしまったという罪の意識が、彼をひどく苦しませた。そのうえ、長年共にいた近衛士のカグも、途中まで共にいたサクも、行方がしれない。もしかしたら二人も死んでしまったのでは、と、恐ろしい考えにとりつかれて、マツリは唇を噛み締めた。出発する前の、楽観的に考えていた自分を張り飛ばしたい。どうして、こうなると予測できなかったのだ。 
 しかし一方で、やれることは全てやったのだと確信していた。これ以上、できることなどありはしなかった。全てを試した上で、このような結果になったのは、仕方がない。
 どちらにしろ、スイの事は諦める以外にほかがなかった。伝説から見ても、その状況から見ても、万が一にもスイが生きているということはありえない。それが望まない結果だったとしても。
 水害はおさまった。聞けば、王都にも、ラシャ周辺の集落にも、ほとんど被害はなかったと言う。マツリの訪ねた上流都市からも鷹で知らせが来て、事前に水門の周囲から人を離れさせていたために、人的な被害はなかったということだ。水路に作られていた住居はことごとく押し流されたが、それは水門を開くと決めた時点で覚悟していたことだから問題はない、と。
 昼時に、気を使ってかムオウが食事を持ってきたが、どうしても食べる気にならなくてそのままつき返した。マツリはぼんやりと窓の外を眺める。憎らしいほどに晴れ渡った空で、鳥が一羽、弧を描いて飛んでいる。その澄んだ空の色で、またスイを思い出した皇子は、窓際から離れて横になった。
 目を閉じる。眠る気はなかったが、思っていたよりも疲労が溜まっていたようで、マツリはそのまま意識を失うようにして眠りに落ちた。







戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -