31 | ナノ




 スイはそれを目にして、すうっと身体が冷たくなるのを感じた。
(嘘だろ)
 それは、迫り来る水の壁。濁流。泥。これが、精霊の子の見る夢などではないことは、少女の顔色を見れば明らかだ。
(どうして、まさか)
 皇子は間に合わなかったのか、いや、そんな。しかし、この濁流は。目を細めれば、先ほどの群衆が散り散りになっているのが見える。ああ、そうだろう。これは、確かに。
(ラシャが、あふれた……)
 スイはさらに下流へと押し流されながら、ふと笑みを浮かべた。抱きかかえた少女に、川辺まで泳ぐように言って、手を離す。そして、右手に握った太刀を強く意識した。
(なあ、天龍丸。月の民でなくとも、精霊を降ろすことはできるだろうか)
 あの資料で読んだ、この刀の伝説。見事なまでに、状況は正しい。
(水害、か)
 スイは、何度も読んだその一節を頭に思い浮かべた。
(龍、天下りて座す。かの男、海を鎮めたり。水流、泡のごとく成りて消ゆ。もって、神通力となす)
 続きは、こうだ。
「かの男、水流と共に消ゆ。龍、天に帰りぬ。男、龍と共に行きて、二度と戻らず……」
 手っ取り早く言えば、男は死んだのだ。スイは迫り来る水の壁を見て、苦笑する。
「まあ、この状況だしどっちにしろ死ぬよね」
 どうせ死ぬのなら、一あがきでもして見せる。スイは、天龍丸を太陽にかざした。濁流はもうすぐそこまで迫っている。だというのに、スイにはそれがとてつもなくゆっくりとした時間に感じられた。
 スイはふと、初めて皇子にあった時のことを思い出した。恐ろしい目つきで刀をつきつけてきた、その近衛士、カグ。
(ああ、そういえばカグさんのこと、誰にも伝えてないけど。ま、カグさんなら目が覚めたら自分でどうにかするだろうし心配ないか)
 スイはゆっくりと、天龍丸の切っ先を濁流へとむける。祝詞など知らない。スイは水の民だ。彼の一族の精霊は、蛟だ。スイは、天龍の言祝ぎなど知らない。
(さあて、ついに死ぬとなると、やたらと晴れ晴れとしてきたぞ)
 スイは、心の中で、両親の姿を思い描いた。その姿にむかって、謝る。ごめん、一族に戻れない。けど、水の民の子を守ったよ、……そのまやかしの両親は、笑って許してくれるのだ。お前のしたいようにすればいい、お前は精霊の子なのだから……。
(うんうん、それで、あとはどうするかだけど)
 スイは、天龍丸の切っ先をながめて、笑みを浮かべた。
(業はめぐる、ってやつかな)
 とにもかくにも、祝詞を知らぬのなら念じるだけだ。目と鼻の先まで迫った水の壁に、切っ先がのまれる。
(まったく、やってらんねーよ、くそが)
 スイは念じる。全身全霊で、願う。ふうわりと身体に熱がこもる。
 濁流に飲み込まれる直前、見上げた空には憎たらしいほどの太陽。白い光が、落ちてくる。
(ああ、来てくれたか……)
 そして、暗転。








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