次に目を覚ました時、カグはすぐそばに人の気配を感じて飛び起きた。腹にはしる激痛。うめいたカグの背を、人の腕がささえた。
「落ち着いて。食事を持ってきたの。水ぐらいは飲めるかしら」
女の声だ。しゃがみこんでいるその顔は覆面におおわれている。黒い装束。……月色の、目。
「……いらん」
かすれた声でそう答えたカグに、女は首をふる。
「駄目よ、あなたもう3日も飲まず食わずなの。水ぐらい飲まないと死んでしまうわ」
そう言って、水の入った椀を、カグの口元に近づける。
「……3日も、」
「ええ。ちっとも目をさまさないから、死んでしまうんじゃないかと思っていたところよ。さあ」
それでも、いらないと首をふるカグに、女はさとすような口調で言った。
「毒なんか入っていないわ。殺そうと思えば、いつでも殺せたもの。あなたも分かるでしょう、それくらい。それとも、そんなに死にたいの?死んでしまったら、大事な皇子様のところにも帰れないわよ」
「……」
再度椀を近づけられて、カグはようやくそれに口をつけた。ゆっくりと飲み干す。冷たくて、おいしかった。女の口調がやわらかくなった。覆面で表情は見えないが、多分、微笑んでいる。
「近くの川で汲んできたのよ、この水。おいしいでしょう」
カグの身体をゆっくりと横たえて、女は立ち上がった。手には盆を持っている。
「よく考えたら、食事をもってくる必要は無かったわね。でも、次もちゃんと持ってくるから、その時は食べなきゃだめよ」
女はそう言いおいて、格子につけられた扉から出て行った。施錠する音。足音が去っていった。カグは目を閉じる。3日も寝ていたのか、自分は。
情けなくて涙も出なかった。
次に来た時、女は宣言通り食事を持っていた。ごく薄い粥のような飯。断食してたんだから、最初はこれくらいね、と女は笑った。小ぶりの、木の匙がついていた。その柄の先が、細くささくれていた。
女が去っていった後、カグはめいいっぱい格子に身体をよせて、かがり火の明かりにすかして、手枷の鍵のを観察した。しかけは単純だ。鉄の細い針のようなものがあればよいのだが、木でも代用できないことはない。足枷も同じ物のようだ。ただ、牢の鍵だけは、カグには分からない構造になっていた。
女が、近くに川があると言っていたから、牢から出られれば後はどうにでもなる。牢の周りに、人の気配はない。少なくとも、今までカグが見たのはあの女一人だけだったし、おそらくここには、牢の番にまで人手がまわらないほどの人数しかいない。カグは、再びよこになって目をとじた。機会を待つのだ。
男の話し声で目が覚めた。はっとして身体をおこす。腹の痛みはずいぶんと良くなっていた。カグは毛布を身体にまきつけたまま、身構えた。近づいてくる足音は、二名。男と、あの女だろう。
「ふん、起きていたのか」
格子の目の前までやってきた男が、薄笑いをうかべてそう言った。感じの悪い、中年の男だ。覆面はしていないが、髪を隠すように、頭巾をかぶっている。あの女が、その男の斜め後ろに立って、うつむいている。女は手ぶらで、男は片手に何かをつかんでいた。
カグが睨みつけると、男は笑みをひっこめて、薄情そうな表情をうかべた。
「何を考えているのかはだいたい見当がつくが、無駄だ。ここから逃げ出しても、お前にはもう守るべきものなどない」
どういうことだ、と口を開く前に、カグの目の前に、男が格子越しに何かをなげた。
「お前の大事な皇子だ。せいぜい泣き喚くんだな、それで、逃げようなどと思わないことだ。我ら同族のために、お前は糧となるのだから」
最後に意味深な言葉をのこして、男は去っていく。気遣わしげに振り返りながら、女も去っていった。
カグは、息を止めて、投げられた物を凝視した。
黒い物と、白い物だ。
黒い、やわらかな質感の物と、白い、硬質な輝きをはなつもの。
……黒い、髪の束と、白い、刃のかけら。
『お前の大事な皇子だ』
男の言い残した言葉が、耳の奥で鳴り響く。
……ああ。
そうか。
マツリは。
……死んだのか。
「……」
手をのばして、ふたつのものを手にとった。
血に濡れた髪の束。
折れた刃のかけらは、確かに、カグが皇子に渡した、あの懐刀のものだった。
「ふん。……役に立たなかったのか」
しかし、あの懐刀ほどのものが折れるとは、ずいぶんと重たい得物を使う手練がいたものだ。
カグは、脳裏に、皇子が懐刀をふるう姿を思い浮かべた。そして、刀ごと斬り裂かれる姿を。
「マツリ」
あるかなしかのつぶやきは、自分の耳にすら届きはしなかった。
『絶対に、返すから』
皇子の言葉がよみがえる。
その、微笑んだ顔を。
(守ってやれなかったなあ)
ずっと、一番近くにいて、守ってきたのに、肝心なときにはこのありさまだ。ぐっと手に力をこめる。鋭い刃先が、握りこんだ手のひらに傷をつける。その痛みがうつろに感じられる。血が流れて、藁のすきまに消えていった。
何も考えられなかった。ただぼんやりと、マツリと過ごしてきた日々を思い返していた。初めて顔を合わせた、12歳のころの皇子。街におりて、外界を学び、あたらしい発見をするたびに報告してきた明るい声。講義をききたくないと駄々をこね、逃げ出そうとした皇子をとりおさえた時の、ふてくされた表情。それから、スイに水害を聞かされた時の、色をうしなった顔と、王宮をたつときの、覚悟を決めた瞳。トカル・サンで別れ際に見せた、使者としての、険しい表情。
呆然と空をみつめて、涙すら出なかった。急に道を失った旅人のような、その空虚感。これからどうすればいい。どこへいけばいい。警告者は、水害は。
そして、なにもかもどうでもよくなった。
皇子がなんだというのだ。国が、なんだというのだ。月の民は流浪の民、どこへでも行けばいいではないか。もう、何にも縛られないのだ。
死んでなるものか、と思った。もとよりここから逃げる気でいたのだ。ここから出て、どこへなりと行けばいいのだ。
そしてカグは、それを実行した。次に女がやってきた時、みはからって女に当て身をくらわせ、気を失っているあいだに、木の匙の柄を叩き割って、その破片で手足の枷をはずした。女の懐から牢の鍵をくすねて、ついでに衣装と覆面を、自分の服ととりかえた。格子の外に出て牢を閉ざす。あまりにあっけない逃走劇だ。牢の鍵は、廊下の適当なところに捨ておいて、カグはひとまずあたりを見回した。身体に力が入らず、少しふらつく。女のしていた覆面をかぶっているのだから、挙動不審にならなければ、そう簡単につかまりはしないだろう。
短い廊下の先に、階段があった。カグの入れられていた牢は一番奥にあって、廊下の横にはもう二部屋の岩牢がある。ゆっくりと階段を登ると、すぐに地上にでた。明るい光。どうやら昼間だ。カグはまばたきして目を慣らした。
「なんだ、ここは……」
わずかに人の気配はあるが、そこはどう見ても廃墟。くずれかけた石造りの家が、かろうじて一つの集落のようなかたちをしている。元は立派な石畳だったのだろうところには、大木の太い根が張って、見るかげもなかった。周りは鬱蒼とした森で、出てきたところを振り返っても、ただ、地下へと降りる階段が見えるだけだ。周囲には、同じように地下へとつづく階段がいくつか見える。どうやら街の機能は地下へともぐっているらしい。
「これが、赤い蝶か」
少し前のカグだったら、多少の危険をおかしてでも、赤い蝶の内情をさぐろうとしていただろう。しかし、今のカグは、そんなことには興味がない。あの女が気づいて騒ぎ出す前に、ここから逃げなければいけない。そう、たしか、川があると言っていた。流れに乗って泳いでいけば、ここからはやく離れられる。
カグは耳をたよりに川を探した。かすかな水流の音を聞き、たどりついたのは、幅は狭いが、流れのはやい川。カグは覆面をとって、川面に顔を近づけた。深さもある。ちらちらと日光を反射して泳ぐ魚。途端に、おそいくる強烈なめまい。
はっとして身を引くまもなく、カグは水の中に落ちた。
戻る