どうやって与えられた部屋に戻ったのかは覚えていない。部屋を出るときに、ひどく気遣わしげな表情のスイと目があったのだけ、鮮明に記憶していた。その、色素の薄い瞳を。
どうすれば、民とこの国を救えるのか。
ぼんやりと、窓の外を眺める。雲ひとつない青空に、鳥が一羽舞っていた。
「殿下、陛下がお呼びです」
遠慮がちに扉を叩く音がして、入室を促すと、女が入ってきた。
「…か、」
カグ、と言おうとした。その女が、月の民だったからだ。立ち上がりかけていた身体は、しかしまたぐったりと長椅子に沈んだ。女が微笑んだ。
「わたくし、サクと申します。殿下のお話は、いつもカグから聞いておりました。カグは、今は近衛詰所におりますが、帰ってからずっと殿下の事をきにかけていますよ。陛下とお話になられて後、連れてまいりましょう」
ふわりと微笑んだ表情は、カグのきつい顔とは似てもつかないが、カグの知り合いだということで、マツリはほんのすこし緊張をといた。
「ささ、まいりましょう。陛下は奥の間でお待ちです」
せかされ、部屋をでる。先にたって案内するサクの背を追いながら、マツリは尋ねた。
「あなたも、近衛士なのか?」
「さようでございます。わたくしも見ての通り月の民でございますので、親交が深く、度々カグと連絡をとっておりました。ですので、殿下のことはよく存じております」
一瞬振り返ったサクは、また微笑んだ。
「会議、お疲れ様でした。カグはたいそう心配申し上げておりましたが、やはり殿下には辛かったでしょう……重臣たちの真意を見ぬくことは」
それはどういう意味だ、と問いかけようとしたところで、サクは立ち止まり、片手で扉をさししめした。
「どうぞ、お入りください。わたくしは、ここに控えております」
中に入ると、父が椅子に腰掛けていた。机をはさんだ反対側に座るようにうながされて、腰をおろす。
「わかっただろう、あれが私の家臣だ」
帝は、前置きもなにも無しに突然そう言った。その顔には深い苦悩が浮かんでいた。マツリが何も言えずに黙っていると、帝はひとりごとのように続けた。
「私にはどうにもできぬのだ。みな、亡き父の代からずっといる臣か、世襲でそのまま居座っている者たちなのだ。交易が開かれるようになって、皇国は一時期、ずいぶんと荒れただろう。その戦乱の中でのしあがってきた者達だ。……お前を、彼らにあわせるべきではなかったな」
そして、帝はまっすぐにマツリを見た。
「私も、そなたの言うことが最良の策だと思っている。まず、聞かせてくれぬか。そなたが、どのように考えているのか」
「……私は、さきほども申し上げたように、上流四都市の、かつて水路に水をひいていた水門を開くべきだと思っています。国が水門を閉じさせ、民は混乱し、思うように水をひけなくなった田では稲が死に、民は飢え、国を恨んだ。私達は、海に近い王都と港の利便性を求めるあまり、上流をないがしろにしすぎたのです。それでも、交易によってこの国は豊かに栄えているからよいものの」
「なるほど」
帝は、頷いて理解をしめした。それに勇気づけられ、マツリは言葉をついだ。
「確かに、民は反発するでしょう。国が勝手に閉ざし、奪った暮らし。それをまた勝手に奪おうとする。何のための国だ、と、民は怒るでしょう。そこに、人員を動員して新たな水路を掘らせることなどできません。私は、護衛と共に身分をかくして各地を旅して回りました。上流四都市にも何度か訪れ、親しくしているものもおります。私達ならば、彼らを説得できるかもしれないのです。ですから、父上、父上から家臣たちを説得してはいただけませんか、父上の言う事ならば、帝の言う事ならば、重臣たちも聞くのではないのですか」
帝は、険しい顔で息子を見た。そして、深いため息をついた。
「それは、出来ぬ」
「なぜ!父上は…」
「聞け」
強い口調で続けようとするマツリを、帝は遮った。
「私は、そなたの言うことをまこと理解しておる。私が出来ない、と言ったのは、それではないのだ。……祭、そなた、なぜ、重臣たちがああもそなたの言うことを否定しようとしたのか、分からぬだろう」
皇子は的をいたれて頷いた。
「だろうな。そなたは長く、宮を離れていた。宮には、宮にしかない考え方がある。……ここは、己の富と権力を守ろうとする者達の巣窟なのだ」
帝は息子に、まさにスイが推理していたのと同じ事を聞かせた。
「しかし父上、私は家臣たちを断罪して処罰する気などありません」
「そうだろうな。だが、頭の固い、目先しか見えておらぬ臣はやみくもに恐れている」
そして、宮の暗い部分を見て呆然としている息子に、帝さらに厳しい現実を突きつけた。己の無力と共に。
「そなたの案を断行するだけの権力を、私は持っている。しかし、それを止めるだけの兵力を、家臣たちは持っておるのだ。彼らが手を組んで反乱をおこせば、私とそなた、そして近衛兵だけではどうにもならぬ。私達の血筋は滅び、この国は本当に、武力だけで治められる、恐怖政治を行う国になってしまうだろう。私が知らぬ間に、政治は私の手の及ばぬところへ行ってしまったのだ。今更後悔しても、私にはどうにもできぬの。ただ、民に不利益がおよばぬように、綱渡りをすることしか、できぬのだ。」
帝は、ひとつ息をついた。
「だが、そうだな…この国は、変わらなければならない。腐りきった重臣たちにがんじがらめにされている私とは違って、そなたは幼き頃に宮を離れ、柔軟に改革を行う力を持っている。いずれは、そなたがこの国を治めるのだから、足かがりを作る頃合いだろう。そなたたちのおかげで、私は目を覚ますことが出来た。礼を言うぞ」
帝はふいに、目に強い光をうかべた。
「今すぐに、とは言わぬが、長い目で見ることのできる、したたかな家臣たちは、いずれそなたにつくだろう。私も少しずつ説いていこう。……問題は、目先の水害だ」
そして、帝は皇子に言った。
「演技は、得意かな」
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