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 夕暮れ時だ。烏が渡る空。
「ああ、疲れたなぁ」
王都から海へとながれる大きな河の橋の上に、二つの人影がある。
「すぐそういうこと言うの、やめろ。おとなしく座って講義を聞くのに嫌気がさしたと言っていたのは嘘か」
「いやまあそれも嫌なんだけどさ」
ため息をついたのは、女。銀色の長い髪を無造作にうなじでしばった、月色の目をした女だ。
「仮にも皇太子だろう?あと数年で、宮から出ることすらままならなくなるのに、今からそんな調子で大丈夫なのか」
背の高い青年はそれを聞き流し、片手をかざして、沈んでゆく太陽をながめる。こちらは漆黒の髪、瞳は深い水底のような色。
 小さく見える王宮の、そのまたはるか向こうへ太陽は落ちていく。赤い光が彼の顔をてらした。そんな皇太子の様子を無言でみつめて、彼女はふたたびため息をつく。
「今のうちだからこそ、か」
諦めのまじった声。この皇太子が宮殿にもどるとき、それはこの皇太子が永遠に自由を失うときだ。
「ごめんよ、カグ」
太陽から目をそらし、背の高い皇太子は、隣に立って川面をぼんやりと見おろしている彼女に笑いかける。
「感謝してる」
眉をよせて、申し訳なさそうに笑う青年の顔をまじまじと見た後、カグはけらけらと笑いだした。
「ああ、そうかい。まあ好きにすればいいさ、泣いても笑ってもお前が宮に縛られるまで、あと二年。それまでに充分国を見てまわるがいいさ」
 カグは身体を反転させて橋の欄干に体重をあずけた。銀色の髪が夕日を背負って燃えたつような赤に染まる。彼女は、我らに龍のご加護を、とつぶやいた。それは、祈りに近い言葉。
「さて、行こうかね、マツリ。まだ宿をとってないんだ」
皇太子が頷くのを確認して、カグはさっさと歩きだす。町民の格好をした皇子は、夕焼けの街にまぎれていった。

 皇子が町民にまぎれている、というのは周知の事実だった。王宮へと差しむけられる刺客から、確実に世継ぎを守るために帝がそうした、というのは国中の誰もが知っている。木は森に隠せ、人は街に隠せ。その皇子に腕のたつ近衛兵がついていて、皇子は守られながら、密かにつかわされる養育係から帝たる役目を学ぶのだ、ということも。
 しかし、皇子の姿を知るものはなく、その御年でさえも確実に知っているものはいない。それこそが、皇子を刺客から守るための工作だったからだ。皇子は庶民のあいだで、最低限己の身を守れるようになってから、二十歳で宮殿へもどるのだと言われている。
 刺客、というのには語弊があるだろう。刺客というよりは、暗殺者の集団だ。その存在を説明するには、皇国がたどっている歴史を紐解く必要がある。
 この皇国は、北の大陸の南端につきだした半島の上に位置している。
 長らく独自の文化を発展させてきた皇国は、東の海の向こうから商業船がやってくるようになって、大きな変化と発展をとげた。大陸の国々と、海の向こうの国々との交易の要となったこの国は、その地の利から、大陸の国々に幾度となく侵略されるようになった。必然、皇国は武装化の一途をたどり、ついに国々は油断なく狙いながらも、皇国に手をだそうとはしなくなった。 
 そして、その武装化の影で、半島に存在していた小さな小さな王国が一つ、滅ぼされていたのだ。
 その王国の近衛兵達の生き残りが、暗殺者の集団となって今も帝を狙っている。その集団はみな一様に身体のどこかに赤い蝶の刺青をしていることから、そのまま「赤い蝶」と呼ばれるようになった。しかし彼らも、市井にまぎれた皇子を探しだすことはできないでいた。
 民でさえも、思いもしないのだ。まさかその皇子につけられた近衛兵が、女だということは。

 王都より海へさかのぼった一つの街。安宿を訪れた二人連れの片方を見て、宿の主人は片眉をあげた。
「こりゃ珍しい、姉ちゃん、月の民かい。兄ちゃん、おっかねえ女をつかまえたな」
 銀色の髪に月色の瞳は、月の民と呼ばれる放浪の民族の特徴だ。妖面だが見事な術を使い、月の出る夜にあらわれる、などと言われていることからこう呼ばれるようになったが、近頃はとんと見られず、代わりにちらほらと民草にまぎれているのが確認されるようになった。おっかない、というのはその怪しさからなのだろうか。
「ご主人、宿を一晩お願いできるかな」
 女、……カグは、主人の言葉を気にもとめずに帳場の前に立った。カグもマツリも、そういった間柄に見られることは慣れていたし、そう思わせておくのが一番いいと知っていた。男女の連れで、一番自然な組み合わせだからだ。
「はいよ、部屋はどうなさいます?」
「一つで」
ほう、と主人が笑みを浮かべる。嫌な笑みではない。だが、意味深な笑みではあった。
「あいよ、承りました。ご案内しやす」
当然のごとく、警護の問題だったが、主人がそれを知ることはない。








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