9 | ナノ




 泳ぐようなイメージで路に降り立つと、不思議と重力のようなものを感じた。普通に歩けるようだ。しかし、周りは相変わらず何もない闇の空間で、歩けども歩けども何かがあるようには見えない。
「アンドラスと話をつけるって言ってもなあ。こんな調子じゃ魔族の一人にも会えねえぞ」
伊勢がぽつりとつぶやいて、葉月を振り向いた。葉月はその視線をうけて、仕方ない、とでも言いたげに肩をすくめた。
「喚ぶよ。あいつの言うことなんて信用できないけど」
葉月の契約しているのは、魔族。かなりの力の使い手ではあるが、息をするように嘘をつくその魔族の名は、ベリアル。
「ベリアル!気付いているんでしょう、ここへ」
「はいはい、ご主人様はせっかちなことだ」
間髪入れずに答える声と共に、美しい青年が姿を表す。肩にかかる薄い金色の髪と、翠の目。長身の悪魔は表現しがたい形状の、純白の衣をまとっている。ベリアルは優雅な仕草で膝をついて、葉月を見上げた。
「ご用件は?」
優美な曲線を描く口をぴしゃりとたたいて、葉月は使い魔を睨む。
「アンドラスと話がしたいの。呼んでくれない?」
伊勢と北宮に背後に立たれて、悪魔はそれでもふわりと品のいい笑みを浮かべた。洋介は葉月の後ろに立っている。
「奴は今現世に行ってますから」
その答えを聞いて、葉月はため息をついた。落胆ではなく、呆れからのため息を。
「言い方を間違えた。いい?ベリアル、命令。アンドラスをここに呼びなさい。あんたが嘘をついているかどうかなんて、確率から考えたら一発なんだから」
ベリアルは、悲しそうに眉をよせたが、葉月がそれを見て再び口を開こうとする前に、悪びれない笑顔に戻った。
「まったく、ご主人様にはかなわないなあ。いいでしょう、呼ぶって言ったって、どうせ奴は来ない。実力行使の許可を」
「許す」
「有り、難く」
優美な笑みが凶暴な色をはらんだかと思うと、美しい青年はかききえた。
「…いつもこうなのかな」
「っぽいね。葉月の慣れようからするに」
「うわ…大変だな」
使の二人がこそこそ会話を交わす間に、ベリアルは再び現れた。右手に、醜悪な形相の悪魔をひっつかんでいる。
「連れてきましたぜ、こいつがアンドラスです」
ベリアルは、その悪魔をぽいっと放り出した。すかさず逃げようとした悪魔を、北宮の結界が阻む。いつのまに用意したのかは知れないが、北宮の結界は強固だった。わめきちらす悪魔を指さして葉月がベリアルに指示を出すと、使い魔は優美な笑みを浮かべて、人差し指から閃光を放った。黙りこむアンドラス。悪魔は結界の中でついにひらきなおった。
「へっ、ベリアルがいねえとなんにもできねえ人間ふぜいが、オレサマに何の用だよ」
葉月の表情が怒りに歪む。ベリアルはそれを面白そうに傍観していた。
「いいぜ、その怒りはオレの力になる。あの人間の魂、晴明が囲っていやがるが、美味そうな匂いがぷんぷんしやがる。お前の怒りが、あの魂を弱らせる」
アンドラスのその言葉を聞いた葉月が、攻撃に転じようとするのを、洋介と使の二人が必死でとりおさえた。葉月の力は鬼のように強い。契約している悪魔の力が、魔界にいることによって増幅されている影響を受けて、契約主の力も強まっているのだ。自分をおさえこむ婚約者と使に回し蹴りを放とうとした脚は、間一髪のところで伊勢の護符によって沈められた。
「葉月落ち着いて!アンドラスを殺せば信は戻らないぞ!」
慶の声が届いているのかさえ定かではないが、葉月はがっちりと全身を護符で拘束されて静かになった。
「そうだぜ、オレを殺せばあの魂は冥界に落ちて二度と戻らない。それだけじゃねえ、オレを殺したらオマエら、魔界を敵に回すことになるんだぜ」
ぐっと息をつめる洋介。伊勢が、唇を噛む。そう、人間が魔族を手に掛けることは、すなわち魔界を敵に回すことになる。同じく魔族が人間を殺すことも禁忌なのだが、アンドラスの場合、直接手を下したわけではない、というところが全ての免罪符になってしまっているのだ。
 伊勢が一瞬力をゆるめた隙に、アンドラスは暴れだした。北宮が呻く。芙紀乃が、手を貸そうと動くと、北宮は彼女に首をふってみせた。待て、と言っているらしい。
「なんで…!」
それでも強引に炎をかけようとした芙紀乃は、北宮を見て動きをとめた。
「…何」
北宮の輪郭が一瞬ぼやけた。白い靄のようなものが、北宮から発せられている。背景が暗闇なのでそれがよりいっそう目立った。
白い靄は北宮のすぐ脇に吸い寄せられるように集まり、白い光の玉になる。それがするすると伸びて、北宮よりさらにひとまわり小さな人間の輪郭を描いた。
「いやだわ、ここ、ひどい匂いがする」
透き通った声がそう言って、その輪郭はぱっと靄を晴らして、白い女になった。白銀の振り袖、その袖口で口元を覆った、白銀の長い髪の女。
「あなたね、匂いの元。…凍ってしまいなさい」
もう片方の手をついっと伸ばし、女は北宮の結界にそうような形で薄い氷の膜を張った。アンドラスは驚いた姿勢のまま固まってしまい、声だけは健在だ。
芙紀乃は納得した。なるほど、雪女に炎は敵だ。ここは自分の出番ではない。
 アンドラスの動きを封じることは出来たが、洋介と伊勢にとりおさえられた葉月は冷静に判断を下せる状態ではないし、ベリアルはそれを傍観しているし、北宮も全力を結界にそそいでいて、唯一自由な芙紀乃と慶は困り果てた。当の本人たちである、実行班員はみな手を離せない状況に陥ってしまった。
「で、俺達にどうしろと?」
慶のこまりはてた声は、アンドラスのわめき声にかき消されて、全く同じ思いでいる芙紀乃にしか届かなかった。



心霊対策本部・魔界





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