しんきろう | ナノ




地下鉄を降りて池袋の地上に出ると、そこは照り返しで無数の太陽がきらめく異界だった。
とまあ有名な雪国の冒頭を真似してみたわけだが、我ながら全くあてはまっていない。ついでに今日も我らが豊橋商事の在する池袋東口は猛暑に見舞われている。地球温暖化にヒートアイランド、ますます救いようのない暑さがこの街をおおっていた。
プレゼン帰りのグリーン大通り、午後三時。蜃気楼がゆらめく。

あまりの暑さに私はようやく自動販売機で飲み物を買うことを決意した。たぶん私は軽い脱水症状を起こしている。
あと50mほど行けばいつもは素通りする赤い自動販売機があるはずだ。

少しだけ歩調を早くしてガラス張りの15階建てのビルの前を通り過ぎようとした時、突然ひどいめまいに襲われた。あわててそのビルの正面に生えている木に寄りかかり、目眩が収まるまで少し休もう、と鞄をかかえ、何とも無しに反対側の通りを眺めた。


ぞくり、と。嫌な寒気。

そこに、自分がいる。反対側の通りで、こちらを向いて立っている。鏡などではない。証拠に、反対側の自分のうしろに木などうつってはいなかった。他人の空似ではない。あれは、自分だと、そういう確信があった。

割と距離があるのではっきりとは見えないはずのその自分の顔がゆがむ。笑った。

いやな、笑み。

見いつけた、と笑うオニ。その手がついと上がって、こちらにのばされる。まるで首を閉めようとしているかのような、その動作。

あれがドッペルゲンガーなら、私は死ぬのだろうか。ドッペルゲンガーに合うと数日で死ぬ、というのが最近はやっている怪談だ。ただでさえ熱中症気味なのに。
うえ、きもちわる。

かがみこもうとした瞬間、肩を叩かれた。一瞬反対側の自分がいるのではないかと肝が冷えるが、すぐに聞こえる「大丈夫ですか」という男の声に顔をあげる。

髪をうしろになでつけた、背の高い男。多分年齢は30手前といったところだろう。ビルから出てきたばかりなのか、ひんやりとした空気を感じた。もう一度彼が、大丈夫ですかと声を発した。
「あ、はい大丈夫です」
そう言うと彼は小さく笑う。不思議なオーラ。
「熱中症ですね。少し休んでいったらどうですか」

彼が指し示すのは、すぐうしろのガラス張り15階。やはりそこから出てきたらしい。エントランスロビーで涼んでいけということだろうが、私は丁重にお断りさせていただくことにした。ほんのちょっとの不信感と、遠慮が9割。なにしろ会社はあと2、3分歩けばたどりつく距離だ。

「いえ、すぐそこが会社ですので。お気づかいありがとうございます」

彼がゆっくりと私から一歩離れる。

「分かりました、・・・ちょっと待っていてください」
そのまま小走りにビルに入る。私はぼんやりとつったっていた。ふと反対の通りに目を向けると、そこにいた時分はいつのまにか消えていた。蜃気楼の幻影だったのか、熱中症による錯覚だったのか。

(いや、でも、あれは)

確かにそこにいた。そんな気がした。

男が戻ってきた。中の自動販売機で買ったのか、冷たい緑茶のペットボトルを差し出してくる。

「どうぞ。脱水症状は命取りになりかねませんから」
頭を下げてそれをうけとる。知らない銘柄だった。お気をつけて、と言って彼はビルに戻って行く。もう一度、ありがとうございましたと頭を下げた。




会社に戻ると高柳と美影が私と優香の席で営業の書類を黙々と片付けていた。たぶんあの怒髪天様をなだめすかしたのだろう、小さなソファーで優香がのびている。高柳が気付いておかえり、と声をかけてきた。
「薫が自販つかうなんて珍しいね」と付け加える。美影が「さすがの薫もお金もったいないとかいってられないくらいには暑いってことか」と納得した。
いや、と事情を説明すると、二人は同時にがたりと立ちあがった。なんなんだ。
「そのナイスガイの名前は?顔は!電話番号は!?」
「いや、知らん。顔はまあ渋いイケメンって感じだけど。…まあまた会える気がするし」

高柳が椅子に座る。

「だよねー薫が男に自分から電話番号とかきかないよねーうん。……え、ちょっとまってその後なんて言った?」
「だから、また会える気がするって」

高柳フリーズ。美影が心底心配そうな顔で聞いてくる。「薫、あたま大丈夫?なんか変なもんでも食べた?」

やっぱり私の言うようなことじゃないかと思いつつ、まあたぶんと適当に返答して、いつまでもみつめてくる高柳と美影ににっこりとほほ笑む。


「で、仕事すすんだの?」


蜃気楼




(熱中症には気をつけましょう)
(あ、かおるおかえりー)
(優香おはよう)
(プレゼンどうだった?)
(まあいつも通り)

戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -