詳しいことは明日決めよう、と言って矢佐原本部長はデスクに戻った。伊勢が失礼しました、と挨拶をしてドアを開ける。桐村にうながされて芙紀乃と慶は廊下に出た。
「で、あいつらんとこ行くんだったか?」
「うん」
伊勢が確認してエレベーターの5階を押す。ふわ、と体が持ち上がるような感覚が訪れ、去った。
伊勢が開いたエレベーターの扉を抑える。案外紳士なのだなと芙紀乃は思った。
桐村が一室のドアを開ける。
「ただいまー」
「おかえり!」
真っ先にその声に応えたのは身長の高い男。椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、桐村に駆け寄る。
「シノブが今日中には帰ってこないんじゃないのとか言うから心配で心配で。今夜は寝れないかと思った」
「大げさだな…」
ふと壁にかかった時計を見ると午後11時をすぎたところだった。部屋の入り口で桐村に絡む男をあきれ顔で見つめる芙紀乃と慶を後ろから北宮が押した。
「入って」
高庭、というらしいその背の高い男ともうひとり、部屋の奥にいた男、多分シノブ、に伊勢が経緯を説明した。
「へえ、じゃあそいつら見習いになるってことか?」
「いや、そういうわけじゃねえよ。おれらは見させてもらったが、こいつらはちゃんと戦えるしそういう知識もある。足りないところは逐一補足していけば事足りるだろ」
桐村がさらりと説明してくれる。実行班員に選抜されると半年は先輩の班員について見習い期間があるらしい。その間単独行動は出来ず、先輩班員に心霊対策の知識などをみっちりたたきこまれるというわけだ。
「いいんじゃないの、おれたちも助かるしね」
シノブが穏やかな口調でそう言った。慶と似た雰囲気をまとっている男だ。
やはり高庭をシノブも二十代といったところだろう。
「ちなみにこいつは遠野シノブ。信じるって書いて一文字でシノブって読むんだぜ。ノブとか間違えると怒るからな」
はははっと笑う高庭。
活発そうな男。体育会系だろうと芙紀乃は見当をつけた。しかしまあ、二人と出会った三人もしかることながら高庭も遠野も、順応能力が高い。こういうことに慣れているのだろうか。
お互いに軽く自己紹介をしてお開き、という事になった。ちなみに現役の実行班員は伊勢、桐村、北宮、それとこの高庭、遠野の五人らしい。そりゃ人手不足にもなるか、と慶が頷いた。
やはり桐村に案内されてエレベーターで14階に上る。彼女の言うことには、ここの13階から15階はすべて宿泊施設になっているらしい。
「実行班員…桐村さん達はこれから家に帰るんですか?」
慶が問いかけると桐村はいやいや、と手を振った。
「あたしたちも泊まり。6階に専用の宿泊施設あるから、五人みんな泊まれるの。伊勢と宮さんは実家京都だからここに住んでるようなもんで、あたしと洋介と信はそれぞれ首都圏に一人暮らし。ま、年の半分以上はここに泊ってるけどね」
ちなみに洋介とは高庭の下の名前だ。どうも彼女達三人は学生時代からの友人らしい。
「で、二人は一部屋の方がいい?それとも別々?」
「部屋があるなら別々でお願いします」
いたずらっぽい笑みを浮かべて聞いてきた桐村に慶がそう返すと、彼女はやれやれといったふうに溜息をついた。
「ま、そんな関係じゃないとは思ってたけどさ」
つまらん!と小さくわめいて彼女はエレベーターを降りた。
「ていうか部屋が無かったら一部屋でもよかったの?」
「まあね。私達大抵は野宿だったし、たまに旅館なんかに泊まってもお代浮かせるために一部屋だったから。なんていうんだろう、家族みたいな感覚で」
「ああ、そう」
どうでもよさげな、それはもう心底どうでもよさげな声で彼女がそう言った。
じゃ、ここの二つ使って、トイレはつきあたりの吹き抜けの横、水道もあるから、と説明してあ、そうだ、と桐村が二人に向く。
「あたしのこと葉月でいいよ。二人も下の名前で呼んでいい?」
「わたしは全然オッケー」
芙紀乃がそう言うと、慶も頷いた。
「葉月さんでいい?」
「いいよ。じゃ、あらためて芙紀乃、慶。これからよろしく」
何かあったら六階ね、と葉月は言い残してエレベーターで降りて行った。
・・・・
朝六時、なんとなく目が覚めた芙紀乃はベッドの上に起き上がった。ふかふかとしたベッドは野宿、良くて布団に慣れた芙紀乃にはなじみのない物だったが、彼女も、そして慶も基本的にどこででも眠れる性質なのでさして問題ではなかった。
今更ながら、昨日は夕食を食べていないことを思い出す。部屋に小さなシャワールームが付いていたのでその心配はなかったが、それにしてもシャワーはあるのにトイレはないとはどういうことだと芙紀乃は怪訝に思った。何か特別な理由でもあるのだろうか。
ともかく靴を履いて、昨日葉月に言われた場所に水道を探す。冷たい水で顔を洗うとようやく頭がすっきりしてきた。
15階ぶんを貫く、10m四方はあろうかというふきぬけの、ガラス張りの壁面から青いそれが垣間見える。乱立するビルも。サンシャインはあいにくこの角度からは見えないようだった。
「おはよう」
いつのまに起きてきたのか慶が隣に立っていた。
キュ、と蛇口をひねって顔を洗う慶に尋ねる。
「おはよう。眠れた?」
慶が首に掛けたタオルで顔をふいて、ばっちり、と言った。
小さく笑った彼は芙紀乃の髪をなでつける。
「ねぐせついてる」
「知ってる」
彼女の肩よりすこし長い髪はいつもは後頭部でくるりと丸められている。
「降りてみようか」
完全にやることのない状態を打破しようと慶が言った。
「うん」
とりあえず10階に降りてみる。昨晩訪ねた部屋の前で気配をうかがったが、どうやら誰もいないらしい。ついで6階に行ってみるがここも静かで中の様子は分からなかった。
吹き抜けの方でコーヒーの香りがしたので二人はエレベーターにはもどらず、その渡り廊下の手すりを乗り越えて反重力的な動きで香りの出所を探した。
ふわりと4階の廊下に降り立つと、ちょうどタイミング良く部屋のドアを開けて出てきた伊勢が挨拶もなしに溜息をついた。
「…ったく、お前らにエレベーターを使うっていう発想はねえのか」
ドアをふさぐように立っている伊勢を押しのけてその後ろから北宮が出てくる。
「おはよう」
こっちは礼儀がなっていた。二人が挨拶を返すと、彼はにこりともせずに出てきた部屋を指さす。
「ここ、調理室。で、」
廊下をはさんだ反対の部屋をさす。
「こっちが飲食室。コーヒー淹れてあるけど、飲む?」
飲食室はしゃれた内装の施された広い空間だった。ここの建物はエントランスを入ってまっすぐつきあたりにエレベーターがあり、二階以上はそのエレベーターを降りると手前に向かって真っすぐ廊下が伸び、吹き抜けに突き当たってT字路のように廊下が左右に分かれ、その分かれた先両方に階段があるという左右対称の造りになっている。ついでに吹き抜けの両脇の空間、つまり階段の横にトイレ、水道、自販機などがそろっている。
飲食室の窓は全開で、さすがに4階ともなれば排気ガスの影響も少ない、まあ割と爽やかな風が吹き込んでいる。
「まあ、私達は自由にあっち側とこっち側行き来できるから、必要なものがあったらこっちで履歴書の要らないバイトなりなんなりして金作って買って、あっちに保管、必要な時にとりだすって感じかな」
「着替えとか、一週間分ぐらいあっちに置いておいて洗濯物がたまったら一気にコインランドリーで洗ったりね」
北宮が、ひとつも手荷物を持たずに彼らについてきた二人の生活を不思議がったので、道中どうしていたかを説明する芙紀乃と慶。
さすがに心霊対策本部などというキテレツなところにつとめているだけあって、あっち側、をいちいち“あの世とこの世のはざま”などと説明したりの手間は省いても差し支えなく話が進んだ。
便利だな、と相槌をうった伊勢に、まあね、と曖昧に芙紀乃が返した。
伊勢が立ち上がる。
「おれは外で一服してくる。あいつら八時には5階にそろうはずだが…それまで適当に時間つぶしておけ。部屋にテレビとパソコンあんだろ、自由に使っていい」
どうも彼はヘビースモーカーらしい。
真面目な表情で彼は北宮にむいた。
「若様はいかがなさるおつもりで」
「ん、おれは部屋に戻る」
「分かりました」
では、だかじゃあ、だか曖昧な挨拶をして伊勢が出ていく。エレベーターではなく階段を使うらしい。慶が“若様”という単語に首をかしげているので芙紀乃がようやく解説をいれた。
「北宮、ってほら、安部晴明の子孫の土御門と並ぶくらいの陰陽師の家柄でしょ。おおかた宮さんが次期当主で伊勢さんがお世話役、ってところじゃない。違う?」
北宮がうなづく。
「あってる」
慶は一晩越しの疑問を解決してすっきりした様子だった。まあ大方見当は付いていたのだろうけれど。
コーヒーのカップを片付けて、三人はそれぞれの目的地に向かってエレベーターに乗り込んだ。
心霊対策本部・早朝
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