そらにわ*novels | ナノ


 ふたりぼっちの恋




「……ッ、」


窓もドアも閉め切った決して広いとは言えない部屋にまた一つ、湿り気を帯びた吐息が落ちる。
まるで世界からこの部屋だけが隔離されたような、そんな錯覚を起こし男は眉間に皺を寄せた。

くちゅくちゅと粘ついた水音と、荒い息遣いの合間に幽かに聞こえてくる甘く鼻に掛かった声が引っ切りなしに耳朶を擽る。
それに混じって時折思い出したかように鳴る電子機器の駆動音が、この酷く異様で、そして淫らな空気に溺れてしまいそうになる男の意識をギリギリのところで食い止めていた。

視線を下に落とせば、自身の股間に顔を、否、全身を埋めている小さな躰が嫌でも目に入る。その白い肌が踊る度に、間髪入れずにやってくる快感の波。
寄せるばかりで一向に引いていってくれない熱にじわじわと逃げ道を潰されていくその感覚に、火照る躰とは裏腹にぎくりと腹の底が冷えた。

―――どうしてこうなった。

漏れそうになる声を全力で噛み殺し、男は喉の奥で呻いた。
だが一生懸命に自分に躰を寄せてくるそれを無理矢理にでも振り払う事が出来ないほどには、自分が毒されている事に彼は気づかない。
理性と肉欲が鬩ぎ合い、揺さぶられ、くらくらする頭を抱えて、男の意識は数日前へと遡る。



・◆・◇・◆・◇・◆・



(チッ…またか)


カタカタと淀みなくキーボードを叩くその指もそのままに、男は毒づいた。
眼前のディスプレイからほんの少し意識を外に向ければ、カサカサと紙を擦るような小さな音を拾う。
研究に没頭してしまえばそれほど気にもならない程度のものだが、一度気にしてしまえばどうにも耳に障る。

国内でも有数の規模を誇る研究所に所属する者として割り当てられた、女っ気の欠片もない個人の研究室。碌に掃除も手入れもしていない荒れ放題の部屋だ。野鼠の一匹や二匹、棲み着いていてもおかしくはない。
だが、この研究所には国中から優秀な研究者が集められているだけあって、その研究内容も多種多様だ。動物実験を主としているラボも少なくない。データが第一の実験施設の方にまで侵入り込まれるのは非常に拙い。


「…面倒臭ぇ…」


とはいえ、仮にもこの研究所に所属している一所員として、その存在に気づいてしまった以上、放置しておく訳にもいかないだろう。
下手な微生物や寄生虫の類を持ち込まれたりしたら、それこそ堪ったものではない。どんな汚染事故が起こるともしれない、そしてもしそうなった場合、研究所が被る被害の莫大さは男に重い腰を上げさせるには充分過ぎるほどのものだった。

殺鼠剤の買い置きはあっただろうか、まあ無ければ適当に作ってみるか、などと考えを巡らせながら、男は今手掛けている研究に一区切りつけるべく、再び意識を目の前のパソコンへと集中させた。



そして数日後。

男は周囲から無愛想と定評のあるその顔を驚愕に引き攣らせて、唖然としていた。
目の前には針金で作られた不格好な小さい籠が鎮座している。
朧気な記憶を頼りに作ったものだが、気休め程度の気持ちで仕掛けておいたものなだけに、まさかこんな物に獲物が引っ掛かるとは思っていなかったのだが。
素人の作ったこんな罠に掛かるなんてどれだけ間抜けな鼠なのやら。とその間抜け面を拝んでやろうと気軽な気持ちで中を覗き込み、そして硬直した。

丸く大きな耳と、ひょろりと伸びた長い尾は、日頃見慣れたよく実験に用いられるマウスのそれ。だがそれ以外のパーツは、人間のものと相違ないそのイキモノは、針金の檻の中で途方に暮れて立ち尽くしていた。
ファンタジーじゃあるまいし、どこの世界にマウスの耳と尻尾を生やした体長15pほどの人間が居るというのか。居て堪るか。

自分とて研究者の端くれだ。遺伝子工学の分野に身を置いている以上、過去にも様々な突然変異を来した生物を目にしてきたが、目の前のソレは群を抜いて異常だった。遺伝子のエラーだとか、もはやそんなレベルではない。

白くて丸い耳をふるりと震わせ、こちらをじっと見つめてくる大きな碧色の瞳。そこに脅えの色がないのが少しだけ意外だったが、男は盛大に溜め息を吐いた。
生物学界に多大な波紋を投げ掛け兼ねないその生物に、研究者としての興味はあるが、それ以上の面倒事を抱え込む覚悟はない。見なかった事に出来ないだろうか、と半ば本気で考え始めた男に向けて、おずおずといった態で声が掛けられた。


「あの…」
「……言葉まで喋れるのか…」
「あ、はい…す、すみません…」


いよいよ現実離れした目の前の生物に、男はがっくりと顔を覆った。いい加減、頭がどうにかなりそうだ。
そんなこちらの心情などお構いなしに、そのマウスもどきはきゅう、と鼻を鳴らしてこちらを見上げてくる。


「あ、あの…私はやっぱり……殺されてしまうのでしょうか…?」
「………」


それが出来るなら最初からこんなに悩んではいない、と男は苦虫を噛み潰さんばかりの渋面になる。
確かに、このまま秘密裏に殺処分するのは簡単だ。だが半ば以上人間の姿に酷似している上に、人間の言葉まで発する生物を殺して何とも思わないような冷酷さは、生憎と持ち合わせていない。

深い深い溜め息の後、男は今一度籠の中のマウスもどきを一瞥し、


「…取り敢えず風呂だな」


その視線を受けたマウスもどきは、きょとりとその埃まみれの顔を傾げるばかりだった。