推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ #3

「──はっ!」
 目が覚めると同時に驚いてがばりと起き上がり、シャツの胸元を握って浅く呼吸をする。見慣れない部屋がどこであるかを思い出し、嘆息する。
「そうか、彩仁さんの……」
 寝起きで掠れ声になった。えも言われぬ漠然とした居心地の悪さは、慣れない環境によるものだろう。冷や汗を拭い、頭を小さく振った。ひどく気分が悪い。嫌な夢でも見ていたのかもしれない。
 ベッドから出てキッチンに向かい、コップに水を入れて一息に飲み干した。それでもまだ落ち着かない。綻びの原因が浮かばず、無意味にコップの縁を何度も摩った。
 ── ゼロだ。
 答えに思い至って指が止まり、顔を顰めた。何故浮かばなかったんだろう。学生、警察学校、公安、挙句の果てには潜入捜査。ここまで来たものだから、これからも共に進むのが当然だと信じて疑わなかった。オレは人生の半分以上を共に歩んできた親友と離れたんだ。なのに、情報流出の出処が分かるまでは戻れない。曖昧模糊とした状況に一人置かれていることがひどく歯痒い。
 退院までの数日を耐え忍べばいいのだ。通販で物資が届くはずだから、まずはそれを待とう。勝手に借りたスウェットだが、嫌な汗が滲んで気持ちわるいがあと少しの我慢だ。
 それまでは手持ち無沙汰だった。今朝は賞味期限が今日の食パンを焼いて、バターを塗ってむぐむぐと咀嚼する。

 昨晩、恩人に悪いとは思いながらも一通り部屋を調べさせてもらった。クローゼットから引き出しからあけて回ったけれど、何の変哲もない男の一人暮らしであった。家具を筆頭に物は多くないが、本棚は充実している。妹ちゃんが足繁く通っているのであればと思ったが、女性用品は一切なかった。渡されたスマホもサブ機らしく特段情報はない。
 滞在を推奨されたことからこの部屋にろくな情報はないのだろうが、小さな情報を繋ぎ合わせることは捜査の基本だ。けど、こういう時ゼロなら、兄ちゃんなら。そう考えずにはいられないが正直なところ精神的に参っていたので、本やパソコンの調査は明日に回すことにして、体力気力の回復を優先した。自分の服を洗濯乾燥機に突っ込んでいる間にゆっくりお風呂に浸かって疲れを癒し、スウェットを借りた。晩御飯にカップ麺を頂戴し、少し気持ち悪いが歯磨きはできなかったのでよくうがいをしてから休養に入って、今だ。
 頭は回るようになったけれど、心の奥底に沈む奇妙な違和感は消え去ることはない。また溜息をついた。待つのが得意なスナイパーであると自負していたのだが、思っていたより短気かもしれないな。何かしなければという強迫観念に近い思いで気もそぞろに本棚を調べはじめた。
「うわ、懐かしいな……」
 目に留まったのは警察学校の頃使っていた教本達だ。手に取ってぱらぱらと捲り、戻しては次を引っ張り出す。発行日や書き込み、それと昨晩発見した賃貸の契約書と照らし合わせると、彩仁さんは順当に大学に進学後警視庁警察学校に入った一つ後輩で間違いない。つまりは斎藤の同期か、と警視庁公安部の後輩を思い出した。戻った時に接点があったか聞いておきたい。懐かしの本からまったく知らないシリーズの実用書まで多数取り揃えられた本棚に暫く熱中した。

 インターホンで現実に引き戻され、そう言えば支援物資を手配してくれたのだったと思い出した。受け取ったダンボールには衣類と食品と少しの生活雑貨が入っていて、好意に甘えてタグを切って使わせてもらうことにした。後で返金とお礼を弾まなければな、とダンボールを潰しながら考えた。
 そう言えば朝も食べていなかったな、とニュースを見ながら昼食を兼ねた食事を摂り、食器を洗って片付ける。我ながら馴染むのが早い。
 午後はパソコンに向き合ってみたが、パスワードは分からないし、ハッキングの類はあまり得意ではないし、解析しようにもそのためのUSBメモリなどを今は持ち合わせていないので早々に投げ出してしまった。情報源がほぼテレビという現代人には辛い現実が横たわっていて、幾度目かの溜息をつく。彩仁さんの連絡を待つのは三日だけと決め、平日の昼下がりのバラエティから得られる情報はなさそうだとテレビを消してごろりとソファに転がった。
「あー……」
 何してんだろな、オレ。初日にして心が折れそうだ。オレのために大怪我を負ったらしい後輩を見舞うでもなく、親友兼同僚にひっそりと接触を図るでもなく、上司に報告するでもなく、つまりは動くのが怖いのだ。
 白いケータイに通知はない。ブラウザを起動して読みにくいネットニュースをちまちまと辿ったが、目星いものはなかった。
 切り替えて、家主のことを調べる。名前と住所、所属から経歴を洗う。これがガラケーでなければもっとスムーズなのだが、いちいち引っかかるのでうまく進まない。出身は分かったが、何故敢えて警視庁に、東都に就職しようと思ったのかは分からなかった。庁舎に戻って調べれば、かつて関わった事件やきっかけでも見つかる可能性はあるが、今は無理だ。 交友関係や部活を示すものも見当たらない。それどころかもうここに何年も住んでいる筈なのに、趣味嗜好が分からないことに気付いた。例えばCDやライブグッズ、楽器、DVD、ラケットやグローブ。キャンプ用品。プラモデル。アクセサリー類。定期購読している雑誌。収集癖もない。電子機器類は機能性を重視しているもののの強い拘りもなさそうだ。実用書は多数並ぶが娯楽小説はまったくと言っていいほどない。本棚にスクラップでも紛れていないかとチェックしたが、そんなものもない。趣味方面からプロファイリングを行うつもりだったのだが、ここまで何もない部屋はいっそ不気味だ。アルコール類もなく、調理機器や調味料も最低限だ。ミニマリストに近い。しかし、セーフハウスのように普段近寄らない部屋にしては水周りなどから漂う生活感がある。
 そこで手詰まりになった。

 その夜はレトルトカレーを食べてさっさと寝てしまおう思ったけれど、結局なかなか寝付けなかった。



 ケータイの震動で目を覚ます。三井の文字に慌てて通話ボタンを押した。
「──スコッチ?」

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