明日を奏でる | ナノ


▼ 変化

 その日、私は少しだけ緊張して、すっかり慣れ親しんだ店を訪れることとした。
「こんばんは」と声をかけながらそろりと扉を開く。
 バーの店内はいつも通りに仄暗い。少し早い時間にも関わらず、昴さんの姿をカウンター席に認め、目を瞬いた。
「──おや、こんばんは」
 妙に白々しいような気がするのは標準装備だったか。まあいいか、と彼の隣のスツールに登った。
「いらっしゃい、真生ちゃん」
「こんばんは。マスター、ベーカーズをロックでお願いします」
「かしこまりました」
 いつもより上質な酒精を頼む。マスターは微笑みを湛えて軽く頷いた。
「昴さんがこの時間からいるなんて珍しいですね。研究は順調なんですか? それとも抄読会でも終わりました? あ、学会発表?」
「……ええ、そんなところですね」
 彼の院生設定を用いた質問に、少し間をあけて曖昧な返事がきた。ちょっと意地悪だったかな。いや、意地悪というのはどんな研究ですかどんな論文ですか修論のテーマなんですか名前検索したら論文出ますよねなんて詰めて、その場で検索を始めることだ。よってセーフ。慌てる彼を想像してちょっと笑いそうになった。まあクールに躱されるのがオチだけど。
「機嫌がいいですね」
 おっと、うっかり顔に出ていたか。
「そう見えます?」
「ええ。何かいい事でもありましたか?」
 ふむ、ここはいずれバレる案件を報告して誤魔化そうか。決意したがいざ言い出すとなると、照れで少し言葉に詰まった。
「デートして、付き合うことになりました」
「おめでとうございます。今夜は祝杯ですね」
 いつも通りの笑みを浮かべ、マスターが言った。
「……マスター、知ってましたね?」
 私のジト目になど屈することなく、私からです、と静かにロックグラスを差し出した。
「ありがとうございます」
 祝ってくれるのは嬉しい。あったかくて、私にとって適度な距離感で、落ち着きで、この店が大好きだ。これからも通う気満々だけれど、頻度が少し下がるんだろうな。
「……は」
 マスターへの報告はいいとして、この場にはもう一人いたのだと視線をかの人物に向ける。
「噂は真だったか」
 半ば独り言のような響きだった。彼も零の意図を邪推して深読みして正解が見えず悩んでいるに違いない。しかし「知っている」前提を共有していない以上、私から何ら説明することもできない。対コナンくんと一緒、知らないフリ一択だ。
「──あー、なんか、恥ずかしいですね」
 などと照れてみせる。ちょっぴり恥ずかしいのは本当なのだ。
「有頂天になっているかと思いましたが」
「そりゃあ付き合いたてのちょー楽しい時期です」
「その彼氏をほったらかしてバーですか」
「透は仕事らしいので、私は今まで通りに過ごすだけですよ」
 適当に返しつつ、奢りになったバーボンを飲んで「おいし」と呟く。おいしいんだからこれは間違いなく体にいい。
「もしや、あまり会えないんですか?」
 あ、探りを入れてきたな。
「彼の本業が忙しくない時に会ったりするんで……ご心配ありがとうございます?」
 手にしたままのグラスの淵を親指で往復する。
「それとも、騙されてるんじゃないかとか、心配してます? 大丈夫ですよ、私なんかを騙すメリットなんてないですもん。そもそもいい人だし」
「普通、そういう選択肢は浮かばないと思うんですがね」
 やっべ墓穴だった。溜息混じりの彼に、指の動きが止まった。
「だって、普通、あんないい人が振り向いてくれると思わないじゃないですか。透じゃなかったら結婚詐欺とか疑いますよ?」
「自分から突撃しておいて、それは迷惑な話ですね」
「確かに?」
 くすくす笑って、もう一口酒精を送り込む。



「私は、すっごく幸せなんですよー」
 五杯目であるハイボールはもう半分以上なくなっている。一杯目はマスターが、三杯目、四杯目も今は奥のテーブルでゲームに勤しむ常連客が嬉々として奢ってくれたので、私は完全に乗せられていた。
「──それは良かった」
 静かに言ってグラスを傾ける彼は、やはりまだどこか不可解そうだ。話題は探偵左文字や研究や酒に料理、あちこち飛びつつも、こうして零の話に戻って来たのだから、やはり少なからず気になっているらしい。謎は解決しないよ。諦めるんだね。
「信じてます?」
 ええ、言って昴さんはグラスを傾ける。
「脱ひとりぼっちといいますか。私、東都に来てひとりぼっちだったから。あー、もちろん昴さんとかマスターとか、ミヤちゃんとかいますけど……でも透は別格なんです。何よりも誰よりも大切な人が、隣にいてくれて、笑ってくれて、幸せじゃないわけ、ないじゃないですか」
 だめだ、酔いに任せて誰相手に何惚気てんだか。それでも気分は高揚し、へらへらとだらしない笑みを御することはできない。
「じゃあ彼は、あなたに何を求めるんですか?」
「えー、手の届くところにいること、とか?」
 沖矢昴は沈黙した。あはは、ウケる。想定外だろう内容に言葉を失う男に満足していると、テーブルに置いたスマホがメッセージの受信を知らせた。
「しつれー」
 手を伸ばし内容を確認する。零からで、仕事が片付きそうなので今夜会いたい、家に行っていいか、という内容だ。よかった、普通に忙しいだけで無茶はしていないようだ。
『今どこにいる?』
 画面に追加のメッセージが現れる。
 バーで一人で飲んでる、と即座に返信した。バー通いの件は前に話をしたことがあるので、それで場所を聞いてきたのかもしれない。
『プレイか?』
『うん』
『迎えに行くから待ってろ』
 それはまずい気がする。なぜなら今この店には沖矢昴がいるのだ。うっかり鉢合わせ、うっかり殴り合い──無用なトラブルはごめんだ。心配してくれてるのは分かるけど、万一があまりにめんどくさい。
『ありがと。でも部屋少し片付けたいし自分で帰るよ』
 既読がついて、待つことしばし。了承の返事と共に、充分気をつけるようにという忠告が送られてきた。
 予定より滞在時間は少し短くなった気もするが、ポアロ以外でも零を優先するのが今の私のスケジュールなのだ。

 まだまだ酔いの抜けきらぬ家に零がやってきて、苦言を呈されたのはまた別のお話。

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