散る夢で君と二人 | ナノ


▼ 第二夜

「うわ、靄女か」
「そういう君は前の靄っ子だな?」
 不可思議な夢を見てからきっかり一週間後、私は再び空虚な部屋にいた。
「終わってなかったのかよ」
 言外に肯定するので、やはり先週の靄人間で間違いないらしい。
「みたいだねえ。私はあの後すぐに自分の部屋で目を覚ましたんだけど、君も一緒?」
「まあ、うん」
 曖昧に少年が頷く。
「……一応、部屋確認しとくか」
「そうだねえ」
 頷いて、立ち上がると靄の全身像が明らかになった。今回はパーカーにジーパンであり、私はシャツにチノパンだ。
「ん?」
「何」
「……いや、何でもない」
 こんなサイズだったか、と少し違和感があったが夢なのでその辺は誤差の範囲内だろうと思った。二人で窓、玄関、クローゼットと検めたが、先週と何ら変わりなく徒労に終わった。
「ダメだねえ」
「ダメだな」
 ローテーブルの定位置に戻って溜息をついた。
「……何か、お喋りする?」
 前回と違って、きちんと土曜を休日に使った私は些か元気なのである。エネルギーはあるが、あとはやる気の問題だ。
「何を?」
「悩み事とかないの? こう、無縁な赤の他人になら言えることとかさ」
「はあ?」
「例えば、そうだね。好きな子の一人や二人いないの?」
「そ、れはっ!」
「なんだ、いるんだ」
 分かりやすく言葉を詰まらせた靄少年は微笑ましく、薄くにやりと笑っていることで怒られそうなものだが、幸いにしてそこまで察されてはいないらしい。少しずつこの奇異な環境に慣れてきているのを感じた。
「クラスメイト?」
「違う」
「同級生? それとも先輩?」
 答えはない。腕組みして、苛立たしげに二の腕の上で動く人差し指を見た。
「あ、先生とか?」
 ぴたりと指が止まる。
「へえ、先生かあ。学校の?」
「違う!」
「夢なんだからもう言っちゃいなよ。減るもんでもないし。何の先生?」
 先生で真っ先に思い浮かべるのは学校の先生だが、この呼称はそれに限ったものではない。
「家庭教師か、それとも習い事だったりする? あとは、ああ、お医者さんとかもそうか」
 ぴくりと反応する。子供って分かりやすいなあ。
「女医さんのとこ通ってるの?」
「うるさい」
「可愛い系? 綺麗系?」
「それ興味あるのか?」
「いやあんまり」
 正直に言うと、靄少年は盛大に舌打ちをした。子供相手と言えど、夢の中で架空の存在に気遣いなどという無駄を発揮するつもりは毛頭ない。
「友達に言いにくいならここで話せばすっきりするかな、とちょっと思っただけだからねえ」
「裏を返せば、あんたは話せばすっきりすることがあるんだな」
「へえ、頭の回る子供だなあ」
 可愛くない、と呟いた。
「男に可愛さなんか要らないだろ!」
「ほぅ」
 意外なタイミングで性別が確定した。そういうつもりで言ったわけではなかったんだが、良しとしよう。靄少女ではなく靄少年だ。
「んで?」
「まだ言うのか」
「やることがないからねえ。出張お悩み相談室してみるのも悪くないかな、なんてね」
「前回突然寝始めた女がよく言うな」
「はは、悪いね」
「思ってないくせに」
「夢だからな」
「僕のな」
「そういうことにしておくよ」
 少年に伝わるようオーバーリアクション気味に肩を竦めた。
「喉乾いちゃったな」
「何も無いぞ」
「ここの水道水大丈夫かな。コップ欲しいけど、ないね。あってもいいと思うんだけどなあ。夢らしくコントロールしたいもんだね。こう、さあ。ガラスのよくあるコップ、が」
 恨めしく見ていた食器棚の中、磨りガラス越しに影が生まれた。
「え?」
 思わず顔を見合わせた。ここは大人が確かめるとしたものだろうと立ち上がり、恐る恐る開くと、そこには想像した通りの透明なコップが一つ、鎮座していた。
「……コップ、あったね」
「コントロールできたのか」
 ひょこりと背後から少年が覗き込む。
「どうせならもう一つ欲し──」
 今度こそ間違いなく、私達の目の前でコップがすぅと音もなく顕現した。あたかも最初からそこにあったかのように。
 小さく深呼吸してからそっと右手を持ち上げ、先程からある無機質な塊に触れた。それを持ち上げて角度を変えて見てみたが、ただの真新しいガラスのコップで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「ほい」
 どうも胡散臭そうにしているらしい少年にコップを差し出すと、慎重に両手で受け取った。コツコツ叩いたり覗き込んだりしている間にもうひとつの、たった今現れた物に手を伸ばしたが、果たしてそこに実体はあった。見えていなかったのか、現れたのか、夢だからどちらもあり得ると思ったので食器棚の内壁をひとしきり片手でぺたぺたと触ってみたが、それ以外は見た通りの空の棚であった。
「うーん」
 さっぱり分からんがここに物理的法則が成立するとは限らないし、超常現象の規則性すらあるか分かったものではない。むしろ靄少年の時点で理に反しているので理論など考えても詮方無い。
「他の食器はないのか」
「お皿もお茶碗もお椀も丼もないなあ。ああ、マグカップもないし」
「喉が渇いたから、コップってことかな?」
「腹が減ったら食い物が出るのか?」
「前回は疲れてたから寝具一式が揃ってたのかもしれないよ」
「妙にケチくさいな。コップだけとか、ベッドもセミダブルだし」
「二つ置くとかダブルとかでもいいのにね」
「そもそもこの部屋から出られない時点でかなり制限があるがな」
「外も中も制限まみれだけど。うーんそれなら何かしらの娯楽があってもいいのに。欲してると思うけどなあ」
 突っ立ったまま意見を雑に出し合って、仮定を重ねてもなあ、と首を掻いた。
「一旦水かな。水道、水道」
 ほんの三歩でシンクの前に立ち、コップに水を半分ほど入れた。くんくんと臭いを嗅ぎ、少しだけ口に含み、舌の上で転がし、不味くも美味くもない液体をごくりと飲み込んだ。
「普通の水道水だね。不味くはないがそんなに飲みたいものでもないな。何と言うか、浄水器ほしい」
 絶妙に気が利かない夢だな、と思った。
「ないものねだりだな」
「コップが出てきたんだし、ないとは言いきれないでしょ」
 ふん、と少年は息を吐き出してコップを棚に戻した。飲む気はないらしい。それを見ながらコップに残った水を一気に流し込み、コップをキッチンに置いた。
「しっかし、本当になんでコップだけなんだろうね」
 少年が腕捲りをして意気込み、冷蔵庫と冷凍庫を順番に開けたが、冷気が漏れ出すもののただの電気の無駄遣いだった。
「冷蔵庫も空っぽだ」
「ペットボトルの水とかお茶とかないの?」
「あと並んでそうなのは牛乳か?」
 何故か未開封の牛乳パックだけが出現した。
「なんでだよ!」
 思わず叫んだ。靄少年もちょっと嫌そうにしつつ、冷蔵庫を開いたまま閉じることはなかった。
「賞味期限が書いてないな」
「よく気付いたねえ。それにしても牛乳だけ入った冷蔵庫って何さ。他に何かあるだろうに」
「あんたが飲み物を欲しがったからじゃないのか」
「牛乳はリクエストしてないんだけどな」
 不自然な冷蔵庫を閉じさせると、少年は不服そうに私を見上げた。時が経つにつれて、どんどん見えない表情を読み取れるようになっていることは、ますます気味が悪い。
「今度は少年が何か欲求してみてよ」
「僕が、か」
「そう。飲み物の次だから何か食べ物でも」
「こんな変な夢で何か食べろって言うのか?」
「夢なのに警戒心強いなあ」
 じゃあねえ、と空っぽの棚に視線を送る。うちなら一番上の段に置いてあるので、視線は自然と最上段に向かい、少年もつられて見上げている。
「救急箱とか?」
「要らな──」
 言い切る前に、茶色い救急箱が音もなく姿を現した。
「ちょうどいいから、その右腕の傷手当しとこうよ」
「要らねえよ!」
 少年は剥がれかけた大きな絆創膏を庇うようにして、手を後ろに回し、捲られた袖を戻して隠す。
「結構派手にやったねえ」
 嫌がる少年を無視して、子供の手ではまだ届かない救急箱を取り出し、膝立ちでテーブルに置いて中を漁る。
「ハイドロコロイド系あるといいけど──お、あるじゃん」
「なんだそれ」
「湿潤療法って言ってね……かさぶた作るより早く綺麗に治るんだよ。ほら、貼り直しておこう」
 高機能絆創膏を取り出して蓋をし、手招きした。既製品に少し警戒心を緩めたのか、不審そうな顔でこちらに歩み寄ってくる。
「自分でやる」
「前腕だよ? 貼りにくいでしょ」
 言い返せなかったようで、少し口を開いたが音を発することなくまた閉じた。観念したように袖を再び捲りあげ、そして無言で剥がれかけた絆創膏をゆっくり外した。今日の怪我なのだろう、まだ生々しい傷に顔を顰めた。
「あーあ、これは痛そうだね」
「痛くねえし」
「夢の中でまで強がらなくても……どうしたの、これ」
 むすりとした少年に尋ね、丸めた古い絆創膏を机に置くのを見ていた。
「ちょっと、喧嘩しただけだ」
「やんちゃだなあ。ほどほどにして、自分を大切にしなよ?」
「うるさい」
 少年の細い腕に触れると、身体をびくりと震わせた。思えばこれが初接触である。靄少年の、彼からすると靄女の実体が確認された瞬間である。伝わる温度に、幽霊ではなかったんだなあと考えつつ、傷を検分する。
「このサイズで大丈夫そうだね」
 絆創膏のフィルムを剥がし、ぺたりと患部に貼ってやると、少年は素早く袖を下ろした。
「で?」
「何だよ」
「勝ったの?」
「当たり前だ」
「ふーん、やるじゃん」
 虐められっ子ではなかったらしく、お姉さんは安心したよ。
「あんた、やっぱりムカつくな」
「そりゃどうも」
 手当をしてやったのにこの塩対応である。救急箱を戻して振り返ると、少年がこちらを見上げていた。
「どうしたの?」
「別に」
「……喧嘩の理由、聞こうか?」
 少年は答えない。
「──が」
「うん?」
 せっかく絞り出してくれたくぐもった言葉は聞き取れなかった。
「僕が、みんなと違うから」
「どこが?」
 まさか靄だからなどとは言うまいが。
「どこって……見た目、が。気付いてないことはないだろ」
「この状況下で何を言い出すかと思ったら容姿か。肌小麦色なのって血筋か。なるほどねえ」
 ふいと視線を逸らした少年の発言は想定外にナイーブで、茶化さなくて良かったと心底思った。
「僕だって日本人なのに」
 悔しそうに言う少年の精神は下手な日本人よりも日本人なのだろう。これはどういう示唆の夢なのか、思い当たる節はない。ないなりに、言語化して意見を述べるべきだと思った。腰を折って身を屈め、白く霞がかった頭部に顔を寄せると、私と少年の白が繋がった。それでもそのパーツを脳内で組み合わせて認識することは適わなかった。少し身体を上げ、今度は両手を白い靄の中に突っ込んだ。
「な、なんだよ!」
 想像通りの位置にあった両頬をぱしりと包んでこちらを向かせる。
「ちょっとごめんね?」
 半ば事後承諾気味に言って、唇を、耳を、柔らかな髪を触る。子供でなければ、そして夢でなければやらぬ強行だ。
「おい!」
「うん、良かった。人間だ」
「は!? そこ疑ってたのかよ!」
「これで顔面が体毛でふさふさとかなら、それはそれでちょっと可愛いけど、世界が違いすぎて何も言えないところだったね」
「可愛いのか!?」
「犬猫筆頭にペットはだいたいふさふさ」
 じゃなくて、と手に力を込めて頬を軽く潰した。子供のもっちりほっぺである。羨ましい。そんな感想を抱きつつ、ぼやけて聞こえるだろうからできるだけはっきりを心掛けて口を開く。
「君は、日本人だよ」
「は」
「言われて悔しかったんでしょ?」
「……うん」
「哀しかったんでしょ」
「……うん」
「それは君の精神に日本が根付いてる証拠だ。君は紛うことなき日本人だ」
 一瞬呼吸が止まる。うまく響いたのだろうか。
「まあこんなのは個人の感想だから話半分で聞いてね」
 枢軸は伝えたので、あとはオプションだ。
「そもそも日本人っていうのは何という話になるけどね。国籍の話? 民族的な話? あとは地理的分類かな。基本は法的な日本国民だよね」
 自分の中にある情報を淡々とアウトプットしていく。
「第一条件はクリアでいいよね。これ超えてない場合は帰化してね。帰化の基準までは知らないけど。婚姻とかじゃない場合って未成年にもできるのかな……」
「僕は日本で生まれた日本人だ!」
 増えた情報で思考を軌道修正する。
「言語の壁も高いけど。夢で夢のないこと言うけど、そもそも相互理解なんて幻想なわけで。言葉が伝わるからどうこうってのはまったくもってナンセンスだし、そういうのが逆に……とまあそれはさておき」
 つい力が篭ってしまい、ぽかんとした少年に気付いて、苦笑いする。一応子供相手なんだった。ごめん私が悪かったよ。
「所謂血だよね。日本人だとか日系だとかの、モンゴロイドの一種の方。その観点ならアメリカだとかイギリスにだって日本人はいて、日本人が生まれるわけだ。遺伝子的なお話。君がしょーもない輩に揶揄されたのはこれよね。これはもうどうしようもないけどさ、遺伝子の0.1パーセント以下の違いでしょ。5パーセントも違ったらチンパンジーなんだから誤差──みたいな頓珍漢な慰めは要らないでしょ。日本って島国っていう特性もあって閉鎖的で、他ほど血が混ざってないから目立つとか、そういう客観的な分析はあるけど、じゃあそれで君が哀しくなくなるの? 違うよね。答えなくてもいいけど、君はハーフとかクウォーターの類?」
 戸惑い気味に、小さく少年が頷いた。
「なおさら問題ないね。法律、言語、居住地、ついでに混ざった血も悉く日本って言うのが総括ね。で、これに先んずる重要なものに帰属意識があると思うの」
「きぞく意識?」
「その集団に属しているって意識のこと。つまり精神論だね。──これに関して、君は充分備えている。だから私は、君が人間ならば日本人だって言ったの」
「同じ人間で、同じ日本人?」
 そう、と頷く。言葉を咀嚼するように、口元に手をやって考え込む。
「ま、分かり合えない他人の戯言だよ」
 そうは言ってみたが、聞いていないらしい。彼は私の潜在意識の具現化だと思ったのだが、何を感じているのか分からない。
 先週と同じように、今晩も記憶から薄れない夢なんだろうか。何かの精神疾患かとちょっと疑い始めたよ。それとも何か忘れた記憶でもあるのか。ブラジル人の幼馴染がいたとか、幼稚園でイタリア人と一時仲良くしてたとか……うん、ないな。
 不意打ちにびしりとデコピンした。
「いってえ!」
「話半分、結論は自分で見つけろ。思考を止めるな」
 再度釘を刺して、布団に向かう。
「私は寝る──いや、目を覚ましたいだけだけど、どうする?」
「勝手にしろよ」
「はいはい、おやすみ」
 無視して本当に寝てみた。

***

「……かえってきた」
 見慣れた天井がそこにあって、溜息をついた。夢の部屋は鮮明で、傷も容易に思い出せ、けれど私の潜在意識の頭部に触れた記憶はあるのにその髪質も長さも思い出せなかった。
「気持ちが悪いな」
 解決したとは思えないから、あの夢はまだ続くのかもしれない。

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