散る夢で君と二人 | ナノ


▼ 夜明け

 意識が浮上し、ゆっくりと瞬きをした。ああ、私の部屋の天井だ。どうにも眠れた気がしないし、むしろどっと疲れている。頭は覚醒しているからなんだろう、今回もその例に漏れない。まだ引越したばかりで、今日は急ぐような用事はないのだと二度寝するべく寝返りをうち、奇妙な違和感を覚えて脳がぱっと動き出す。
「……ん、うん?」
 なんだろう、この違和感の正体は。新しいセミダブルのベッドに手をついてのろりと体を起こし、目を細めて薄暗い部屋を見回す。ここは確かに私の部屋だ。キッチンに並んだ数年物の調理器具達、調味料、テレビ、使い慣れたパソコン。本と雑貨の詰まった本棚。テーブルに転がった付箋とボールペン。
「変なものもない」
 ──そして、何より見知った間取りが眼前に広がっている。



 まずはコップ一杯の水で乾いた喉を潤す。机に開いたまま放置されている日記帳をぱらぱらと捲り、今日は何を書くべきだろうと思案する。日記帳の下にあった書類で九月からの職場を確認し、スマホに入力してルート検索した。今日は散歩がてら道を確かめようか。お出掛けにあたってお気に入りのパウダーブルーのワンピースを身に纏い、使い慣れた化粧品でゆっくりと化粧をしてスイッチを入れる。最後にサクラ色のリップを塗って完成だ。出掛けに一本電話をかけたが、目的を達することはできずに終わっている。
 深呼吸して、ドアに手をかけ新しい世界に一歩を踏み込んだ。

 マンションを出て、前を横切ったスーツのおじさんの後ろをついて右に曲がる。更に歩いていくと、駅が近付くにつれて少しずつ人通りが増えていき、次第に私の足は遅くなった。のろのろと歩きながらスマホをもう一度確認する。
「はぁ」
 出すまいと注意していた溜息が零れた。
 私は天涯孤独になった。実家にかけた筈の電話は赤の他人に繋がった。友達もいない。前の職場は検索しても引っ掛からない。唯一、新たな職場のみが与えられているだけだ。スマホのアドレス帳は空っぽ。生きているが、孤独な人間が一つあるだけだ。ルーツはない。繋がりがない。生きているとは言い難い状況に、私の心はあっという間に死に絶えそうになった。多分、酷い顔をしている。ああ、せっかく身につけた装備品も形無しだ。
 もう、なんでもいいや。荒んだ心でふらり、ふらりと自宅のあるこの町を徘徊する。ルート通りに歩く必要がどこにあると言うのか。脇見どころではなく視線は画面に釘付けだ。一縷の望みにかけて何度もアドレス帳とメッセージアプリを往復し、空白を目に焼き付ける行為を繰り返す。
 私はこの世界の私に成り代わった。いや、取り戻したのかも。けれどこの春に心機一転、リスタートを試みた『私』という存在はひどく伽藍堂だった。何処にも必要とされず、誰とも繋がりがない。希薄で、脆弱で、軽く吹いただけで彼方へ飛んでいく綿毛のようで。
「大丈夫ですか?」
 背後からの声に、びくりと体が大袈裟に跳ねた。
「──あ」
 振り返ると、喫茶店の前に背の高い金髪の男の姿があった。褐色の肌に並んだ垂れ下がった目尻と澄んだ瞳、声をあげて薄く開かれた形のいい唇。店の前の掃き掃除をしていたのだろう、箒とちりとりを手にしている。
 零。降谷零。そうだ、私はいなくなっちゃいけないんだったな。でもこの男は、私の顔を知らない。再会の瞬間だと知る由もない男の気遣わしげな表情に、少しだけ、泣きそうになった。
「顔が真っ青ですよ」
 透、と掠れた僅かな音を発して愕然と頭一つ分見上げると、彼がきょとりと反応する。
「ええ、と? どうしました?」
 店のエプロンを付けたこの男は、ちょっと戸惑った様子だ。透という呼び名は聞き取れなかったらしい。
「……いいえ、なんでもないです。知り合いに似ていただけですよ」と営業スマイルを作った。ああ、これじゃない。気持ち悪いって、透なら言うな。
「すみません、今お店あいてますか?」
「はい。すぐご案内しますので、しっかり休んでいってください」
「ありがとうございます」
 案内されたのはカウンターの真ん中の席だ。一つ席を開けて奥におばあちゃん、入口側にスーツのおじさんが座っていた。その二人に倣い、モーニングセットをオーダーする。
 順に運ばれてきたそれを口に運ぶと、ふわりと優しい味が広がった。静かに喜びを噛み締めながサンドイッチを咀嚼し、ホットコーヒーを味わった。おいしい。起きた時は、到底胃に何か入れられる状態じゃないと思っていた。しかしいざ食べてみると、ぺろりと平らげてしまった。
 エネルギーを摂取し、身体が、心が、温度を取り戻す。



 洗い物を終え、作業が一区切り着いた彼とぱちりと目があった。にこりと笑いかけると、彼は動かしかけた手を止めた。
「はい?」
「自己紹介しますね」
 彼に初めて、私の名前を告げる。面接なんかより、退職宣言なんかよりずっとずっと緊張して、何気ない表情を作りつつも心臓はバクバクと騒がしい。うまく笑えているだろうか。固くなっていないだろうか。
「年齢は二十八です」
 名前と年齢。それは『桜』に足りなかった残り二つの情報だ。
 今日、二人の私が重なって、やっと一人前になって、こうして君と巡り会えた。
「好きです」
「え?」
「あなたのことが好きです」
 カウンター席からにこりと透を見上げる。
 零、好きだよ。大好きだよ。
 叫びたい衝動は穏やかな微笑みの中に隠して。勝手に約束を果たした私に、彼はぽかんとして、すぐにまた安室透の愛想笑い浮かべた。
「ありがとうございます」
 冗談と受け取った彼にもう一歩踏み込む。
「付き合ってください」
「すみません、それはちょっと」
 一コマ分悩む素振りすらなくフラれた。やっぱり彼は私が『桜』だと気付いていない。淋しくて、嬉しい。ならば今まで受け止めてあげられなかった分、きっちり利子つけてお返ししてやろう。二十年分の好きを伝えて、抱えきれないほどの愛のシャワーを浴びせかけてやろう。
 そしてすべてが終わって『透』が消える時に、『桜』もまた消えるのだ。びっくりするだろうな。怒るだろうな。
「ふふ、ですよね」
 フラれたのにくすくすと笑い始めた私に店中の視線が集まっているが、さっぱり気にならない。私の中はただ歓びで埋めつくされている。
「じゃあ、また来ますね」
 年に一度だけじゃない。週に一度きりじゃない。何度だって、君に会える。



To be continued…

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