自分がもしも心無き目的遂行の為だけに存在する人形だったならば、こんなに苦悩する事は無かっただろう。
(いや、かつての自分は人形だった―――中途半端な心を宿した嘘と欺瞞に塗れた。心無き人形より遥かにたちの悪い。)
何故、自分は今こんなにも慌てているのだろうか。
確かにもう彼らとは元の関係には戻れないと自業自得の現実を受け入れたはずだ。今更元の関係を望むなどおこがましい。
与えてもらった居場所に甘えて居座らせてもらうだけ。彼らが自分にどこかぎこちなく接するように、自分も彼らに無関心で居ればもう苦悩する事は無いと思っていたはずなのに。
――何で、あんな顔するんだ。
気遣いや優しさを踏みにじる最低な言葉にジュードが見せた表情。
まるで親を見失った迷子の子供のような、今にも泣きだしそうな表情が脳裏に焼き付いて離れない。
激昂してもおかしくはなかった。それ程心無い言葉だった。
寧ろそれを覚悟していたのに、何故――自分が今あの少年の姿を探さなければならない焦燥に駆られているのか分からない。
分からない。痛い。
頭も心も痛くて仕方ない。考えれば考えるほどあの表情が蘇る。胸の辺りに淀みの無い刃物を突き立てられたような痛みが心を苛む。
玲瓏な光を纏う満月の像をうつした海をぼんやりと眺めて佇む背中を見つけたのは海停だった。
貨物船に慌ただしい様子で荷物を運んでいく集団から離れた、海のすぐ傍。ふとした拍子に海へ落ちてしまうのではないかと思うほど今の少年は不用心に見える。
「…ジュード」
話す言葉も何も考えてなかったというのに、一歩、また一歩と躊躇いがちに近付いた自分は少年の名前を呼んでいた。
彼は振り向かない。ほんの僅かに肩が震えたように見えたが、それは海風のせいかもしれない。
潮騒と翔る海鳥の鳴き声と船員達の喧噪。沈黙が訪れても空間を満たす音はある。
それなのに一番聞きたいはずのジュードの声は返ってこない。背を向けてこちらを振り向こうともしない。
「――どうして、あんなこと言ったの」
背を向けたまま独り言のように呟いた言葉。潮騒に重なったが、その声は全て耳に届いた。
“嫌いな人間にまで頑張って優しくする必要は無い――。”「あんなこと」とは間違いなくこれを指している。
ジュードの気遣いを踏みにじった。
それを何よりも今すぐに謝罪しなければならないのに、ジュードの声が震えていた事に気付いた途端、出かけた言葉が臆病に引っ込んだ。
「ねえ、何で。アルヴィン、」
どうして、と零してジュードは恐る恐るこちらへ振り向く。
泣きそうな表情は変わらない。どうしてそんな顔ばかりするのか分からない。また胸が痛む。
「それは…もうおたくに、気を遣わせたくないから」
「…僕のお節介が迷惑だから?」
「ちっとはそうだけど…そうじゃない。優等生に嫌いな奴の面倒なんて可哀想な事させたくないんだよ」
「ッ、だからどうして!そんな風に思うの?」
突如声を荒げたジュードに驚いた自分は言葉の意味を一瞬理解しかねた。
蜂蜜色の瞳がこちらを見上げて睨んでいる。ただしあの表情のままで、威圧感は皆無だった。
つまり彼が先程から問うているのは、何故自分がジュードに嫌われていると思っているか、という事。
「この嘘吐きな傭兵さんは、嫌われる事ばっかりやってたからな」
「…自覚はしてるんだね」
「そりゃあもう」
問いの内容に戸惑ったのを隠すようにわざとらしく肩を竦めて笑って見せた。
対するジュードはにこりとも笑わない。誤魔化す為の仮面などこの少年には意味を成さなくなったのはいつからだったかは忘れた。
「…嫌いになれたらどんなに楽かって何度も思った」
停泊していた貨物船が去るのを見送って、傍に降りていた海鳥が飛んで行った後、ジュードがぽつりと零した。
憎んで、心の奥底から拒絶して。共に行動する理由は利害の一致のみにして。
仲間という甘美で脆い関係を排除すれば確かに楽に違いない。ジュードの言葉は間違っていない。
「でも、何度自分に言い聞かせても無理だった」
「……」
「アルヴィン、のこと」
「――…っ!」
こちらへ伝えようと必死に声を大きくしていくほど、声の震えも大きくなる。
再び背を向けかけたジュードの手首を今度は捕まえることが出来た。
「アルヴィンのこと、嫌いになんかっ、なれない」
零れた一粒の涙が白い頬を掠って、そのまま地面へと落ちて砕け散る。
それを皮切りに蜂蜜色の瞳を濡らしていたものが一気に溢れ出した。
「ジュード、お前」
「っ、どうして決めつけるの、何であんな事言うの!」
ぼろぼろと透明な粒が頬の上を滑り落ちていく。震える唇の隙間から堪えきれない嗚咽が漏れる。
泣きながら怒るジュードが年相応の子供に初めて見えた。この旅で成長した凛々しい表情など今は見る影も無い。
――俺は、また何て事を。
今更気付いた。自分のひどく子供染みた自己防衛の方法に。
初めからジュードが自分を憎んでいると思い込んでおけば、その事実を知ってもあまり傷付かずに受け入れられる。
予防線を引いて自分を守っていた。相手の心など微塵も汲むことなく。自分の心にすら嘘を吐いていた。
涙腺が決壊したかのように、双眼から溢れる涙は止まらない。
ジュードが拭い続けても次々と流れるものに黒い上着に濃い染みを作り続けるだけだった。
「――アルヴィンが僕を嫌いでも…、ぼく、はっ…まだアルヴィンが」
すき。
「沢山酷い事しても…優しくてずっと助けてくれた君の方が、僕にはずっと大きくて」
耳を疑った。
今更誰がこんな自分に好意を抱くというのだ。自分でさえ自分が嫌いで仕方無いというのに。
この少年はまた孤立しかけた大人に気を遣っているのかもしれない――それなのに離すことが出来なかった。
聞き間違えかも確認する前に掴んでいた手首を引いて腕の中に閉じ込めていた。
後