群青に包まれた長い指が優雅な動きで何かの紙束を黒い机の上に広げた。
その紙はそれほど大きくはなく、掌に収まる程度のものだった。三枚、七枚、十枚と机の上に並び増えていく。
札束でもなく、潜入捜査に関する資料でもない。そこに写るのは漆黒の髪を持つ少年の姿。アルヴィンはその人間をよく知っていた。
「どうかしら、アル」
向かい側に腰掛けた女性は相変わらず不敵な笑みを浮かべてその紙を並べ続ける。
話し合いを終えて颯爽と出て行ったアグリアに続きアルヴィンもその場を去ろうとしたが、それを阻むように目の前の女性は紙束を並べ始めたのだった。
対象物を画像として記録出来る器械によって生み出された所謂「写真」には全て同じ人物が写っていた。目線をこちらに向けていないものが殆どで、盗撮されたものだとすぐ気付く。
ほんの少しだけ癖のある漆黒の髪。澄んだ宝石のような蜂蜜色の瞳。幼い顔立ち。
記憶にある彼の顔も十分幼いが、この紙に写っている少年はもう幾分幼い。
「お気に召したかしら?」
「どういう事だ、プレザ」
予想通りの反応だったのかプレザは得意げな顔で、硬直したアルヴィンへと微笑んだ。
それはほんの数日前にここへ来る前に少年やその幼馴染みへと銃を向けたことを知っていての行動かは分からない。
ただ今の彼女は珍しく上機嫌な様子だった。掌に納まっていた全ての写真を並べ終えると、その中の一枚を見せびらかすように取り上げる。
「この頃の彼はまだ可愛げがあるわね」
「だから、どうして」
「今も私達にたてつかなければ可愛いのに」
「プレザ!」
無視しながら写真を眺める女性にアルヴィンは思わず声を荒げていた。何故、彼女が数年前のジュードの姿を記録している。
銀縁のフレームの奥の切れ長の金の瞳を僅かに細め、わざとらしくプレザは嘆息した。
「諜報員としてあのボーヤが通ってた学校に潜ってた事があったからよ。前に言ったと思うけど」
「…ああ、そういやそうだったな」
それは共闘とも呼べるか分からない僅かな繋がりを持ちアルクノアと対峙していた頃、彼女の口から何気なく明かされた。
さらにプレザは意地悪くジュードのその頃の事を色々知っているとも話した。それを聞いた本人は顔を紅潮させ動揺していた。
大人ぶって人に気を遣ってばかりいるのに、ふとしたことで幼さを見せるあの少年。
もっと子供らしくしていれば良いのに。そうすればもっとお互いに楽なのに。
「…んで?何であいつを盗撮してたんだ」
頬杖をつき、並べられた一枚を取り上げて眺めながらアルヴィンはプレザへと問いかける。
その紙に写っていたのは、友人と並んで野菜をたっぷり挟んだサンドウィッチを頬張るジュードの姿。
白いパンくずを口の端にくっつけて楽しそうに食事をする姿はアルヴィンが知っている彼よりずっと少年らしい。
「盗撮なんて人聞きの悪い」
手にしていた一枚を置き、別の一枚を取り上げて眺めるプレザが淡々と呟く。否定はしていないようだった。
「――まさかラ・シュガルの才能ある未来の医師を潰す為に潜っていた、とか」
もう一枚別の写真を取り上げてアルヴィンは問う。今度の写真の中の少年は本とにらめっこをしていた。
可能性はゼロでは無い。衛生兵や軍医の卵を潰せばそれだけ総合的な戦闘力は減少する。
内部に潜ることさえ成功すれば、医者や医学生など非力な一般市民と同等な彼らを潰すなど実に容易い。
昔から付き合いはあったもののプレザの任務について追及する事は無かった。それは彼女も同じことだった。
「いいえ違うわ。そんな目立つ計画なんかの為じゃなかったわよ」
しかしプレザはかぶりを振った。誤魔化しているようにも見えない。
その事実にどこか安堵している自分がいることにアルヴィンは気付いた。
「そうか。ならいい」
「安心した?可愛い可愛いボーヤが無事で」
いちいち挑発的なプレザの言葉には答えなかった。しかし安堵しているのも事実だった。
プレザが本当に正直に話しているかは分からないが、もし医学生の殲滅計画だったとしたら、いくら武術の心得があった少年でも生きていられなかったかもしれない。
その時彼が生命を落としていたとしたら、当然自分と出会っているはずもなく、精霊の主と共に旅をすることも無かった。
「趣味よ」
「は?」
「いや、趣味って程でも無いわね。稀に見る美形だったからよ」
暫し沈黙していたと思っていたプレザが不意に口を開いたかと思えば、予想外の事実が吐き出される。
アルヴィンは思わず間抜けな声をあげてしまったが、プレザは口の端を上げただけだった。
「本当よ。冴えない顔した奴らばっかの中であの子は群を抜いて綺麗な顔してたわ」
勉学に励む者ばかりで色恋に彼に惚れる子はいなかったみたいだけど、と付け足して笑う。
「…ふうん。だから盗撮してたと」
「捨てていなくて良かったわ。まさかあんな形で再会するなんて思ってなかったもの」
盗撮は認めたらしい。殺伐とした潜入捜査の暇つぶしには丁度良かったのかもしれない。
しかし確かに諜報員として潜んでいた頃は、まさかただの医学生が将来立ちはだかってくるとは予想もしてなかっただろう。
「それに偶然とはいえアルのお気に入りの子みたいだし」
しかも良く分かっている。
写真の中のジュードは自然な表情で学生生活を過ごしているようだった。
いつもの黒衣とは対照的な医者らしい白衣で身を包み、晒された腕や足首は白く細い。あどけない笑顔は本当に愛らしい。
眺めていた写真をプレザの指が素早く奪い取っていった。あまりにも素早かったため、指に力を入れる暇も無かった。
奪った数枚を机に置いていたものの上に重ね、並んでいた十数枚の写真を手際良く纏めていく。
「おい、くれるんじゃないのかよ」
「あげないわよ。誰がそんな事言ったの」
「今のは貰える空気だったろ!」
睨むアルヴィンを無視して、プレザは上機嫌な様子で纏め終わった写真の束をそっと持ち物の中へと入れた。
「アグリアが見たらまた面倒な事になるでしょ」
「だったら何で広げたんだよ…」
嘆息しながら呟くアルヴィンにプレザは小さく微笑んで、何も言わずに部屋の外へと出て行ってしまった。
高いヒールの靴の音が部屋から離れて徐々に小さくなっていく。その足取りはどことなく軽やかだった。
アルヴィンはそれを追うつもりも、勝手に止めて勝手に去って行った事を咎める気も無かった。
写真の中の少年の姿は写真が手元に無くともこの目に焼き付いていた。
きっと届かない笑顔が例え紙の上でも見られる事が出来た。それだけで幸福だった。