「…あの」


人混みの喧噪の中、その声が確かに自分を呼んだと理解出来たのは腕を引かれたからだった。
強くも弱くもない、意識を向けさせるには十分な程度の力でその手は少年の腕を背後から掴んでいた。

骨張った冷たい掌とやや掠れた低い声。
少年より頭一つ分は背の高い、群青色の上着を粗雑に羽織ったその男性の表情は不安と戸惑の色が滲んでいる。


「はい。どうかしましたか?」


この人は何か困っている。
表情と僅かに震えた指にそれを察知した黒髪の少年は、微塵の疑いも抱かずに男へ向き合った。年齢は二十代半ば程度に見える。


人助けを面倒に思ったことは無い。
誰かの力になれることは素直に嬉しく思い、感謝を告げられれば自分の行動に後悔は無くなる。
不用心だと指摘されても、目の前で助勢を求める人間を冷たく退けることだけはしたくなかった。



安堵したように男は小さく息を吐き、「助けて欲しい」と掠れ声のまま短く用件を伝える。
感謝の言葉とともに名乗る男に、ジュードもまた丁寧に自分の名前を明かし、男の要望を受け入れた。




「…へえ、ジュード君ていうんだ。良かったら君の旅の話を聞かせて欲しいな」

弱々しくも優しく微笑を浮かべた男の後ろへついていき、支障の無い程度に自分や仲間のことを話した。
男は旅の話に興味を持ち時には賞賛の言葉を与え、ジュードにはそれが少しくすぐったく、嬉しかった。

前を向いて歩みを進める男の口元が歪んでいることには気付かないまま。












群青色の上着の男に導かれるまま歩き始めて5分。
先程までの人混みから抜け出し、陽光の一切射さない薄暗く狭い路地裏へと辿り着いた。

まるで表の世界から切り離されたような、賑わいの知らない世界。
人気も感じないこの場所で一体誰が助けを求めているのか、ジュードはほんの僅かに疑いを持ち始めた。

「ここは…」
「この奥で俺の仲間が困っているんだ」

少年が辺りを見回す様子に気付いた男が、床に転がっていた缶を乱暴に蹴り飛ばして告げる。
先程の気弱で穏やかな様子とはうって変わった男の行動にジュードは驚き、不信感より戸惑いが強くなった。

しかしここまで来ておきながら今更引き返し辛い。本当にこの男は助けを求めているかもしれないのだ。





さらに2分。埃に塗れた床の上を進み続け、古い家具や廃棄物が山積みにされた空間へと辿り着いた。
やや広い行き止まりであるこの場所で、ようやく男は足を止めてジュードの方を振り向いた。

ジュードは己の目を疑った。
そこに立っている男の目は鋭く光り、口元は歪んだように笑みを浮かべている。ここに辿り着くまでの穏やかな男の姿はもはや微塵も存在していない。

ねぶるような視線が少年の華奢な身体に纏わりついて離れない。嫌悪感に肩が竦んだ。


「…騙したんですか」
「騙してはないよ。困ってるのは本当だし」
「生憎ですけど、今お金なんかほとんどありませんよ」


身構えて睨んだジュードの発言に男が目を丸くしたと思えば、周辺に下卑た笑い声が複数響き始めた。
姿は見えないが囲まれていると気付き、ジュードは更に警戒を強めて辺りを見回す。もしかすると敵の追手かもしれない。

仲間はここにはいない。一人きりで戦えるか、仲間を巻き込まずに済んで良かったのか。焦燥と安堵が絡み冷静な思考を妨げてしまう。


「ははっ、金目当てだと思ってんのか?」
「今日は随分と無知そうなガキを連れてきたな」

「――!」

廃棄物の陰から男が笑いながら次々と姿を現し始めた。
陽光もろくに届かない薄暗いこの場所では男達の顔は見えないが、体格や声から群青の上着の男と同程度の年齢だと認識出来る。


現れた影は5つ。
踵を返した瞬間伸びてきた手に両腕を強く掴まれ、引かれるままにジュードの身体は冷たい床の上へと押さえ込まれていた。




小さな鼠を銜えた野良犬がそれを投げ捨てるように床へと転がす。直後、野良犬の仲間が貪るように鼠の元へと群がった。















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