複数人の飛び交う罵声が段々と近付いてくる。
狭い路地裏。汚い言葉を紡ぐ耳障りな声と慌ただしい足音が薄暗がりの中に反響する。
借金取りの類か、それとも街に蔓延るただの荒くれ者か。
どちらであろうと興味は無かった。
大きな街であろうとそうでなかろうとも、それを生き甲斐の如く罪の無い人間を襲う連中は存在する。
誰かを形式上守るという傭兵職に就く自分だが、被害者をささやかに哀れむ気持ちはあっても助けようとは残念ながら思わない。
けれどそんな可哀想な者に無償に手を差し伸べる人間を一人知っている。
お人好しで、まっすぐで、しかしまだ青く幼い少年。
その善意的な行為がいつ仇として返されるか、いつ心裂かれる思いを経験するかまだ彼は分かっていない。
他のものより軽やかな足音が、一足先にこちらへと辿り着いた。
乱れた呼吸と弾む息、艶のある漆黒の髪はぼさぼさと乱れてしまっているが、確かにその姿に見覚えがあった。
「ジュード君、何してんだ」
声をいきなりかけられた事に華奢な体躯がびくりと跳ねた。別に驚かすつもりは無かったのだが。
こちらを振り向いた少年の瞳には警戒と僅かな不安の色が帯びていた。
「アルヴィン」
警戒心を剥き出しにした表情がこちらの存在を認識した途端に消える。
薄暗がりの中でもジュードが安堵の表情を浮かべたことが認識出来た。
眼光鋭い警戒の表情を浮かべていた先程と同じ人物とは思えないほど、その顔は緊張を緩めてこちらへと駆けて来る。
「こんな場所で何してんだ。恐い大人に食われちまうぞ」
「…またその変な言い方。食われるって、魔物じゃないんだから」
安堵の表情はたちまち拗ねたような顔へと変わる。
子供のような――事実まだ子供に違いないが――その表情を見せる少年のことが嫌いではない。
それにしても、この少年はどこまでも穢れていない。
「…まあ魔物と変わりないか、それよりタチ悪いかだな」
「あのさ…僕が分からないからって、からかってる?」
「別にからかっては無いさ」
この黒衣に身を包んだ真っ白な少年が知らないだけで、それは事実である。
この少年だって気を抜けば上手く騙されて、美味しくいただかれるかもしれない。
それだけは阻止するつもりであるが。
「…で?青少年は何故こんな場所で息なんか切らせて走ってたんだ」
「あ、そうだった…!」
問えば少年は焦ったように薄暗がりの背後を振り向いた。
ジュードが駆け抜けて来た路地からは、罵声と忙しない足音が変わりなく近付いてきている。
しかも複数人。声と足音の重さから大人であることは間違いない。
「今ちょっと、追いかけられてて」
ジュードは頭を掻いて申し訳無さそうに笑う。
それだけでこの大体の過程は予想出来た。またしても少年のお人好しが招いた災難であろう。
「どうせ大方、荒くれ者に絡まれてたオッサンでも助けたんだろ」
「すごい。どうして分かるのアルヴィン」
蜂蜜色の瞳が本当に驚いたように丸くなる。その様子に思わず嘆息してしまった。
いくらジュードが身軽で素早い少年でも、この土地を知り尽くした大人達に捕まるのも時間の問題だろう。
捕まったら最後、何をされるか。単純にその綺麗な顔に傷を付けられるか、あるいは先程告げたように「食われて」しまうか。
人生何事も経験であり、特にまだ年若い青少年には豊富な経験をする必要があるかもしれないが――こんなのは面白くない。
「…次もお前自身が招いたトラブルだったら助けないからな」
溜息混じりの宣言にジュードはひとつふたつと不思議そうに瞬きをする。
瞬きの度に見え隠れするその瞳の清純さは感嘆の息すら出てしまう。本当の意味の身の危険が迫っている自覚が無いらしい。
「わっ」
強引に奪うように、その手を掴み引けば少年の口から短く声が漏れる。
背後で細い身体がよろめいた事に構わず、光を目指すように路地裏から抜け出した。
子供を守るのが大人の役目。そう言えばきっと少年は怒るのだろうけど。
それは建前だと気付くのに時間はそうかからない。