澄んだ光の星が瞬く穏やかな夜に似つかわしくない罵声が響いた。
カラハ・シャールの商店街は昼間の賑やかさはすっかり影を潜めているというのに、酒を盛った大人達がたむろしているのはどの町もあまり変わらないらしい。
こんな物騒な時間にいつもならば外出はしない。
カラハ・シャールを訪れた時は決まってシャール邸に世話になり寝泊まりしているが、昼間訪れた街の宿にエリーゼがうっかり彼女のペンダントを忘れてきてしまったのだ。
それに気付いた彼女は泣きそうな顔で慌てて宿屋へ向かおうとしたが、年端もいかない少女を夜遅くに外出させる訳にもいかない。彼女を宥めすかし押し留め、ジュードはひとり街の宿屋へ向かった。
友人の証としてドロッセルから貰ったペンダントは彼女がいつも大切そうに眺めていたので形状は覚えていた。
宿屋の主人はカウンターの上に置き忘れてあったそれを見つけ大事に保管してくれていたらしく、事情を話せばすぐに渡してくれた。
ペンダントが傷付いていない事に安堵し、宿屋の主人に礼を言って外へ出た。
どこからか大人達の罵声や上機嫌な笑い声が聴こえ始め、ジュードは改めてエリーゼを止めておいて正解だったと小さく息を吐いた。
酒は百薬の長、そんな言葉がある。適度な飲酒は健康に良いというものだ。
それが些か信憑性を欠いている――というより事実だと知る術も無いのは、酒に酔い潰れる大人ばかり目につくからである。
両親は仕事が忙しく少なくともジュードの前では飲んでいない。ミラは一舐めで酔うほど弱い。ローエンは老いを感じさせない全くの健康体だが、これは酒以外のおかげだろう。
「――アルヴィンは、…」
ふと考えて、足を止める。
彼もまた仲間の前で飲んでいる様子を目にする事は無いが、ジュード達が寝静まった後ふらりとどこかに出かける事があるようである。先程だってシャール邸に彼の姿は無かった。
それが酒を嗜む為とは決まってはいないが、彼の貴重な息抜きの時間に変わりはないだろう――異性との密会も含めて。
小さく胸が痛む。夜風の冷たさに余計に心が寂しさに震える錯覚。
「――おい嬢ちゃん、そんな悲しそうな顔してどうしたんだ?」
ふいに背後から声をかけられる。振り向けば男が二人、脚をふらつかせながら立っていた。
思考にふけっていたせいでこんな分かりやすい気配にも気付かなかった。敵であったならば、やられていたかもしれない。
「こんな時間に女の子が一人、危ないじゃないかあ」
「え、その、僕は」
男の一人が覚束ない足取りで近付き、ろれつがまわらない様子でそんな言葉を吐く。
全くの勘違いにジュードは戸惑う。この男達は揃いも揃ってジュードを少女と見間違っているらしい。
この男達が酔っ払いだという事は、漂うきついアルコールの匂いで分かった。
たちの悪いただの酔っ払いに関わらないで早々に逃げるべきだという事も十分理解している。
ただ不安な気持ちに苛々していたのかもしれない。ジュードは下らない男達の勘違いに首を横に振って反論していた。
「…僕は女の子じゃありませんよ」
同年代の同性に比べれば背はあまり高い方ではない上に、昔から鍛えているのに目立った筋肉はついていない。
それに加えて同級生からよくからかわれていた女顔。中性的な声。
確かに暗い夜道では女性と間違っても仕方無い事かもしれないが、あまり認めたくはない。
酒に溺れて正常な思考を鈍らせている男達に真剣な弁明など不毛な行為だ。それくらい理解しているはずなのに。
そしてすぐに後悔した。男達の表情が訝しげなものに変わった。
「んん…?嬢ちゃんはどう見ても嬢ちゃんじゃないか」
「ほらぁ、ちゃんとおじさん達に顔見せてみなさい」
「っ…や」
正面に立った男が伸ばした手が頬へと触れた。男の指先は乾燥し、ざらりとした感触が頬に伝わる。
逃れようと身を捩った瞬間、もう一人の男が背後に回り、逃げられないように両肩を掴まれていた。
指先だけで探るような仕草が、次第に両方の手のひらでべたべたと触るような手付きへと変わっていく。
背筋に走る嫌悪感に反射的に拳が出かかったが、ぐっと堪えた。いくら正当防衛を理由にしても一般人に手を出したくなかった。
「ほら…こんなにも可愛い顔しているじゃないか。肌もすべすべだ」
「や、やめて下さい。違いますってば」
「声も可愛いねえ」
ジュードの上擦り気味の声に男二人はさらに確信を持ったと言わんばかりに下卑た笑いを漏らした。
頬を撫でまわしていた片手が顎へと添えられ、引かれるままに上を向かされた。酔いに顔を赤くした男とは対照的に、男の背後に見える星空はとても美しかった。
顎に添えられた男の親指の腹がジュードの形の良い唇をぐにぐにと緩く押しながら揉んでくる。
「っん…!」
「嬢ちゃん。彼氏とはもうチューしたか?」
完全にジュードを女と見なした上での発言。
それを怒る間も無く正面の男の顔が急激に接近し始めた。嫌な予感しかしない。
「おじさんなあ、もう何年も君みたいに可愛い子とキスしてないんだ」
物憂いげな表情で、けれど声は嬉々として男は呟いた。背筋が粟立った。
背後の男は「それどころか一度もしたことないだろ」と大声で笑っていたがジュードには全く笑えなかった。
男の顔との距離が縮まれば縮まるほどきつくなるアルコールの匂い。くらりと頭が麻痺し始める。
「嬢ちゃんの唇、いただきます」
「やだ、やだっ…!」
男の悪魔のような宣告にジュードは慌てて身を捩った。
だが最後の抵抗すら男達に怪我を負わせる事を恐れて全力で振り払う事が出来なかった。背後から羽交い絞めにされて動けない。
男の熱い吐息を吐き出す濡れた唇が近付いてくる。ジュードはきつく目を瞑った。
「おっさん達、そこまでだ」
そのまっすぐな声は、夜天に高らかに響いた。
正面の男は動きを止めてそちらへと振り返る。離れていく顔にジュードは安堵した。
そして男二人が顔を向けている方へとゆっくりと視線を向ければ、そこにはよく知った顔の男が立っていた。
「そいつを離してくれよ。大事な奴なんだ」
そう誇らしげにその男は二人へと投げかけた。
男二人は何か反論しようとしていたが、その人物が背負っていた大剣と携えていた未知の銃火器に表情が強張る。
本能的に危険を察知したのか、次に男が何か言おうとした時にはその二人は商店街の奥へと一目散に逃げ出していた。
「全く…酔っ払いになに手加減してんの優等生」
去る男達を見送りその場でへたりと座り込んでしまったジュードに、アルヴィンは呆れたように笑いながら手を差し伸べた。
「…エリーゼ姫を外に出すのだって十分危ないけど、おたくも同じだって分かってる?」
「そ、そんなの分からないよ…あの人達は僕を女の子だって勘違いしてたみたいだし」
「だからそれが危険だっつってんの」
シャール邸までの帰路の途中、先程までに至る過程を聞いたアルヴィンはまた呆れた様子で溜息を吐いた。
ジュードがシャール邸から出た直後に入れ違いにアルヴィンは戻って来たらしい。
そこで目にしたのは不安そうな表情を浮かべたエリーゼの姿。こんな時間にまだ起きている理由を聞き、そしてジュードを探しに外へと出て行ったのだと。
腑に落ちない事はあるがアルヴィンが来てくれなければ助からなかったのも事実だった。
素直に礼を言い、そして不用心だった事を詫びればアルヴィンは納得したように頷いた。
そしてここまで繋いでいてくれた手を引き、ジュードの身体を引き寄せる。
突然の行為に驚き蜂蜜色の目を丸くしたジュードの唇へとアルヴィンは自らのものをそっと落とす。一連の行為は一瞬だった。
「っアル、ヴィン」
「消毒、な」
短い返答でジュードを押し黙らせるとアルヴィンは次々とキスを落とし始めた。
顔じゅうに降り注ぐ優しい口付けの雨に、ジュードの顔は急激に熱くなる。熱くなった頬にも容赦なく唇は落とされる。
抵抗に意味は無いと即座に理解した。先程の男よりの強い力で、けれど優しく抱き締めてくれる。抜け出せるはずが無い。
火照る頬に冷たい夜風が心地良かった。
けれどそれ以上にアルヴィンの腕の中で彼の優しい口付けを受けるのを、ジュードは何よりも幸福に感じていた。
『emerald clover』ゆずりは様へ捧げます相互記念小説です。
素敵リクエスト「酔っ払いに女の子と勘違いされ絡まれるジュードを助けるアルヴィン」ありがとうございました!
絡まれるジュード君良いです美味しいです。書いてる途中に何度裏に突入しかけたことか…