外伝2 04
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「そうそう、踵(かかと)浮かせて! 上手いなー、はいゴール!」
 軽快に声をかければ、少女がふらついた足取りで立ち止まった。肩で息をする姿は震えていて、呼吸も浅く何度も繰り返している。
 それでも、顔は俯いていなかった。
 苦しそうに持ち上げられていた顔は、しかし晴れやかだ。近づいた隼は彼女の額に水で濡らしたタオルを置いてやる。
「お疲れ。凄いな、一気にタイム伸びたぜ」
「ほ、本当ですか……?」
「ああ、測ってたんだけど――」
 メモ紙に取っていた記録と先ほど測ったストップウォッチの数値を見せると、少女の顔から疲労が吹き飛んだ。高校生らしからぬ五十メートル十三秒台という記録は、大幅に改善されて十一秒台にまで持ち上がったのだ。
「うそ……さ、詐欺(さぎ)はしていません、よね」
「ここで疑われたってな……ちゃんとスタートの合図で押してたよ」
 里田の目が輝く。潤いを増した目に思わず笑みが零れかけた隼は、次の瞬間ぎょっとした。
 彼女の目から、雫が落ちたのだ。
「え、ちょ、そんな泣くほどじゃなくねえ?」
「い、いえ……私……っ、できなくなってた、から……!」
 ――え
 涙を拭く里田は、笑顔で見上げてきたではないか。
「――小学校の頃、陸上の選手目指してたんです……でももう、走るのも諦めてて……自分の力で、まだ走れるなんて思って、なかったから……」
 嬉しそうに、なのに、泣いて。
 隼はただ茫然と見下ろして、開いていた口を閉じた。
「――その、さ。里田さんが走れなくなったのって、聞いてもいい?」
「……事故とか、そういうのじゃないです。友達と喧嘩して……それから、走れなくなりました」
 その友達は、とても体が弱くて足が遅かった。けれど生まれつき足が速い里田と一緒にいたその子は、周りからいつも比較されていたのだ。
 里田がその子のタイムを上げる方法を教えても、周りは里田がやったとばかり褒めるだけで、本人を見る人はいなかった。里田も自分が教えたからだと奢(おご)っていた。
 それが積み重なって、ある時喧嘩したのだという。
「嫌われて……一番仲がいい子だったから、ショックで……私の足が速いせいだって」
「――けどそれは」
「はい。きっとどっちのせいでもないです。たまたますれ違っただけです。けど……走るの、怖くて。中学校の頃は、誰とも話したくありませんでした。でも……この間のテレビ、録画してて、よく見てるんです。だから私も……頑張りたくて……誰も見てくれなくても」

 僕が頑張ったのに……僕だってやったのに、なんで全部隼がやった事になるんだよ!

 え? 当然だろ?

 僕は隼じゃない!

「……最後に、走りたいって……私が走る事嫌うために、あの子は私を、嫌ったわけじゃ、ないって、思いたい、から……」
「……喧嘩した後、その子に会ったんだ?」
 暫く黙られて、頷かれた。
「つい、最近です……」
「――そっか」
 一瞬だけ潜(ひそ)めた眉を、すぐに柔らかな表情に戻す隼。里田が伏せた目を遠慮がちに上げて、またすぐに下ろした。
「じゃあ、練習続けるか」
 また、少女の視界が隼を捉える。
 もう作る事を止めた笑顔は、屈託なく笑えているだろうか。
 自分でも、分からないけれど。
「付き合うよ。クラスの奴ら驚かせてやろうぜ」
 潤んだ、目が。青白い肌に薄っすら滲んで見える汗が、少女の体力を伝えているのに。
 隼は優しい笑顔を崩さないまま、結局笑顔を作ってしまっている自分に内心苦笑していた。

 ……どうして分かったんですか。病弱だと

 それでも、みんなと走りたい

 分かるのだ。私≠ェ彼女ではない事が。
 本音と嘘が織り交ぜられた、その言葉の真意の全てが分かるとは思わない。けれどもし、その嘘をついた理由が、彼女が話した後悔に少しでも繋がるのなら。

 はい。三週間後には消えます

 あんな事を言っていなければ、今頃「ああ、ただのでっち上げか」で済むというのに。
 里田が頭を下げてきた。隼は彼女のさらさらとした黒髪に、思わず手を置いて撫でてしまう。
「せ、先輩……?」
「んー? ははっ、なんか可愛いなって」
「……首、痛いです」
「え、マジで?」
 力が強かったようだ。

 多少でも、タイムがよくなったと気づくクラスメイトはいなかったようだ。相変わらず教室にいても耳に届く、里田を叱咤(しった)する声は変わらない。
 現実は確かにそんなものかもしれない。誰かが必死に頑張っていても、気づける者はほんの一握りだ。
 けれど、必ず気づいてくれる人間はいるはずだから。
 だから里田は、気づいてくれるはずの友達を突き放してしまったあの時から変わりたいから、必死に頑張っていて。
 今回の応援されたいという言葉も、後押しときっかけが欲しかったのだとしたら――。
「だから里田遅い! もっと走れ――! せ、先輩!?」
「よーお谷崎。練習精出てるな」
 よく顔を出していたバスケ部の後輩が目を丸くしている。体育教師は他の生徒の面倒を見ているためだろう。木陰から後輩の背後に回り込んだ隼に気づいた気配はない。
 後輩が戸惑って「今授業中でしょ?」と尋ねてきて、隼はにやりと笑う。
「おれ常習犯」
「……弟さん聞いたら切れそうっすよ。先輩の鑑(かがみ)じゃねえー」
「まあそれはそれだ。あの里田って子、病気持ちって知ってた?」
 後輩が目を丸くしている。やはりかと、隼は内心溜息をついた。
 人付き合いがダメだというのも考えものだ。
「おれもさー、最近彼女に絡んでて気づいたんだわ。錠剤毎日いっぱい飲んでるみたいだぜ。それでも放課後時間見つけてさ、一人で走る練習頑張ってるっぽくてさ。ああいう健気な子、狙い時じゃねえ?」
「……先輩歪(ゆが)みなさすぎ……こっち広まってるんすよ、オレらの同学年の女子、弟さんの事好きだったのに、隼先輩が弟さんの名前使って奪おうとしてたって奴」
「ああ、それ。本当本当」
「ちょっ……!?」
 後輩が顔を青ざめさせているではないか。後輩は慌てて茂みのほうへとじりじり後退しながら、隼に近づきつつ引き攣った顔で彼を見てきている。
 ――そうだ。もうこれでいい。
 里田に変な後腐れを残すぐらいなら、自分が悪役のほうが向いている。今さら未来の前科が増えたところで気にするか。
「そんな暢気に言う事じゃないでしょ! いくらなんでも遊びすぎですよ、ぜってーこれ初めてじゃないんでしょ!」
「まーな。手痛い目に遭(あ)ったのはこの間が初めてだよ。だからおれ、今度ので止めにするわ」
「じゃあ里田に目つけてるんですか!? 実行する気!?」
「ああ」
「ああって」
「応援してやりてえじゃん? なんでそんな必死かは知らねえけど、涙誘う光景って奴だし? 面食(めんく)い女子相手にするのも飽きてきたしな」
 非難がましい目を向ける後輩に笑って、隼は「ってわけで里田ちゃんの周囲気をつけろー」と手を振って去る。
 後輩はすぐに里田へ目を向けて――次の瞬間慌てて彼女へと走っていったではないか。
「おい練習一旦止め! 里田肩で息してるだろ、保健室行け! なんで体弱いの言わなかったんだよ!」
 後輩達のざわめきが聞こえる。隼、校舎裏まで戻ってきて思わずガッツポーズした。
 下駄箱で授業担当の先生と出くわして、三十分説教を受けた。

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