砂夜子は暗い図書室にいた。
カーペットに座り込み、傍らに積み上げた本の上から一冊を手に取って開く。
寄りかかった壁に嵌め込まれた窓から月明かりが差し込む中、砂夜子は溜め息を付いた。
手の中ので開かれた本の文字は暗くて読むことができなかったが、砂夜子はじっとページを見つめる。
どれだけそうしていただろうか。ずっと曲げたままだった膝がぎしりと音を立てた。
相変わらず本のページは進んでおらず、ただ時間ばかりが過ぎていた。
ほっと息をついて本を置き、膝を伸ばした時だった。
「……あ」
ズボンのポケットから何かがこぼれ落ちた。
カチャリと軽い音を立てて、カーペットの上を転がったそれを拾い上げ、よく見てみる。手のひらにすっぽり収まる大きさで、透明な蓋がはまっていた。
昨晩、ジムにもらったデザートローズだった。
砂夜子は思い出す。
昨夜、寮に戻ってからデザートローズをテーブルに置いたこと。それを、今朝ポケットに入れて寮を出たこと。図書室でジムに、もっとこの石のことを教わろうと思っていたこと。
それらを思い出してから、ケースを月明かりに照らす。
浮かび上がったその姿を、砂夜子は静かに見つめていた。
「砂夜子」
そんな時だった。自分の名前を呼ばれ、砂夜子はケースから視線をずらし、図書室の入り口を見た。
廊下から漏れた光の中に、真っ黒く塗りつぶされた長身の男の姿があった。
特徴的なテンガロンハットのシルエットを見つけて、砂夜子は眉を潜めれば、男は静かに図書室に入ってくる。
真っ黒だった姿が、月明かりに照らされて浮かび上がった。
「ジム」
砂夜子が名前を呼べば、ジムはへらりと笑った。
そのままの隣に腰を下ろすと、いつものように隣に座った。
横に並んでしまったせいでジムの表情がよく見えない。だが、纏う空気が柔らかいことを砂夜子は感じ取った。
「…どうして、昼間ここに来なかったのだ」
ほんの僅かな静寂を破ったのは砂夜子だった。
自分の膝小僧を見つめたまま、口だけを動かす。
ジムが微かに身動いだのを気配で感じ取り、続ける。
「……ずっと待っていたのに」
約束した時間、ジムは図書室に現れなかった。
昨夜確かに、図書室で会おうと言ったのに。
それなのに、約束は果たされなかった。
ジムに読み聞かせるための本を選びながら、砂夜子はひとり図書室で待っていたのだった。
図書室の前を沢山の生徒たちが行き交い、その中に、砂夜子の知らない生徒達に囲まれ引っ張られながらも楽しそうに笑うジムの姿を見ても、ひたすらに待ち続けた。
日が沈むまでずっと。
「……どうしても他の生徒達の誘いを断れなくて、君のもとに行けなかった」
「…………」
砂夜子は何も言わない。
膝を抱えたまま、ジムを見ようともしない。
「謝ろうと思って、君を探してレッド寮に行ってみたんだ。そしたら……」
ジムが砂夜子の顔を覗き込むように体勢を変える。
しっかりと砂夜子を見て、顔を歪めた。
「君があんなに怒ってるとは思わなくて。本当にすまなかった、Sorry……」
ジムはそう言うと、頭を下げた。
トレードマークのテンガロンハットが転がり落ちて、砂夜子の脚にぶつかるが、頭は下げたままだ。
砂夜子はそっとテンガロンハットを拾い上げる。
「……もういい。そんな顔されたくない」
悲痛に歪むジムの顔。砂夜子はその顔が見ていて辛かった。
それに、と続けながら、砂夜子は顔を上げてジムに向き合う。
未だ頭を下げたままのジムの後頭部を見つめながら、言った。
「私も謝らなくてはならない」
テンガロンハットをジムの頭に乗せ、手に持っていたデザートローズのケースをジムの眼前に持っていく。
「……This……」
ジムが顔を上げて砂夜子を見た。
砂夜子は頷き、ケースを指で撫でる。
「壊れてしまったのだ。……砂に戻ってしまったよ」
月明かりに照らされたケースの中には、壊れて花弁が無くなってしまったデザートローズがあった。
恐らく、万丈目と喧嘩になった際に壊れたのだろう。クッション材は役に立たなかったらしく、砂粒が繊維に絡まっている。
「あの時下らない喧嘩をしなければ、こんな風に壊れたりはしなかったはずだ。せっかくお前に貰ったのに、すまない……」
砂夜子が頭を下げた。
漆黒の髪がさらりと流れるのを見ながら、ジムはケースを受け取る。
砕けてしまった石はもう元に戻らない。いくら脆いデザートローズとは言え、こんなにも簡単に壊れるとは思わなかった。
……不思議と怒りはなかった。
砂夜子の怒りがこの石を壊したのなら、その怒りの素を作った自分自身を責めるべきだと思った。
そう思ったとったん、ジムの頭は冷静になっていく。
「砂夜子、顔を上げてくれ」
「……いいのか」
「Yes、君は悪くない。最初に約束を破ったのは俺だ。君を怒らせてしまった」
ケースを傍らに置き、砂夜子の頭に手を乗せた。すると砂夜子がそろそろと顔を上げる。深い緑色の瞳が薄暗い中でも煌めいて見えた。
「全部俺が悪いんだ、だから謝らなくていいいんだ」
黒髪を優しく撫でながら、言った。
何度も何度も髪を撫でる。しっとりと柔らかい黒髪は心地よかった。
「ジム……」
撫でる度に、砂夜子の顔が泣きそうに歪んでいく。
意志の強さを表していた眉が下がり、きゅっと結ばれていた唇が歪む。
「ごめん、なさい……」
絞り出すように吐き出された謝罪の言葉を皮切りに、砂夜子の目から涙が零れた。
■
「これでいい」
「……小瓶……か。どこで見つけたんだ? それをどうするんだい?」
「昼間に何となく立ち寄った理科室で拾ったのだ。これに石を入れる」
明かりが灯った図書室の窓際に、砂夜子とジムは並んで座っていた。
砂夜子の手には小さな小瓶とデザートローズのケースが握られている。
ケースからデザートローズを取り出して、瓶の中に入れた。
カラン、カランと音を立て、デザートローズは瓶の中に落ちていく。
それを見て満足げに砂夜子は頷く。その隣でジムは不思議そうに首を傾げた。
「これからはこうして持ち歩く。あとで首にかけられるよう紐を付けておこう」
「Bud、硬い瓶の中に入れて歩き回ったら、どんどん石は小さくなってしまうぞ?」
ジムの言う通りだった。
瓶の中で石が動き回り、底や側面に当たって石は壊れていくばかりだ。
だが、砂夜子は「わかっている」と言って小瓶にコルクの蓋をする。
「壊れてもいい。大事なものだけど、いい」
「砂になってもかい?」
ジムの問いに、砂夜子は頷いた。
小瓶を眼前に掲げ、瓶の中を転がるデザートローズを眺める。
「例え砂になっても、大事なものに変わりはない。蓋が外れて風に吹かれたとしても、一粒が残ればそれでいいのだ」
例え話だぞ。
そう最後に付け加えて、砂夜子は小瓶を服の中にしまってしまった。
「……I got it」
ふむ、とジムは頷いた。それから眉を下げて笑い、横になる。
そんなジムを視界の隅に入れながら、砂夜子は傍らに積み上げられた本を漁った。
だいぶ遅くなってしまったが、やっぱり本を読み聞かせてやることにしたのだ。
せっかくだから、とびきり怖い本を選んでやろう。
ポケットの中の小瓶を服の上から握り、砂夜子は僅かに口角を上げた。