初恋とは突然やってくるものです (ygo/遊星)


 ああ、どうして今日という日はこんなにも、ついていないのでしょう。

朝、ハンカチを洗面台の中に落とし、昼間は小銭を道にぶちまけ、バイオリンのお稽古に遅刻し、さらに課題の楽譜をお家に置き忘れてきてしまうなんて……。
しかも、すっかり暗くなった空は生憎の雨模様。
そして嘆かわしいことに、私は傘を持ってきていなかった。
冷たい雨は容赦無く私を濡らす。
肌も、綺麗に纏めた髪の毛も、ふわりと翻るお気に入りの服も。

どうしよう、こんな格好で家に帰ったらお母様に怒られてしまう。

そんなことを思いながら人混みの中を歩く。
こんな雨の中を傘もささずに歩く私は、やはり目立っているようで。
すれ違う人々が皆振り返る。ああもう、そんなにちらちら見てくるなら傘を貸してくださいな。あとで新品も添えてお返ししますから。

『はあ……、今日は本当にいい事がないわ。起こるのは悪いことばかり』

 小さく呟いて、人の流れから抜け出す。頬に張り付いた髪を鬱陶しげに払い、空を見上げたとき、見知らぬふたり組の男達がこちらに近づいてくるのが見えた。
男達はまっすぐ私を見据え、やってくる。目の前までやってくると、私を見下ろして口を開いた。

「お嬢ちゃん、こんなところで何やってるの? びしょ濡れじゃん。良かったら俺達が家まで送ってやるよ」

私は男達を見た。
沢山のピアスを付けた顔、伸ばしっぱなしの髭、アクセサリーにまみれた腕。
その腕には以前テレビで見たことのあるものが嵌っていた。確か、デュエルディスクと呼ばれるものだったか。
そしてどこか不自然な彼らの腰周りに首をかしげ、言う。

『あの……、ズボン下がってますよ、大丈夫ですか? 下着が見えてしまいそうですけど……ベルトが壊れてしまったのなら私が新しいものを買って差し上げましょうか?』

わたわたと手を握ったり開いたりを繰り返す私を見て、男達が苛立ち紛れに舌打ちをした。しまった、何か悪いことを言ってしまったのだろうか。

「あのねえお嬢ちゃん。これは腰パンっていって、こういう仕様なの。お洒落なの」

『そ、そうだったんですか!? すみません、私ったら……! あの、お気を悪く……されましたか……?』

どうやら私は男達に失礼なことを言ってしまったらしい。でも、気になるのも仕方ないと思うのです。だって、むき出しのお尻が寒そうだったんだもの。私も今酷く寒いから、彼らもそうだったら可哀想だって思っただけだったのに……。

「まあいいや。それよりこれから俺らと遊ばない? 寒いでしょ。それに、そんな格好のままこんなところフラフラしてたら危ない奴らにどこかに連れて行かれちゃうよ?」

そんな格好?オウム返しに口に出し、私は自分の格好を見て目を見開いた。
薄手の服は雨を吸い込み、透けていた。中に着込んでいたキャミソール、さらには下着の肩紐まで見えている。

『あ……えっと……!』

慌てて自分の体を掻き抱いた。頬が熱くなる。こんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてだ。

「ほら、俺らと遊ぼうって。温かくなるし」

男のひとりが手を伸ばし、私の手首を掴む。大きくゴツゴツした手は強い力で私を引っ張り寄せようとする。沢山の指輪が腕に食い込み、痛い。痛みに顔を顰めながら、私は男の手を振り払おうと身を捩った。

『や、やめてください! 迎えを呼んであるので、もう帰ります! 離してくださいっ』

迎えを呼んであるなんて嘘。携帯電話はずっと鞄の底に埋まっている。
にやにやと下品な笑顔を浮かべ、私の手を引く男を睨みつけるも、全く効果をなさなかった。
私は知らなかった。シティの、それも上層住宅地を近くに構えるこの辺で、こんな輩がうろついていたなんて。恐らくこの男たちはサテライト出身だろう。
シティはもう、以前のシティじゃないのだ。

「そんな可愛い顔で見つめられても。な、行こうよ」

ふたり目が、もう片方の私の手を掴もうとした。
やめて、触らないで、誰か助けて!
咄嗟に周囲に視線を投げかけるも、周りの人々は、さっと目を逸らした。
中には“可哀想に……”と同情の眼差しを向ける物の姿もあった。

『誰か……』

目に涙が浮かび、掠れた声が喉の奥から零れたとき、掴まれたいた片腕が自由になった。

「っぶ!!」

男が悲鳴を上げて冷たいアスファルトに転がった。今まで私の腕を掴んでいた男のひとりだ。男はがくがくと体を揺らし、程なくして動かなくなった。

「誰だてめえは! 何すんだよ、タダで済むと思ってんのか!!」

未だに腕を掴む、もうひとりの男が怒鳴り散らした。その男の視線を追う。

『あ……』

そこには、ひとりの青年が立っていた。恐らく男を殴り飛ばしたであろう手を軽く摩りながら、静かに私達を見つめている。
まじまじと青年の顔を見つめれば、その頬には黄色いラインが刻まれたいた。
薄暗い中でもはっきりと見えるそれは、まるで稲妻のようだ。
初めて見るその色彩に、私は首を傾げた。

「おい……」

青年が口を開く。私はその声にはっとし、暴れる。

『は、離して! いい加減にしてください、怒りますよ!』

髪を振り乱し、暴れる濡れ鼠の私は、目の前の青年にはいったいどう映るだろうか。
だが、そんなことは関係ない。とにかく今はこの男から離れることが先決だ。

「その手を離せ」

「はっ! 正義のヒーロー気取りかあ? カッコイイねえ、兄ちゃん。わりいけど、そいつは無理な相談な」

「……俺がヒーローなら、お前はまるで絵に書いたような悪役だな。だったら、ここから先は説明しなくてもわかるだろう?」

青年は静かに告げると、手に持っていた箱をその場に落とした。
そして、男に向かってサインを出す。

“かかってこいよ”

……と。男は額に青筋を浮かべると、私を思い切り突き飛ばし、青年に向かって駆け出した。

『うっ……!』

どさりと派手な音を立てて私が転ぶのと、青年に殴りかかった男がアスファルトに沈むのは、ほぼ同時だった。
震える肘を支えに体を起こした私が見たのは、白目を向いて倒れ付している男と、一歩も動くことなく男を投げ飛ばした青年の姿だった。

青年は足元の箱を拾うと、私のもとに歩み寄る。
濡れたアスファルトの上で呆然と見ていることしかできなかった私の前まで来ると、しゃがみ込み、私に声を掛けた。

「あんた、大丈夫か」

静かな、穏やかな声だった。
その声を聞いたとたんに、涙がこみ上げてきた。視界が滲み、情けなくも頬を熱いものが滑り落ちていく。

「おい……どこか、怪我でもしたのか? 簡単な手当なら……」

『いえ! ……いえ、大丈夫です』

急いで目元を拭い、青年に笑顔を見せた。すると青年はほっとしたように息を吐き、目元を微かに緩ませる。
だが、すぐに気まずそうに視線を私からずらした。訝しげに青年を見れば、街灯に照らされた彼の頬は少しだけ赤かった。

………ごめんなさい、変なものを見せてしまって。
私は理解した。彼が何を見たのかを。さっと胸元を腕で隠せば、肩に温かいものが掛けられた。

『……あの、これ』

それは彼が着ていたジャケットだった。夜空色のそれは、剥き出しの私の肩を包む。
青年はいつの間にか立ち上がり、私に手を差し出していた。

「そんな格好でいたら、風邪を引く。だから着ていろ」

『……ありがとう、ございます』

礼を述べて、彼の手を取った。ジャケットと同じ、温かい手だ。
そっと握って、立ち上がる。青年は私よりも大分背が高かった。

「いや、気にするな」

短くそう言って、手を解く。離れていく温もりに、何かを感じたけれど、それが何なのかはよくわからなかった。
青年は近くに落ちていた傘を拾い上げ、軽く雨粒を落とすと再び私の前に立つ。

『あ、そうだ……あの人たち……』

私はすぐ傍で伸びている男達を見下ろす。すると青年は、放っておけ、と首を振った。

「近くまで送る。このままひとりで帰らせるわけにはいかないから」

青年が、手に持っていた傘を私に傾けた。私は少し迷って、青年を見上げる。

『……いいんですか?』

「ひとりで帰れるのか?」

間髪入れずに返ってきた言葉に、私は押し黙った。それを見て、青年はさらに傘を私に傾ける。
ひとりではどうしようもないし、このジャケットだって返さないといけないし。
私は小さく頷いて、傘の中に入り込んだ。私が横に並んだのを確認し、青年はゆっくりと歩き出す。

 『あの、助けてくださってありがとうございました。本当に助かりました』

「いい。たまたま見かけて、男達がうるさかったら」

『そう、ですか……。』

「ああ……」

沈黙が支配する。会話といえば、私が時々告げる道案内だけだ。
……道案内が会話のうちにはいるのならば、だけれど。
青年はあまりお喋りな性格じゃないようで、時々しか口を開かない。
静けさが少しだけ寂しくて、気を紛らわすようにすんと鼻を鳴らした。

『……へっくし!』

すると、くしゃみが出た。誘発何とか……というやつだろうか。
隣にいた青年が、心配げにこちらを見やる。私は心配ないから、と笑った。

『大丈夫です! 少し雨に当たりすぎてしまったみたいで』

「そうか……今日は早めに休め」

『はい……ありがとうございます』

それきり、言葉は途切れ、再び静寂が舞い降りた。
お互いに黙ったまま、街灯が照らす道を歩く。

やがて、住宅地の入り口にたどり着いた。
立ち止まり、ジャケットを脱ぐ。それを青年に手渡した。

『ありがとうございました。ここからはひとりで大丈夫です』

青年がジャケットを受け取ったのを見て、言った。それから少しだけまゆを下げ、続ける。

『ごめんなさい。本当はその上着……洗ってお返ししたいのですけれど……その、家の者に色々尋問されてしまいそうなので、すみません』

私の家は、少々厳しい。
母親に男物のジャケットを見つかれば、きっとただでは済まない。
どこの誰のものか、何故私が所持しているのか、何があったのか、不純な理由でなないだろうか………。
ジャケットを青年に返し、何も持たずに帰れば、きっと何とかなる。
このびしょ濡れ泥だらけの格好も、転んで水溜りに倒れたどでも言っておけば言い訳になるだろう。
どちらにせよ、シャワーを浴びることすら出来ずにお説教されることは目に見えているのだけれども。

「気にするな。汚れてもいないし、大丈夫だから」

『ありがとうございます。あの……母が心配していると思うので、そろそろ』

「ああ、わかった」

青年は軽く頷き、背を向けると来た道を引き返し始めた。
少しずつ去っていく背中を見つめ、とても大事なことを思い出す。

『そ、そうだ! あの、お名前を教えてください!』

咄嗟に叫んだ。私の声は、静かな空間に響く。
青年はこちらを振り返り、私に聞こえる大きさの声で、言った。

「不動遊星だ」

『ふどう、ゆうせい……』

小さく、復唱する。忘れないように、脳に刻み付けるように。

『遊星さん! 私は、私の名前は名前です! 今日のお礼は必ず致します!』

彼……遊星さんは、今度こそ背を向けて歩き出す。その背中が見えなくなるまで、私は立ち尽くしていた。

『……そういえば、どこに住んでいるか聞き忘れてしまった……。シティのどの辺りだろう? 近くだといいなあ』

彼の青い瞳と温かな手を思いだし、胸を抑える。
初めての感覚。心臓がとくとくと鐘を打ち、どこか嬉しい気持ちになる。
遊星さんのことを、もっと知りたい。もっと、今日の感謝の気持ちを伝えたい。
もっと、もっと……、もっと、彼に会いたい。会って話がしたい、仲良くなりたい。
ああ、そうか。これが世に言う……。

『初恋、というものなんでしょうか』

呟いて、熱くなった頬を雨水で冷ましたくて空を見上げた。
しかし、いっこうに雨水は降りかかってこない。見上げた空は、雲が裂け、隙間から星の光が見えている。

雨は、止んでいた。

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