◎ぽつぽつ(王泥喜)



 ぽつぽつと降る雨。
夕暮れどきの賑わう商店街から少し離れた路地で、瑛真は空を見上げた。
シャッターが下りた花屋の小さく低い屋根のしたにお邪魔して、雨が止むのを待つ。
腕の中の、大事な裁判資料を濡らさないように、なるべくシャッターに背中を貼り付けるように立ちながら。
目の前を傘をさした親子が通り過ぎていく。
仲睦ましげに寄り添い合いながら一つの傘に収まる親子。
楽しそうな横顔を見て、何となく口ずさんだ。

「雨あめふれふれ母ちゃんが〜……なんだっけ」

ワンフレーズだけ歌い、口を閉じる。
続きが思い出せなかったのだ。思い出そうと、瑛真は目を閉じた。
そして、思い出したのは何故か歌の歌詞ではなく子供の頃の記憶だった。

確か、小学生5年生の頃だった。
その日は授業が午前中しかなく、いつもよりも早く帰る日だった。
いつもなら思う存分外を駆け回るというのに、急に雨が降りだした。
傘など無く、どうしようかと思いながらもとりあえず昇降口に出てみれば、クラスメート達の多くが迎えに来た母親と一緒に帰るところだった。
色取り取りの傘が校門を染め上げ、灰色だった景色に良く映えたのを覚えている。

その中には自分の母はいない。何故なら家は共働きで、母親も昼間は仕事に出ているから。だから、そこに母がいるはずはない。
全く寂しくないわけではなかった。雨の日に母親が傘を持って迎えに来てくれるクラスメートが正直羨ましかった。けれど、結局それが当たり前だったから、諦めていた。

「今日、ケーキ買って帰ろうよ!」

「お誕生日でもないのに?」

「いいでしょ! ねえお願い!」

「しょうがないなあ」

そんな会話が聞こえてくる。
少しだけ胸が締め付けられた。これ以上その場にいるのが嫌になって、くるりと後ろを向く。図書室で宿題をしながら雨が止むのを待とう。
昇降口の中に引き返そうとしたときだった。

「瑛真!」

名前を呼ばれた。
振り返れば、そこには傘をさしながら手を振る、スーツ姿の母親がいた。

「お母さん……お母さんッ」

目を見開き、思わず駆け出す。
ぱしゃぱしゃと水たまりを踏みながら、母親の前まで走る。背負ったランドセルがゴトゴトと音を立てた。

「お母さん、どうしたの!? お仕事中じゃないの?」

「今日は早く終わったの。帰ろうとしたら雨が降ってきたから、迎えに来たよ」

目尻に僅かに皺を寄せ、笑う姿は間違いなく母だった。
なんだか信じられなくて、母の手を掴む。
驚いた母は、一瞬だけ目を丸くして、それから優しく笑った。

「帰ろっか」

「……うん!」

母が瑛真の手を握る。ずっと願っていた母との帰り道が嬉しくてたまらなかった。
瑛真は手を握り返し、母の傘の中に入ると少しだけ自分より高い肩に寄り添った。


 ぱしゃん!

水が跳ねる音に、意識を引き戻された。
目を開ければ、そこはさきほどと変わらない、花屋の軒下から見える雨空で。
相変わらず降り続く雨。親子はとっくにいなくなっており、人気はすっかり無くなっている。あたりの外灯には明かりが点っていた。

「……お母さん」

温かった、母との思い出。
もう、戻れない過去の記憶だ。もうずっと触れることのなかった記憶。

「……帰らなきゃなあ」

できるなら、母のもとに帰りたい。けれどそれは無理な願いだった。
それをわかっていながらも、願ってしまう。

「帰りたいなあ……」

資料を抱えたまま、その場に膝を曲げて座り込む。スカートの裾がアスファルトに触るのも、気にせずに。もうずっとそうしていたい気分だった。
独り言ちることもなく、静寂が舞い降りる。

だが、すぐにその静寂が破られた。

「千秋さん。こんなとこにいたんだ」

「……王泥喜さん」

張りのある、若い男の声が瑛真の名を呼んだ。顔を上げれば、右手で黒い傘をさし、左手にもう一本傘を持った王泥喜がこちらを見下ろしている。
その顔はどこか呆れ気味で、でも優しいものだった。
……母の姿がほんのわずかに重なった気がした。

「探したんだよ! お使いから中々戻らないから心配した。急に雨も降り出したし、なにかあったのかと。皆も心配してた」

「……すみません。でも、なんで王泥喜さんが迎えに来るの?」

「む……なんだよ、俺じゃ不満? ……いいけど。みぬきちゃんはギリギリまで事務所にいたけどビビルバーにお仕事、希月さんは入れ違いにならないよう事務所で待機、成歩堂さんは急な呼び出しで裁判所。んで、俺が来たってわけ」

「ふーん……」

「ふーんって……。ま、とにかく帰ろう」

一度ゲンナリと肩を落としながらも、王泥喜は傘を持ち直す。そして手に持っていたもう一本の傘を瑛真に渡した。

「事務所にあったやつだけど、それ使ってくれ」

瑛真は頷き、傘を開く。だが……。

「あ、穴空いてる。しかもでかい」

「え、うそ……あー、ホントだ。でかい」

その傘は、大きな穴が空いていた。それも、かなり大きめの穴がいくつも。
使うのは難しそうだ。王泥喜と瑛真の視線は、王泥喜が持つ無事な傘に自然と集まる。

「えっと、どうしよっか。千秋さんにこれ使ってもらって、俺がそっちの穴空きを……」

「……はあ、だっせー……」

「ひ、ひどい!」

二本の傘を忙しなく見比べ、ああしてこうして、と落ち着きのない王泥喜。
そんな彼をみて、瑛真はたまらず溜息をついた。
それから、未だ王泥喜が持っていた傘の中に飛び込む。
ぐいっと王泥喜の肩を押して、無理やり入り込んだ。

「千秋さん……?」

「ホント締まらないですね。これが牙琉検事とかだったらもっと格好良くキメてくれるのに」

「……悪かったな、牙琉検事みたいにかっこよくなくて。……あれ、こんな台詞前にもどこかで」

「ほら、帰りましょう。みぬき嬢のステージ、私も見に行ってみたいです」

資料を抱え直し、歩き出す。
並んで歩き出した王泥喜を見上げ、小さく礼を告げれば、王泥喜も笑って頷いた。

当たり前のように出た「帰りましょう」という言葉。
いつの間にか、あの事務所を自分の帰る場所だと認識していたらしい。
母の元に帰りたい。けれど、帰らなくては行けない場所は他にあったようだ。
少し前まで好きじゃなかった場所なのに、今では帰る場所になっていた。

「……王泥喜さん、ケーキ買って帰りましょうよ」

「へ? えー、俺今あんまりお金持ってないんだけど」

「私と王泥喜さんで立て替えて、後で成歩堂さんに請求しましょう」

肩や資料を濡らさないよう、王泥喜に近寄れば、ふわりと石鹸の香りがした。

「……帰れないんだな……」

あの時、傘の中で鼻をくすぐった母の香りは、もう思い出せない。
それが、もうあの頃には戻れないことを教えてくれていた。

「何か言った?」

「いえ、なにも。みぬき嬢とヒヨコちゃんは何が食べたいですかね」

「あー、みぬきちゃんはプリンとかいいんじゃないかな。希月さんは……」

隣を歩く王泥喜の石鹸のいい香りとスーツの赤が、あの日の母の記憶を塗り替えていくような気がして、瑛真はなんだか切なくなった。
 





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