◎じりじり(王泥喜)



 午後3時過ぎ。日が傾き始め、ほんの少しずつ日差しがオレンジ色に色付いていく。
静かなバスの中で、金属で出来た手すりに窓から差し込む光が反射して輝くのを俺はぼんやり眺めていた。

相変わらず弁護と関係ない依頼を千秋さんと済ませた帰り道、徒歩で帰るには遠いからと、ふたりでバスに乗り込んだ。
乗り込んだバスは平日の午後ということもあって、人が疎らだった。
一番後ろの席に座った千秋さんの隣に何となく座れば、まあ、刺のある視線が飛んでくる。けれどあえて気にせずにいれば、千秋さんも窓の外を眺め始めてしまった。

それが、数十分程の前の話。
事務所に一番近いバス停まで結構時間がかかること、そしてバスの中が暖かかいこともあってか、気がつけば千秋さんは眠っていた。
壁にぴったりと肩を付け、窓に額を押し当てるようにして静かに寝息を立てている。
依頼の内容が、“一人暮らしの腰の悪いおばあちゃんに変わって床掃除”というそれなりに体力を使うものだったせいか、疲れてしまったようだ。

テーブルの下に潜ったり、ソファの影やテレビの裏に入り込んだりと、低い姿勢で行う掃除は実は結構疲れるものだ。俺と千秋さんがこの依頼を命じられたのも、恐らくは低身長だから低い姿勢も楽だろう、という失礼極まりないものだと思う。身長に関係なく体力を消費するとうことを立証したわけだが。

視線を千秋さんに移せば、ぴんと張った首筋が目に入る。壁に張り付いた左肩に左頬をぴったりとくっ付け、右側の首筋が伸びている。何だか見ていて辛そうだ。寝違えたりしないのだろうか。
絶対俺の方を向いて眠らない千秋さん。そんなに寝顔を見られたくないのか……。
いや、同じ空間で居眠りするだけ、リラックスしてくれてるのかな……? だったらいいけど。
 
 初めて事務所に現れた時に比べて、千秋さんは少しだけ丸くなった気がする。
ほんと、気持ち程度で少しだけど。
当初よりも、俺達の話を聞いてくれるようになったし、極まれにだが食卓についてくれるようにもなった。希月さんともこの間テレビドラマの話をしていたし、成歩堂さんともスムーズに報告書の受け渡しをしている。みぬきちゃんとは、最初から仲が良いみたい。
俺とは……、こんな風に隣でうたた寝してくれるくらい、とだけ。
あ、それと「王泥喜さん」と呼んでくれるようになった。
たまに「チビデコ」と言われるけど、大きな進歩だ。
弁護士嫌いの理由はまだ謎だけど、今はもうそんなこと気にならない。確かに俺達の距離は縮まりつつあるのだから。ごく僅かだけれども。

「……お……さ……」

「千秋さん……?」

小さなうめき声が聞こえた。
耳をすませば、どうやら千秋さんの声のようだ。寝言だろうか。
途切れとぎれの声は、次の瞬間確かに一つの単語になった。

「……お、……かあ、さん」

お母さん。千秋さんがそう言った。
母親の夢を見ているのだろう。幸福な夢か、それとも。
想像するのは簡単だった。窓にうっすら映った千秋さんの寝顔。その眉間には皺がより、頬には涙が滑り落ちていた。

「……お母さん、か……」

そういえば、千秋さんの家族について、何一つ知らない。
一人暮らしだとは聞いているが、母親はどこか遠くに住んでいるのか。
遠くに暮らす母親を思い出し、寂しくなってしまったのだろうか。
母親の顔も知らない俺には、正直わからない寂しさだ。母親がいない寂しさなら、知っているけども。

垣間見てしまった千秋さんの一面。俺は何も言わず、少しだけ千秋さんとの距離を詰めて座り直した。

「……う、うう……」

また、うめき声。だが、先程のものとは何だか様子が違う。どこか苦しそうだ。
魘されている。思わず千秋さんを覗き込んだ。

「千秋さん? だいじょう……」

「……っは! ……うう……」

肩を揺らそうと手を伸ばしたとき、千秋さんが飛び起きた。
目を軽く見開き、左側の首筋を片手で抑え、もう片方の手で額を覆っている。

「千秋さん? 大丈夫?」

「あ、頭が割れるかと思った……」

「は、はあ……?」

千秋さんは深くゆっくり息を吐き、頻りに首筋を撫でている。
一体どうしたというのか。

「どうしたの? なんか様子が変だけど……怖い夢でも見たの?」

「王泥喜さん……。いえ、頭が風船になる夢を見てしまって……。寝苦しかったみたいです、やっぱり」

これ、といって秋風さんがずっと壁に貼り付け縮こめていた左肩を摩る。
はやり、寝苦しかったらしい。不自然に曲げた首を痛め、何よりスーツの襟や肩が首筋を圧迫して頭が痛くなったようだ。無理な姿勢で揺れるバスの中で数十分、そりゃあ色んなところをダメにするだろう。

「変な格好で寝るからだろ」

「窓におでこくっ付けてた時はそうでもなかったんですよ。いつの間にかずり落ちてたんですって」

首や肩を小さく回しながら、千秋さんがブーたれる。
俺は苦笑いを浮かべ、冗談半分で自分の左肩を差し出した。

「俺の肩に寄りかかってもいいよ。高さもちょうどいいだろう」

千秋さんが目を丸くした。
そしてすぐにジトっと険しい目付きになり、俺を睨む。予想通り過ぎて、安心した。
ここでしおらしく頬を染めて頷かれたりしたら、彼女の体調不良を本気で考えて行き先を事務所から病院に変更しなくてはならない。

「……はあ? 嫌ですよそんなの。私は牙琉検事みたいにもっと逞しい肩に寄りかかりたいです。というか牙琉検事がいいです」

「……悪かったな、貧相な肩で」

牙琉検事の名前を呼ぶとき、千秋さんはちょっとだけ嬉しそうにする。
きっと希月さんがここにいたら“喜”の音が聞こえてるんだろうな。
牙琉検事との仲の良さをさりげなくアピールされ、何だか千秋さんとの間の距離を改めて突きつけられたような気分だ。仲良くなっていると思っていたけど、まだまだらしい。

「……千秋さん、ほんと牙琉検事と仲いいね。学生時代からの知り合いだ……っけ」

何となく牙琉検事の話を続けてしまう。別のことを話そうと思ったのに、口から出たのは牙琉検事の名前だった。視線を正面から千秋さんに移せば……。

「……って、また寝てる」

千秋さんはまた眠っていた。余程疲れているのか、一瞬で寝落ち。
そろそろ目的のバス停が近づいてくる頃。起こさなくてはならないのに、俺には千秋さんを起こせなかった。
……というのも、千秋さんの寝顔を見てしまったから。

先程と違って、千秋さんは窓の方に首を倒して寝ていなかった。
前を向き、膝の上の鞄に腕を乗せ、眠っていた。微かにこちらに頭が傾いている。
その寝顔は安らかで、楽しそうな夢を見ているのだと思った。眉間の皺も涙の跡も無い。

バスが揺れ、千秋さんの額が俺の肩にトンとぶつかった。
しかし千秋さんは目を覚まさない。触れ合った肩からじりじりと温もりが伝わり、ドキリとする。
しかしそれ以上に、むず痒くも嬉しい気持ちが溢れてきて、もう少しこのままでいたいと思った。
バス停が見えてくるまではこのままでいよう。
もう少しだけ、このままがいい。俺は目を閉じ、体の力を抜いた。


……十分後、目を覚ました千秋さんに理不尽にも張り倒されるとも知らずに。





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