※現代パロディ
※転生設定
※捏造過多
※性的描写有り
※閲覧自己責任









拾、

女の、薄く色付いた唇が音も無く動いた。
「貴方は其れで本当に倖福なんですか」
刹那、息を飲んだ男を畳み掛ける様に女は言を連ねる。もう駄目だった。何時迄も変わらぬ他人任せに腹が立って仕様が無い。刺し違えても言うべきだと本能が告げている気がして、迷う事なく彼女は其れに従った。
「何時だって心優しい貴方はそうでしたよね。自分で答を指し示す事なく、相手に決定権を委ねていましたよね。もうずうっと貴方と一緒に居たわたしは、ずうっとその恩恵を受けてきましたとも。ええそう。優しさに託けて臆病な本性を匿す為に自ら周囲に線引きして不可侵をわたし達に要求して、しかも無言の圧力でそれを強いてきましたね。にこにこしながら、踏み込む事を許しませんでしたよね。自分は人の弱い所をずけずけと選んで刺していく癖に。もうそうなっては精神の強姦と言っても過言ではないわ。強姦よ、和姦ではないのよ。許可も無く相手を虐げるヒトとして最底辺の行いに近しい言動を、貴方は優しさと見せ掛けわたし達に与え続けた。そうやってずっとずうっと、わたし達を嬲り甚振り続けた。わたし達は何時だって健気に、粛々と耐えて来たと云うのに、どうして、まだ、」
猛禽類宜く、異様に鋭い眼光を放って居た翠色が再び水分量を増して滲んだ。柔らかく降り注ぐ午後の陽光に照らされる身体はか細く、儚い。手を繋いだ儘で良かったと、この場にそぐわない思考を巡らせる。手を離してしまったら、掻き消えて仕舞いそうだと思った。

「わたしは、自由で倖福でした」

ひと滴が、零れた。温度を感じさせない白い頬に、透明な滴が溢れる様に次々と流落する。哀しみに嗚咽する口唇から、震える様に息が吐き出される。泣いて居る、可哀相に。手を伸ばしたかった。けれども、男は動けなかった。余りにも美しい真っ直ぐな瞳から、眼が逸らせない。心を、飲み込まれてしまった様だった。

「わたしはずっとずうっと前から、自分の意志で貴方に寄り添いたいと思い、生きて来たのです」
例え切っ掛けが天の悪戯だったとしても、今日までのわたしは何の紛れも無くわたし自身の自由意志で貴方と一緒に生きたいと思っています。
「今度は、貴方の番です。貴方の自由意思で、どうか、選んでください」

そう叱咤された瞬間、男の肩が震える。自分の意思、そう思うと今迄不透明だった物が突如鮮明な物に映り変わった気がする。ずっと昔から答を抱えて居た。然し自らの意志を表明するのは自己を押し付けている様で嫌だった。だから周囲に決断を委ねて生きて来たが、まさか強姦と呼ばれるなんて。気付かない内に自らに決定権が在る事さえも忘れて居た気がする。自分自身の生涯だと云うのに。然し其の、或る意味最も蔑ろにされ続けて居た彼の生涯も終いなのかも知れない。自ら選び、掴み、抱き留め、時には歓び時には泣いて、哀しみや慈しみともっと近しく生きて行きたいと、強く思った。


「……そうだね、」
観念した様に小さく笑う。彼が、呼んだ。
柔らかい晩冬の陽光が、より一層に世界を照らす。薄く棚引く雲が、しゃらしゃらと風に靡く野草が、光の色に染まる。彼女の髪も彼の其れも総て、光の色に成る。

彼は名前を呼んだ。
何度も、何度も。
そうして彼女が笑ったのだから。
其れが、総ての答だった。







撫菜









壱、

真冬の朝は、あらゆる全てが敵だと思えて仕方がない。
凍える足の裏と足の甲を交互に擦り合わせ、深々と冷え切った板張りに接地する面積と時間を少しでも減らそうと足掻きながら、決死の覚悟で顔を洗う。水を掬う時、怯んでしまってはもう顔を洗うどころの話では無くなるので、ひと思いに行く必要があった。水に触れた瞬間、まるで目の細かい剣山で刺された様に手の皮膚全体が痛むが、ただただ冷たいだけだと云うのはもう知っている。負けずにばしゃんと顔に押し付ける。ああ、やってやったぞ!謎の達成感に浸るも急激に顔の体温が下がったせいか、耳の後ろがぞわぞわした。
手と顔の感覚が無くなる頃、地の厚いタオルに逃げ込んだ。顔を押し付けて深く息を吐くと、自分の温度で顔がぽかぽかする。洗濯洗剤の清い匂い。足の指を重ねて擦り合わせるが、結局どちらも冷えきってしまった。寒い寒い。家の中だと云うのに吐く息は白い。朝日の差さない薄暗い廊下を小走りで進み、目的の襖を目指す。
襖を開けるその瞬間は、実は毎朝のささやかな倖福であった。薄暗い視界がぱっと明るくなり、部屋中が暖気に溢れている上に朝食の良い匂いがする、倖福な居間。有り触れた当たり前の日常だけれどいつでも愛おしい。
飴色の天板が乗る焦げ茶の炬燵布団に滑り込み、失われた体温を取り戻す。じんわり広がる温もりにうっとり息を吐く。もう二度と此処から離れたくない。
「お早う、今日も寒いね」
飴色に頬を押し付けすっかり伸び切って居ると、上から声が降って来た。
「おはよう、寒過ぎて死んじゃう」
「ほんとだね」
さらりと受け流しながら、盆の上の朝食を眼の前に並べて行く。お茶碗の白さと骨張った指の白さが似ていると思った。
「食べよっか」
柔らかく眼を細め、緩く口角を上げた其の人は冬に良く似ている。


「あ、今日の体育、持久走だ…」
「若いね。今日の最高気温3度だって」
「幾ら若くて可愛いと言っても、冬は寒いし死んじゃうわ」
「そうね」
ずず、とお味噌汁を飲む涼しい横顔を睨んでいると眼が合い、にこりと笑われる。
「思ってるよ」
「まだ何も言って無いわ」
声を出して軽く笑った彼は、今日の白和え、傑作だから食べて、と小鉢を眼の前まで寄せて来た。戯言の応酬を繰り返すが、いつも丸め込まれている気がする。しかし別段嫌ではないので大人しく丸め込まれてやる事にした。傑作を味わおうと小鉢に手を伸ばすと、そう言えば、といつも通り覇気の感じられない声が流れる。

「俺、もう少しあったかくなったら、また仕事受けようと思うんだ」
「え」

伸ばした手が不自然に止まり、勝手に声が出ていた。驚きが如実に現れている。お前も高校生になったし、と何気なくそう続ける横顔は、何の他意も感じられなかった。実際、本当に無いのだろう。唯単に彼女が義務教育を終えたから。その通りなのだろう。
しかし、直ぐには彼の言葉を受け入れたくない幼い自分が居るのも事実で。まだまだ温かい此処で、ぬくぬく甘やかされて居たい。
見る見るうちに萎れて行く彼女を見兼ねた彼は、茶碗と箸を置いて軽く息を吐いた。

「さくら」

皮膚の固くなった指先が、髪を梳いて柔らかく撫ぜる。窘める様な、慰める様な、あやす様な声で、今迄何度も何度も何度も何度も呼ばれてきた。此の声を跳ね返す術を、さくらは未だに見つけられていない。

「……おとうさんは、いつも突然ね」

幼児が不貞腐れた時の見本の様な声が出て仕舞った。
あからさまに機嫌を悪くした彼女を見て、けれど彼女の父は楽しそうに愛おしそうに、いつも通りに笑う。

「そうだね」
そうして、いつもの様にそう言った。







弐、

さくらとさくらの父に血の繋がりは無い。
証拠の様に顔も性格もまるで似て居ないし、似た点を無理に上げるとしたら二人とも色素が薄いと云う点だろうか。物心がついた時にはさくらの父はさくらの父で、実の母は物心がついた時には居なかった。さくらにとっての母は、自分とよく似た写真の中だけの人だった。理由としては死別したのだと遠い昔に言って居たが一度も墓参りに行った事は無いので、恐らく嘘なのだろうと最近は勘を付けている。(父は面倒になるとざっくりした嘘を堂々と言うきらいがあるのだ)

「え、あの子また海外行っちゃうの?」
「……そうらしいですぅ〜…」
「さくらちゃん、淋しくなっちまうな!」

豊かな赤毛を一つに束ねた彼女が心底驚いた声を上げたものだから、朝からずっと不機嫌を引き摺って居たさくらも少しだけ機嫌が浮上する。しかし直ぐ機嫌が直る単純な奴だと思われたく無かったので、まだちょっと引き摺っている返答をすると、私服に着替えた幼馴染が淋しさも何も丸ごと吹き飛ばしてしまいそうなでっかい声で言った。
「ちょっとあんた、ちゃんと手ぇ洗ったの?!」
「今から洗うってばよー!」
さくらの前に出されたクッキーに手を伸ばすのを目ざとく発見した彼の母が叱りつけると、唇を尖らせながらも洗面所に向かう。ガキの頃から何も変わって無いわね、と大人ぶって言うと、男ってのはほんとにね、と実際の大人もそう言った。
「私、あの子の事ガキの頃から知ってるけど、ほんと突拍子も無いのよね。控え目な癖に頑固だし」
「え、おとうさんですか?やっぱりそうだったんですねー…」
幼馴染の父親はさくらの父の恩師で、父が学生の頃はよくご飯などお呼ばれしていたらしい。今はさくらが呼ばれても居ないのにお邪魔してしまうから、其処は親子と言えるのかもしれない。

「あいつなりに考えてるんだろうけど、15歳の女の子を一人家に残すってのもねえ。…ちょっと、今度一緒に連れてきなさいってばね」
「えっ!センセーうちに来んの?!」
「わかりました、言っときますね」

何故か父をセンセーと呼ぶ幼馴染を無視して、クッキーを齧った。







参、

其の感情の名前を、未だ見付けられずに居る。

普段は此処に居ないのに、しかし夏の遠雷の様に密やかにそっと耳につく。ふと気が付いたらずうっと鳴り響いて居た様な既視感。
冬の乾いた土路が、歩を進める度に細かい埃を上げる。吐く息が白い。夕暮れの空が光の色に染まる。秋から揺れる芒が金色に染まる帰路の途中、同じ様に毛先を金色に染められた細長いシルエットを見つけた。
「おかえり」
柔和に微笑む仕種に胸が詰まる。
「ただいま」
視て、と彼が両手を広げる。
「ぺんぺん草」
嬉しそうに微笑む。
黄色い帽子を被ったもっともっと幼い頃、手を繋いだ帰り道。たくさん寄り道をしながら帰るのが日課だったふたりの、最大のブームがそれだった。
「懐かしいね」
親指と人差し指で挟み、くるくる回すと、か細い草が繊細な音を立てる。しゃらしゃら。しゃらしゃら。うわあ、すごいねえ、がっきみたい!ほんとうだね。すごいね。
「…本当ね」
記憶に釣られ、無意識に表情が綻んだ。
変わらない大きく骨張った手の中の草を見詰めて居ると、空いて居たもう片方の手が頬を撫で、耳朶を擦る。乾いた指が触れる音は、少しだけ草が擦れる音に似て居た。
「…冷えたね。帰ろうか」
何事か発するべく開かれた唇は、しかし薄く閉じられて、緩く弧を描く。
「……うん」
ひどくさみしそうに。







肆、

歴代の最高気温を更新した、猛暑日の夜半のことだった。
睡眠時にエアコンを点けるのが苦手なので、田舎であるのを良いことに網戸と扇風機を駆使して就寝を試みたのを憶えて居る。無理やり寝付いたは良いが結局暑さに喘ぎ、夜半に起き出し月明かりを頼って水分を補給しに台所へ向かった。
ぺたぺたと汗をかいた裸足を鳴らして自室へ戻る途中、呻き声を聞いた。
「おとうさん?」
襖を開けると、月が部屋にそっと差しこむ。見回すと、同じく網戸と扇風機を駆使して寝付いて居た父は、しっかりと目蓋を下ろしているが酷く寝苦しそうにしていた。寝巻にしているシャツの胸元を掻き毟る様に両手で握り締めており、汗で髪が顔に貼り付いている。
「暑いの?氷枕持ってくる?」
枕元に膝をつき、手で顔を扇ぐ。邪魔そうな前髪をどけてやると、眉間の皺は深く刻まれていた。普段は死んだ様に大人しく寝ているくせに。初めて見た姿に少なからず動揺したさくらは、そっと肩を掴み、小さく揺すった。が、中々起きないので頬をぺしぺしする。
「ねえ、起きて」
「う、」
小さな小さな声が漏れた。一緒に洩れた熱い息もさくらの手を撫でる。起きて起きて。ぺしぺし。ぺしぺし。覗き込む。眉間のしわ。ぺしぺし。ぺしぺし。ねえ、だいじょうぶ?頬に掌をくっつけても微動だにしない。声が止まる。魘される夢は終わったのだろうか。
月明かりが差しては居るが、自分の影の中にいる其の輪郭ははっきりしない。何の気なしに肉の無い頬を指先で撫でる。順に整った鼻梁、無造作な眉、深い渓谷の出来た眉間、薄い上唇、。
「ーーーー…」
そうするのが自然な様に、気が付いたら口接けていた。
熱く汗で滑る其処に、自分の、其れを。
完全に思考が停止していた為、暫く其の儘じっとしていたが、息が苦しくなったのでそっと離れた。息が整うまで観察してみたが、寝顔は何も変化なし。初めてのキスをしてしまった(しかも父と)という感慨は不思議と全く無く、暫くの間ぼうっと寝顔を見詰めて、もう一度同じ事を繰り返した。今度は、角度を変える。口唇同士が摩擦すると、びりびりとした感覚が生まれる事を初めて知った。触れて居るだけなのに気持ちが良くて、何度も何度も繰り返す。脳が茹だったのだろうか。頭は真っ白だった。
「んぅ、」
鼻に掛った甘くて低い吐息が、さくらに直接流れ込む。声を認識した瞬間、身体がぶわっと熱くなった。何故だか急に泣きたくなって、けれどもどうして良いのか解らず必死に口唇を押し付け続けて居ると、熱くてしなやかな腕が背中に回った。大きな掌が後頭部に添えられたと思うと、ぬるりとしたものが上唇をなぞる。瞬間、今度は全身にびりびりが響いた。ぬるりとした其れが舌であると認識するのに少々時間を要し、何度か唇を往復したのでそっと口の力を緩めると、するりと咥内に入って来た。舌を舌で舐められると、とうとう涙がぼろりと落ちる。全身が熱くて、心臓が壊れそうで怖くなった。離れたい気持ちともっとして欲しいと云う気持ちが綯い交ぜになって解らなくなる。空いていた指がさくらの耳を撫で上げると、瞬間的に胎の底からせり上がって来た吐息と声が漏れた。
其の時、ごくんと大きな音がした。自分の音では無いと後から思い返したが、此の時は唯々必死だった。身体に添えられていた両手からふっと力が抜けたので、ふらふらと上半身を起こす。身体をずらし、月明かりの下で確認した寝顔はいつも通り規則正しい寝息を立てて居た。
そしてさくらは、其処から先はあまり憶えていないが、多分逃げる様に自室に戻り、そして恥ずかしさと罪悪感で悶え転げた。一晩中悶々と悩み、考え、寝たのか寝て無いのか解らない状態で朝を迎える事になる。

「さーくら。いつまで寝てんの。遅刻するよ」

部屋まで起こしに来た父は、普段と変わらなかった。ので、さくらの今後の行動は決定した。
何も無かった振りをして、今迄通り生活するのだ。と。







伍、

後々、冷静になって思う。
あの時きっと、父は起きて居たのだろうと。途中で起きて、けれど知らぬ振りを選んだのだろうと。倫理的で、当然の答だと思う。だけれどわたしは、どうしても、あの掌と口接けを忘れられなかった。初めての経験だと云うもの在ると思うが、識っていた、という気さえして来るので始末に負えない。そして考えれば考える程、理屈ではなく本当に識って居たのだと思うのだから、本当に始末に負えない。

そんなわたしを察したのだろうか。
だから父は、また本格的に仕事を再開させると言ったのだろうか。わたしと距離をとるために。正しい父子のかたちにもどるために。

もうすぐ、雪の季節が終わる。







陸、

ずっと昔から、残像が過る。
毎日ではなく、日々のふとした瞬間。物心ついた時から其れは共に在った。草原を走る時で在ったり、ぼうっと河を眺めている時で在ったり、春の或る日だったり。自分にしか視えない其れを誰かに云った事は無い。唯、そう言うものなのだと特に何もせず放って生きて来た。しかしその残像は、両親を失くした中学時代に耳鳴りを伴う様に成り、やがて頭痛も引き起こす様になる。じりじりと痛んだり、眼の前が真っ暗に成って立って居られない程痛んだり。症状はまちまちだった。数回診察を受けたが、何処の診療所でも家族を亡くした心因性の物だという結果しか出なかったので、医者に頼るのを止めた。
其れと同時期位に施設に入って通い始めた高校の担任は新人教諭で、驚く程人格者で優しく、聡く、熱心な人だった。本当に色々な話をしたと思う。そして仕舞いにはもうすぐ籍を入れると云う婚約者と一緒に棲んでいる家にまで連れて行ってもらい、(ふたりとも俺とそこまで歳が離れてる訳でも子どもが居る訳でもないのに、俺を本当の子どもの様に)深い愛情を分け与えて貰った。

知らない間に擦れていた心が、少しずつ穏やかに凪いで行く過程が解った。

其の時から、残像に変化が現れた。
其れは残像では無く、人の影の様に視えて来たのだ。と知覚すると、今度は耳鳴りが誰かを呼ぶ声に聞こえて来た。細かい事は解らないが、ひどく、愛おしい。
頭痛が酷過ぎて嘔吐を繰り返しても、苦しくて呼吸が出来なくても、其の影は、声は、只管に愛おしい。さくらと一緒に暮らす様になってから大分回数も減ったと思っていたのだが。


食事と片付けを終え自室に戻るとすぐ、激しい頭痛に襲われた。
ぐわんぐわんと自室が回転して居る。今日は重たい日だ。頭を掴むが、気休めにも成りそうにない。しゃがみ込んでじっと耐えて居ると、脂汗が背中を伝うのがわかる。

「だいじょうぶ?」

突如吹いた涼風の様な声が、すっと耳管を通う。すると、今にも割りそうな勢いで痛んで居た頭痛が止んだ。無意識に止めて居た息を吐くと、どっと汗が噴き出た。先に入浴を済ませたさくらが呼びに来てくれたらしい。

「…大丈夫、ごめん。ちょっと頭痛くて、でももうだいじょうぶ」

清潔な匂いのする、少しだけ冷えた掌が額に触れる。それだけで癒されていくのが判るから不思議だった。さくらは、やさしい子だった。ずっと前から。やさしくて潔くて愛おしい。倖せになって欲しい。ずうっと笑って居て欲しい。ふふ、と可笑しくなって息が洩れると、どうしたの?と手を宛てたまま、不思議そうに言った。

「ううん、何でも無い」







漆、

ありがとう、だいぶよくなった、と彼は言った。
微笑んでは居たけれど、何かを諦めた様な酷く疲れた顔をしていたから、思わず両腕を伸ばして丸ごと抱き締めた。一瞬、叩かれた様に大きな身体が強張ったけれど、猫っ毛をやさしくやさしく撫で続けると少しずつ力が抜けて行った。腕の中の頭はとても熱くて、大丈夫には思えない。お風呂に入ったら、余計悪化しそう。顔色をそっと覗き込むと、深い色の瞳と視線が合う。柔らかく目を細められると心臓がぎゅうっと締め付けられ、胸が苦しくなった。
色素の薄い髪に唇を落とす。
「さくら」
くすぐったそうに、窘める様に名前を呼ばれる。
額に、鼻梁に、口接けていく。両脇の下に手を入れられ、猫の子の様に引きはがされそうになるが抵抗する。
「さくら」
瞼に、頬に、耳に。
「さくら」
駄目だよ。
「…んーん」
駄目じゃない。
「さくら」
駄目じゃない。だめじゃない。口唇を、合わせる。またびりびりとした感覚があったが、今度はお腹の奥も熱くなった。其れを求める様に、何度も何度も繰り返す。頭が、ぼうっとしてきた。脇の下の手を外し、自分の頬に宛てる。頬を数回撫でた後、首筋、鎖骨と誘導しながら口接けを繰り返す。自分から、唇を舐め上げてみた。すると小さな子どもがびっくりした時の様に目を丸くしたから、瞬時に羞恥で頭が沸騰しそうになる。
はしたない、と思ったが、もう自分では止められなかった。震える指先で、パジャマの一番上のボタンを外す。二つ目と、三つ目も。寝る時に下着は付けないので、五つ目を外すとさくらのすべては顕わになった。さくらの手に誘導されるが儘、首筋と鎖骨を撫でて居た指先が段々と下に滑る。角度を変えて口接けしながら、申し訳程度に膨らんだ乳房を押し付けると、自分でした癖に、声を抑える事ができなかった。
あられもない声を上げると、今迄されるが儘だった掌が急に自我を持ってさくらを苛んだ。自分でするよりもっと高い声が出て、びっくりした。舌と舌が絡まるキスをして、耳を首筋を鎖骨を吸われ舐められ歯を立てられて。必死に声を抑えたり上げたりしていると、気付いた時にはもう既に電気は消され、さくらは布団の上で裸になっていた。
耳も首筋も胸も、最初は違和感があるだけだった。けれどゆっくりゆっくり舌で指で愛撫され続けると段々と気持ちよくなってきて、今度は腰が勝手に跳ねる様になった。さくらのささやかな胸に吸いつく姿が可愛くて頭を撫でると、歓ぶ様に乳首を指で愛撫され甘噛みされて声が我慢できない。全身を指で唇で舌で愛撫され、最後に足を開いた時にはもうどろどろに蕩けきって居た。舌で小さく突く様に始まって、舐め上げられて吸われて齧られて。そうやって丹念に慣らされた後、漸く指を挿れられた。圧迫感と違和感は時間の経過と一緒に最上の快感に変化し、舐められながら奥を掻き回されると初めての絶頂を迎えた。
涙と唾液でぐちゃぐちゃのさくらに何度も何度もキスをして、愛おしそうに抱き締めて頭を撫でてくれるのが嬉しくて苦しくて涙が止まらない。ただただ、倖福だった。優しく優しくしてくれたから、初めての挿入も痛みはなかった。初めは緩やかだったが、直ぐに腰を浚われ持って行かれる様にピストンが激しさを増す。汗で滑る手と手を必死で繋いで、膣内で彼を強く感じる。気持ち良い。気持ち良い。頭が沸騰しそう。意味を為さない声が散る。涙が止まらない。初めて聴く甘さを含んだ呻き声に、更に胸が締めつけられた。もっと。もっと、さくらで感じてくれたらいい。さくらで気持ち良くなって。もっと、もっと。ばたばたと、胸に汗が落ちて流れる。繋いだ手に血管が浮く。ああ、声が止まない。腰から下の感覚が無いのに、彼が打ち付ける度に快感が押し寄せる。ぐちゃぐちゃとひどい音を立てて奥深くを掻き回されるとがくがくと太腿が痙攣を起こした。頭が真っ白になる。いきそう、いきそう。いきたい。さくらの上で揺れる銀髪に手を伸ばす。銀髪?思考が回らない儘小首を傾げると、キスを強請ったのだと思われたのか舌で舐め取られる。銀髪を抱き締めて、キスに応える。先日の任務で負った怪我はやっぱり痕になっていた。労わる様に指先で撫でると、気付いた彼は柔らかく眼を細めて頭を撫でて頬にキスをする。
「さくら」
名前を呼ばれるだけで胸が締め付けられる。ああ、愛しい。好き。好き。なんで、こんなにも。抱き上げられて、彼の上に座る体位に変わる。抱かれながら下から突き上げられると、今迄より更に深く這入って来て、むずかる子どもの様な声が出た。ぎゅうぎゅうと抱き合って腰を擦りつけ合う。いきたい、いきたい。もっと気持ち良いのが欲しくて彼を締めつけると、ぐっと圧迫感が増した。もっと、もっと。もっと。気持ちいい。いきそう、名前、名前呼びたい。銀髪に指を差し込んで、キスをする。名前、呼びたい。だいすき。だいすき。ずっとあいたかった。ずっと、ずっと。ずっと、ここにいたのね。いきそう、いく、だいすき、だいすき。だいすき、だいすき、 。

「かかしせんせい」











捌、

「わたし、そんな子ども染みた遊びなんてしたことなくってぇ」

春。
翠の新芽が芽吹き、花の甘さを含んだ暖かい風が木ノ葉の里を廻る季節。ザリガニ駆除の任務でムキになる馬鹿2人を手持無沙汰に眺めている時だった。手近に咲いて居た薺を摘んで、ほーらぺんぺん草だよ〜としゃらしゃらして見せると、一瞬何それと猫の子の様に目を光らせたが直ぐ様我に返り、先程の科白を口にしたのである。レディは素直な方が可愛いぞーと云うと、セクハラ!と顔を真っ赤にさせて怒った。



「先生は結婚しないの?」

静かな雨の降る日だった。
窓の向こうは何処までも白く穏やかだったので、彼女の声はよく響いた。
「…そうねえ、毎年、七草粥をこしらえてくれる可愛い教え子が居るから、もういいかなあ」
「何言ってんの、火影にしっかり働いて貰う為のゲン担ぎをしてるだけよ」
「あ、そ…」
がっくりと肩を落とすと、肩まで伸びる髪を緩く結った彼女は楽しそうに笑う。彼女はとても美しくなっていた。お盆に乗せた茶碗と蓮華を並べながらわたしも、もういいかなあと言った。
「何が?」
「ん?わたしのご飯を楽しみにしてくれるどうしようもない独り身のおじさんが居るから」
「ひどい言われよう!」
桜色の髪が、肩口からさらさらと零れた。
ああ、愛しいなあ。口に出さず、心底想う。愛しい、愛しい。

「サクラ」











間、

涙と涎を拭って奇麗にした寝顔は、本当にまだまだあどけない子どもだった。
健やかな寝息を立てる其の姿は、先程まで妖艶な痴態を見せて居たとは思えない。白い額に唇を落とす。やわい髪を撫でると、心地良さそうに頭を寄せて来た。
まさか、まず思い出したのが死の記憶では無く倖福の記憶だなんて。唇を押し当てた儘、深く長く息を吐く。諦念と執念と絶望に塗れた最期の記憶であれば、大人しく身を引く自信が在った。愛しい此の子の倖福を、心底祈ってあげられたのに。あんな記憶を思い出して、手放せる訳が無い。文字通り我が子として育てて来たが、ずっと特別な情は感じて居た。気付かない振りをしていた。見ない様にしてきた。夏、さくらがキスをして来た時も、思春期だしねえ、まあ黒歴史のひとつでしょうと流してきたが駄目だった。
さくらは、サクラだった。
本当にサクラだった。もう駄目だ。ごめんね。ゆっくりゆっくり髪を撫でる。少しでも、此の気持ちが彼女を護ってくれたらいいと意味の判らない事を願いながら。
ごめんね。サクラの倖福を祈ってたのに。手放してあげられない。
一緒に生きたいよ。







玖、

お風呂から出ると、もう正午を過ぎて居た空はとても良い天気だった。
風も無くて暖かかったから、一緒に散歩に行く事にした。
手を繋いで、土路を歩く。秋から生きた芒はもう元気が無い。春が近かった。かさかさと乾いた葉擦れの音と、遠い空をゆく鳥の声しかしない。何処からか野焼きの匂いがした。
「……身体、大丈夫?」
ぽつり、と抑揚のない小さい声が訊いた。大丈夫、と頷く。そう、とだけ彼は言った。

「サクラ」
名前を呼ばれて、視線を上げる。先生の声だった。先生の瞳だった。彼はもう、先生だった。耳朶を打つ低く甘い声に、泣きそうになる。ぐっと唇を噛み締めると、ぽつぽつと彼は言葉を繋いだ。

「さくらはサクラだけど、お前は自由だよ」
確かに、俺とお前は恋仲だった。
「だけど、もう十年以上父子だったから、お前が迷うのも判る」
其れで良いよ。
「お前が今迄通りを願うなら、其の通りに俺は生きる。お前の倖福の為に生きる」
だから、 。
「……お前の自由で選ぶんだ」

ずっと我慢して居た涙が、零れて落ちた。
言われると思った。先生なら、そう言うと思った。悔しくて、哀しくなる。段々と腹が立ってサクラは、零れる涙を其の儘にぐっと眼の前の阿呆を見詰めた。

そうして、薄く色付いた唇が、音も無く開かれる。






(貴方に私の総てを捧げます)


(01212017\流転\ver.kyrie)