たとえばこの瞬間さえも
言葉なんかなくても、とは言うけれど。私たちの何かが変わったわけではなかった。仕事で忙しくしている上に、会議とか訓練とか、そんなときに顔を合わせたところでいつもと変わらないお互いの態度がそうしているのだった。
しかし気分は如何せん悶々としてしまう。例えば彼が、訓練の合間に女の子に囲まれていたり、副官の女の子と楽しそうに話をしていたりするだけで気持ちはもやもやしてしまう。ああ、やっぱり今話してる子と私とは同じほどの感情しか無いんだろう、と。
はっきり言って自分に自信がないのだ。あんな一夜のあれだけで恋人を気取れるわけがない。彼も私にすこし気持ちはあるのかもしれないと、わかっただけ、それだけだった。
…と、ぼんやりしながら、大量の資料を抱え込んで兵団内を歩いていると、若い男の兵士がパタパタと近寄ってきて「自分、持ちます!」と言って私の持っていた資料を持ってくれた。
聞けば彼は今期訓練兵団を卒団したばかりだという。シガンシナの出身で調査兵団を毎月のように見ていた、とか。
「ナマエ分隊長ですよね…?」
「ええ、どうして私の名前?」
「有名なんですよ、強い女性兵がいるって」
「あら、それは光栄だわ」
まだ調査兵団の制服ももらってなくて、とか、キース団長は怖いですか、とか、他愛ない話をして。屈託がなくて大らかそうな子だな、と話していて思った。壁外調査の連続のうちにこの性格が瓦解しなければいいけど…と話の外に思う。
私の部屋まで資料を運んでもらってから、なんとなく手伝わせてしまったことが申し訳なくて、私の方からお礼をしないと、と切り出した。
「あの…お礼とかはいいんです。けど、あの…」
なんとなく煮え切らない言葉に、どことなくそわそわし始めた様子の新兵の男の子は目を泳がせた。
「うん?」
「俺がいつかナマエさんを守れるくらい強くなったら、つ…付き合ってください!」
ぽかんとしてしまった私を他所に、「それじゃあっ」と勢いよく敬礼をしたかと思えばそのまま風の如く走り去ってしまった。
何だったんだろう、と思うと同時に、強くなったら…と言った彼の声の残響。あんなにストレートに好意を表現されて、ここは廊下なのだと思い出し、一人で赤面してしまう。頬を押さえて、とりあえず自分の部屋に入ろうとドアノブを捻った。
「――あれを受けるつもりか、ナマエ」
「ひっ!…エルヴィン」
背後から声をかけられて、思わず肩をびくつかせて固まってしまう。何処から見ていたのだろうか。そっと私がエルヴィンの方を振り向くが速いか、ドアノブを捻ったまま半開きになっていたドアをエルヴィンは押し開けて私とともに室内に入り込んだ。そして目にもとまらぬ勢いで私を扉に押し付け、逃れられないよう顔の両側に両腕をついて有無を言わさぬ瞳で見下ろした。
「受けるつもりなのか?」
何を、とは、やはり先ほどの‘あれ’なのだろう。受けるのかどうか聞いているエルヴィンは、どんな気持ちで言っているのだろうか。
「う、受けない…」
「そうか…なら、良かった」
良かった、と、その言葉だけで私の心臓はトクンと跳ねた。
ただ核心を突く言葉はなにも聞けないまま。自分から聞く勇気もない。
エルヴィンは腕を下ろし、私から少し離れると、思い出したように言った。
「会議の時間が30分ほど早まってね、きみを呼びに来たんだ。」
「…そう。」
「一緒に…いや、何でもない。また、あとで」
そう微笑んで私の部屋を退室するエルヴィンはいつもの分隊長の顔だった。
一息ついて気を落ち着かせ、自分自身も参加しなければならない会議へと赴いた、何とか私も分隊長としての顔を取り戻したのを確認して。
会議の時間が早まったのは議題が増えてしまったからだったらしい。新兵が予定より早く入団することとなり、その処遇に関する連絡だった。
早期に班配属を行うために明日は一日訓練に宛てることになる。よって急ぎの書類は団長補佐、事務班に今日中に回すようにとキース団長は述べた。
「班配属の最終結論は私がするが大まかなのは分隊長にしてもらう…ナマエ、お前は初めてだろう」
「はい」
「分担のこともある…この会議の後で良いから分隊長同士で話し合うように」
キース団長にまっすぐに見据えられながら言われた言葉を飲み込んで、私は肯いてエルヴィンを横目に見た。彼も私を見ていて、僅かに頷いた。
その後、いつも通りの議題、先日の夜会の成果、予算に関する話し合いののち解散。
エルヴィンは私とミケさんにアイコンタクトを送ると、訓練の計画を練るために私たちを集めた。そして、私やミケさんにほとんどの指示を出すと、ミケさんが2つ3つ疑問点を挙げ、エルヴィンがそれに答えるだけで話は終わってしまった。エルヴィンとミケさんの息の合いように私は焦りを感じて、わからないところはないのか手元のメモで再確認する。
「大丈夫か、ナマエ」
「え、はい…えっと」
エルヴィンに尋ねられ、わたわたと確認をしながら慌てた私の頭の上に大きな手のひらが乗っかった。え…?とメモから顔を上げる。
「ナマエ、焦ることはない。分隊長になってお前はよくやってくれているから」
と、ミケさんが暖かく微笑んでくれた。どうやら、二人の息の合いようを見て焦っていたことがミケさんには分かったらしい。優しく励まされて、ミケさん…ありがとうございます、と感極まりながら言う私をエルヴィンの咳払いが空気を破った。
あのときも仕事だったけれど…きちんとした兵士としての仕事のとき、エルヴィンの物腰の柔らかさはなりを潜める。
訓練のときは一番厳しくて、訓練場に響く彼の怒号はいくら聞いたかわからない。話し合いもやや形式ばった口調で話すし、気を緩めているところなど見たことがない。
…だから意外だったのだ、あの夜会という大事な仕事の帰りにあんなにも砕けた調子で、しかも…き、キスとか…するなんて。
「また後でわからないところがあれば聞いてくれて構わない。…人が来ることになっているんだ、ここで解散にさせてくれ。」
エルヴィンはそう言うと会議室を退室していった。
ミケさんも、私も続いて退出し、自室に籠ることとなった。
―――――
「あーわかんない!」
独り言が自室に響く。今日の勤務時間までに急ぎの書類は事務班に回さないといけないのに、とある箇所がわからずに埋められないでいるのだ。
事務班の人たちに埋めてもらうことも考えたが、大量の書類に忙殺されている彼らにこれを回すのはどうしても気がとがめてしまうのだった。
こうなれば、先輩に聞くしかない訳で。きっとこの手のことならエルヴィンがすぐにわかるだろうと席を立った。
すぐ近くのエルヴィンの執務室の扉の前に立つ。
ノックをしてしまってから気づいてしまった…中からどことなく楽しげな声音が聞こえてくるのだ。耳をそばだててみると、エルヴィンの低い声にまじって高らかでそれでいて上品な女の人の声が聞こえた。
「どうぞ」とエルヴィンの声が返ってきたので、いいのかな…と、おずおすと扉を開く。
「失礼いたします…すみません」
そういえば人が来るとか言っていたのに…!小一時間たっているからといってどうして気が回らなかったのだろうと申し訳ない気持ちになる。
「ああ、構わないよ、マリーはもう帰るから」
「あら追い返すのね?いいわ、そろそろ時間だし」
マリーさんと言うらしいその女性はたぶん内地の人なのだろうと思った。傷ひとつない白い手の甲がまぶしいほどで。自分の中の女である部分がチクリと痛んで、手にしていた報告書で思わず自らの手を隠すようにしていた。
エルヴィンが追い返すようなことを言っても機嫌を損ねてしまうようなこともなく、余裕綽々といったふうに、ふふ、と上品に笑った。そして華奢なその両腕をエルヴィンに絡めて耳元に唇を寄せて「また来るわ」と囁くように言って去って行ったのだった。
夕刻とはいえまだ執務時間なのに、謹厳なエルヴィンが女の人を自室に入れるなんて…エルヴィンにとってただならぬ人なのだろうと勘繰るのは当然のことだった。
引きつりそうな表情筋をどうにか保って、目的を果たそうと報告書を開いた。
「ここなのですが」
「ああ…」
書類に目線を落としたエルヴィンの顔をちらと盗み見れば、もうすでに凛とした普段と変わらない表情に戻っていた。
誰なの、なんて聞く権利のない私は必要最小限の会話の他は黙っているしかできなかった。
あの日からほんの少しの瞬間さえも頭の片隅に彼が居た私は悔しくて気づかれないように下唇を噛んだ。
20141029
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