月さえ呼吸の心配をした

息をすうっとゆっくり吐けばすぐに肺はからっぽになって、すぐに新たな空気を求め腹の底へと得体のないそれを吸い込む。呼吸。しかし今この場合は、嘆息。
鬱蒼とした自室の空気で肺を満たすのは嫌で、窓を開けようと思って手を掛けて、外を見る。遠くに壁が見える。やっぱり窓をあけるのは、やめにした。

「あー、やっぱりここにいた」

ノックもなしに扉をあけて、能天気な声音で雰囲気を破ったのはハンジ。なんなの、と目線だけでうっとうしい気持ちを伝えてみる。声を出すことすら億劫だ。

「また作戦案通らず?」

うるさいな、なんのためにひとり自分の城に籠っているのか考えてくれ。心の中でそう思う。だが、この子には伝わらない。べつに追い出してやろうという元気もない。
今日は最悪だ。団長に提出した作戦案は今や団長の右腕、エルヴィンに反対を受け、団長の手から突き返されてしまった。そればかりじゃない、あれだけ苦手だからと断り続けてきた夜会にエルヴィンに付き添って出るようにと指令が出されてしまったのだった(しかも今夜!)。エルヴィンの隊の女の子はまったくどうしたというのか、本来ならばその子がエルヴィンと行くはずだったというのに。

「ほら、準備あるんでしょ。がんばってよ」

邪険にする私を見かね、ハンジは手をひらめかせて部屋を出ていこうとした。それを私は引き止める。

「ドレス…選んで」

我ながらひねくれてるなあと思った。

「しかたないなあ」

小さなクローゼットを開いて、あきらめの溜息を零した。


こんなの適当でいいんだから、と投げやりに思ったり、でも兵団の代表としていくのだから身だしなみはしっかりしなくては、と思ったり。少し厚めの化粧を施して「見れるようにはなった」とハンジからの評価(ひどい言いよう!)を受けて私は漸く自室を出発したのだった。すでにエルヴィンとの約束の時間に15分も遅刻していて、なおかつ普段とはまったく異なるこんな格好なものだから、彼の待つ玄関ホールへ向かう気分は下がるばかりだった。(ああ、歩きにくい!)

「エルヴィン、おまたせ、ごめん」

「気にしないで。さあ、行こうか」

つやつやの真っ黒のタキシードに身を包んだエルヴィンとともに馬車に乗り込むと、すぐに内地に向けて出発した。陽はまだ高い位置にあるというのに。安全な内地へは、とても遠い。馬車の不規則な揺れに揺られながら、私は眠気がつこうとしていた。

「今朝はすまなかったな」

「なにが」

「…なんでもないよ」

エルヴィンは、小さく溜息をつくと、それから押し黙った。作戦案のことだろうことはわかっていたが、謝られるようなことではない。私は立案なんて苦手だし、分隊長となってから何かしらのアクションを起こさなければ、というヘンな責任感から、受動的に書いているようなものだったから。
分隊長になってから半年。キース団長は先見性も統率力もすごい人だけれど、どうして私を分隊長にしたのかがわからない。年齢で言っても少し若いほうだし、秀でた能力があるかといわれれば、少しだけ他の人よりも立体機動は得意かもしれない。でも、それだけだ。
目の前に座るエルヴィン分隊長は、まさに分隊長として私の手本であり憧れの人。私の入団当初は班長をしていて、もうそれから約十年。「堅苦しいから敬語じゃなくていい」「エルヴィンでいい」五つも年上なのに対等に接してくれるから、今や憧れだ、なんて面と向かって思うのは照れくさいくらいなのだけれど。

できたら、こんな形で隣に立つなんて、いやだった。



「ナマエ、行こう」

すっかり暮れなずんだ夜に足を踏みだして。
華やかなライトの下へと、みちびかれていった。

「ああ…いやだなぁ」

「そんな顔しないで」

「だってこんなきれいな服…着慣れてないの、似合うわけないじゃない」

「そんなことないさ、似合ってる。綺麗だよ」

エルヴィンのリップサービスに肩を竦めて、外面用の微笑みを貼り付けた。その調子だ、エルヴィンは耳元で囁いて、さまざまなお偉いさん方に会釈しながら会場の奥へと私をエスコートした。

「ちょっと行ってくるよ、きみも話しかけられたら対応してくれ」

「…はい」

簡単に言い残し、彼が向かった先は、手のひらをひらひらと振り微笑みを浮かべた貴族のご令嬢のところだった。
私は心の中で溜息をついて、シャンパングラスに口をつけた。
ときおりエルヴィンが今どこにいるのかを視線で追って、ときには私も貴族の支援者のお相手をして。胸の大きく開いたドレスでお酌して、お喋りを楽しんで、まるで遊女。
初めて夜会に来たときは、ショックだった。人類のヒーローと信じて疑わなかった調査兵団の先輩がいまの自分のように金を巻き上げていたからだ。それから直面する資金不足の深刻さ。
これが夜会。通称、資金集めパーティー。
ここのところ避けてはいたが、来たからには集めなければ。
さりげなく汚い手のひらでヒップラインを撫でられて、にこりと返せば、お金を一枚谷間に挟んで去って行く。…ああ、疲れた。

辟易の溜息をこっそり吐いて、エルヴィンは…と見渡すと嫌なものを見てしまった。
ひとり女性をエスコートして、広間を出てゆくところだったのだ。

…これが資金集めパーティー。か。
どんなに嫌なことを言われたってにこにこしてればどうにかなるけれど、これに堪えられるほどの度量なんてない。
少しずつお開きの雰囲気になって、ぽつりぽつりと人が減ってゆく。私も広間の外に出て、静かに佇んでいた。
「どうして外へ行く?」「壁の中は安全なのに」「穀潰しが」未だに大した成果の上げられていない調査兵団への罵倒の言葉や、呆れたように嗤った声や。そういうものに触れてしまうから、夜会は嫌いだ。そして、こうして敬愛する彼でさえも、汚い方法で金を集めなければならない、この理不尽さが。すっかり哀しくて乾いてしまった私は、泣きたい気分なのに涙のひとつも浮かんではこなかった。

月の影が細長いシルエットを浮かび上がらせて、振り向くとエルヴィンが戻ってきていた。

「ここにいたのか」

「…お金、集まったわよ」

「そうか。…帰ろう」

「はい」

剥ぎ出しの背中に、さっとエルヴィンの手が触れた。馬車に乗って、来た道をさかのぼる。またエルヴィンの向かいに座り、背もたれにもたれて呟いた。

「酔ってるの?」

「………」

触れた体温、吐いた息で何とはなしに気が付いた。暗くてよくわからないけれど、頬もうっすら色づいているように思った。
なにも答えないエルヴィンに、往路と同じに私も押し黙った。


しかし、突然に静寂を破ったのは彼の方だった。

「どうやってこれほどの金を…?」

「…そんなの私、ご貴族さまのお相手が嫌でできないほど子供じゃないわ」

なにが聞きたいのだろう、わからなくて私は素直に答えた。語尾がすこし冷たく響いたのは、エルヴィンがしていることに比べれば私がしたことなんてちっぽけなものだって思ったからだった。誰かと二人去りゆく後ろ姿がフラッシュバックして、私は勝手に傷ついた。


「酔っぱらいの戯言として片付けてもらって構わないんだが…、俺はきみと夜会に出るのは嫌だな、」

「…どうして」

衝撃的だった。思わずついた疑問がそのまま、いつもより低いトーンで吐き出されてしまう。
彼の表情までは見えないけれど、ひどく淋しげな声音だったように思った。
尊敬とか、憧れとか、そんなキレイな言葉だけじゃ片付けられない気持ちをエルヴィンに抱いてしまっていたから、(私と一緒なのが嫌?…)(私、足手まとい?…)そんな嫌な予感ばかりが先行して。彼の口からそう言われてしまえば、私には平静でいられる自信なんてなかった。胃袋をそのまま吐き出しそうにむかむかするほど、気分はどん底だった。


「綺麗に着飾ったきみが他の男にいい顔するのが、嫌なんだ。」

けれど。
思っていたどの言葉とも違うそれは、私の鼓膜をくすぐった。
暗い車内を照らすのは、燃え尽きたランプに代わって月明かりだけだった。青白い光の下で、私の頬の紅潮は見えてしまうだろうか。耳のすぐそばに心臓があるみたいにうるさくて、誤魔化すように、窓の外へ視線を流した。

「だからやっぱりこれからも、きみの出席は禁止だ」

「…あなたは、ご令嬢と宜しくしているのに、私にばかりそんなふうに言うのね?」

エルヴィンは、私のことばかりそうは言うけれど。私には引っかかることがあった。
だから、私だって嫌なものは嫌なのだ、と先ほど女と二人して消えていった事を指摘したのだった。

「あれは…なんでもないんだ」

「ふぅん?」

「ナマエ…信じてくれ、確かにせがまれたが、なにもなかった」


二人しか知る由のないあの状況をこう言われたってそう易々と信じることはできないだろうに、エルヴィンの瞳は鋭い光を湛えていて、私は次の句を紡ぐことが叶わなくなってしまった。

「ずるい男だな、俺は」

エルヴィンは自嘲するように言った。

「…ええ、ほんとに」


ナマエ、
彼は私のなまえを呼んだ。

そして左腕が私を引き寄せて、キスをした。
一瞬の隙間も惜しむ口づけにふたりを見守った月さえ呼吸の心配をしたのだった。

20141002

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