キスして火傷

たぶん私はみんなの知らないエルヴィン先生を知っている。休み時間とか、放課後とかに先生に群がっている女の子たちよりもずっと色んなことを知っている。
エルヴィン先生は人気がある。
先生の数学の授業がわかりやすいから、ってだけじゃない。分け隔てなく接してくれるあの紳士な雰囲気とか、優しい微笑みとか、女の子の好くものをなんだって兼ね備えているのだ。
先生の指がチョークを挟み、綺麗な文字を羅列する。

エルヴィン先生のことを好きな女の子なんて沢山いるはず。女子高生なのだ、先生とはひとまわりも歳が離れているけれど、あと一年だけ、待てば先生に告白できる。そんなふうに密かに思っているのは私だけじゃない。
ただ私の気持ちは他の大多数の女の子たちのそれよりもずっと真剣だった。真剣すぎたのだった。先生と仲良くしたくてよくお喋りしている女の子たちみたいに堂々と先生に近付くだなんて出来なかったし、気持ちを抑えてふざけたように「エルヴィン先生好きです」なんて言えなかった、あの子たちみたいには。


夏期講習でエルヴィン先生は私を呼び出した。一学期の期末試験、数学の点数が芳しくなかったらしい。
当然だった。一学期の数学の時間はずっとエルヴィン先生の指先を見つめるのに宛てていたのだから。
二年生までは数学のテストだって人並みには出来ていた、だから呼び出したのだと先生は言った。

「どうしたんだい、らしくない点数だよね」

「…………」

「私の授業が良くなかったのか」

「そんなこと、ない…です」

「じゃあ、どうしたの」

夏の終わりの特有のにおい。夕日の赤色が面談室を染めていた。二人きりのこの空間が、クーラーのかかっていないこの部屋が、私を蒸した。

「……先生が、好きだからです」

ぽつんと響いた言葉がこの部屋の空気を固まらせた。
何を思って言ってしまったのか、私にさえもわからなかった。
ぎゅっと握りしめたスカートのその先には、少しだけ日焼けした膝が当たり前のようにそこにある。
笑ってごまかせ、まだ、間に合う。
私のもうひとつの感情が頭をもたげはじめていた。
けれど、あ、と声を発するより先に、エルヴィン先生が言葉を発してしまった。

「…知ってる」

途端、私はこれまでの自分を呪った。
どうして、我慢ならなかったのだ、と。いつも追いかけてしまう目線も、熱を込めて見つめ続けていた時間も、今だって思わず喉をついた気持ちが溢れかえったまま止まることを知らないで出ていってしまったのだ。
ただの、一生徒の(しかもそんなに親しくしていない私の)こんなにも真剣に、膨らませてしまった好意は、きっと迷惑であるにちがいない。
私は恥ずかしくて、ぎっ、と音をたてて椅子から立ち上がった。
足元にくたりと置かれた鞄を引っ付かんで、部屋を出ていこうとした、ごめんなさい、諦めます、そう言い置いてゆくつもりだった。

「…私もだ、と言ったら?」

先生は何と言ったのだ。確りと反芻するのに十分な時間を要した頭はもうクラクラだった。立っているのにどちらが地面でどうやって自重を支えているのかがわからなくなる。
エルヴィン先生は再び、今度は自ら、この部屋の空気を固めてしまったのだった。
振り向くことさえかなわない、身動ぎさえもできない私の身体はとても冷えていた。内心は熱くて熱くて仕方ないというのに。

エルヴィン先生は決して、‘いい先生’なんかじゃなかった。
いい先生なら、生徒をこんなふうに抱き締めたりなど、しないだろうに。熱くて苦しい胸が大人になったつもりでいた高校生の私には痛くて痛くて仕方がなくて、先生の胸を背にして静かに泣いた。

ーーーーー

こんなふうにして密かな始まりを告げた、密やかな関係は静かに確かに学校生活の裏で育っていった。
大人な彼に恋をして、その痛みを知ったのに、私はまだまだ子どものままだった。相変わらず授業は怠いし眠いし、なにより、私は私の身体しか知らないままなのだった。
夏の間にどれくらい会えただろうか。夏期講習のお陰で土日以外はほとんど会えた、けれど、そんなのじゃなくて、二人きりで、とかそういうことの回数のほうが問題なのだ。
一度だけ先生のマンションにお邪魔したことがある。私は馬鹿みたいに一番お気に入りの下着をつけて、先生の家に行ったのだった。けれど、期待するような何かがあったわけではなくて。別れ際あの日みたいにぎゅっと抱き締められて、それから「好きだ」を言われただけだった。

そんな腕の感触を残したまま、秋を迎えた。
薄い夏服、短いスカートにお別れを告げて、代わりにブレザーと少し丈の長いスカートを身につけて、私は先生の前に立っていた。

「お願い、ってなんだい?」

私は先生に、次の試験で平均点を超えたらお願いを聞いてほしいと言っていたのだ。
二回ほどウエストで折り曲げて上げたスカートは、いつもより高い位置でひらひらと揺れていた。
キス、してください、と。
か細い声で、私は告げる。目なんて合わせられなかった。エルヴィン先生は、ふたりきりの教室で書類仕事をしていたのだけれど、私の「お願い」を聞くや、はたと動きを止めてしまう。
静寂のせいで誤魔化せない心臓の打つ音が不安を煽った。
私はただ、他の女の子とは違う、先生にとって特別な女なのだという証が欲しかったのだった。

「…幻滅、しないかな」

随分 間延びして、やっと返ってきた声に私は思わず顔を上げた。すると、エルヴィン先生の瞳とばちっと合って離せなくなってしまう。
自嘲しているような表情を浮かべているのが何故だかわからなくて、私は押し黙ったままでいた。
ゆっくりと距離をつめて、大きな手のひらが私の頬に添えられて。
ああ、キス、されるんだ と、スローモーションのように近づく顔に瞼を閉じた。
すぐそこに先生がいる。息さえかかりそうなその距離に。

でも、いつまでたっても唇にその感触が乗ることはなかった。

「せ、んせ」

「やっぱり、だめだ、あと少し…待とう」

掠れる声で、先生と呼んだ私よりずっとずっと傷付いたような顔をしたエルヴィン先生は結局待とう、と言う。
どこかに背徳感があるのか。この校舎に責められている気持ちにでもなるのだろうか。
先生と生徒が恋人どうしになれるのにはどうやらもう少し時間が必要らしい。


「先生の、意気地無し」

私は乱暴に言った。
飛びかかるように、エルヴィン先生の首に抱き付いて、顔を寄せた。私のことが好きなのなら、私から始めたって嫌いにならないでしょ、って。そう思った。
爪先を立てて顔を上げた。だけど、届かない。
まるで私たちそのものだった。
どんなに私が大人びた格好をして、大人の真似をしてもエルヴィン先生に追い付くことには敵わないのだ。
そのことに気付いて先生に抱きついたまま視界がぼやけてゆく私を、今度は先生が、ぎゅっと引き寄せた。


「キスだけで、済むと思うな」

意味を咀嚼できたのが先だったのか、はっと息を飲むのが先だったのか。
今となってはわからないままエルヴィン先生の唇が私のそれを塞いでしまっていた。堰を切ったように、ゆっくりとねっとりと翻弄する唇に下腹部を震わせた私の、胸元のリボンをエルヴィン先生は、ゆっくりとほどいた。

20150213 title by ネイビー

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