たった一言の幸福


書類を渡す指先がほんの少し触れただけ。それだけなのにふたりの時間だけが切り取られたみたいに一瞬、ぴたりと視線が絡まった。
次の瞬間、逃げるように下ろした私の腕を引いて、そして囁くように彼は、部屋に来ないか、と言った。

子供じゃああるまいし、とうに就寝時間を過ぎてなお働く彼を休むようにと諌めた直後の言葉だったそれが何を意味しているのかわからないはずもなかった。

返事もままならないうちに押し込められた浴室で、高ぶった気持ちを押さえるのに必死だった私には、彼がいまどんな思いでいるかなど考えられるほどの余裕がなかった。
ただ肩を辿って滴り落ちる水が汗を流してゆくように、すっかり思考を押し流してしまっていたのだ。
抱かれるのか、と。ただの緊張感だけじゃない、くすぐったい感情が何者なのかもわからなくて、混乱する頭はいっぱいいっぱいだった。
私は彼の副官として、これからも仕事上付き合っていかなければならない立場。今ならまだ後戻りできる、断るべきなのか、と足踏みをしてしまう。
団長専用の広い浴室を出ればすぐにエルヴィン団長は、そんな躊躇をしていた私の背中を強い力で押した。
考えさせる時間など与えない口づけを受けて気がつけば、柔らかいベッドの上に縫いつけられていた。
ぎらりと光る綺麗な色の瞳がうつくしくて、見下ろされながら結局私は腕を伸ばす。驚いたような表情を一瞬だけ貼りつけてもう一度、呼吸もままならないキスを落とされた。

言葉は、無かった。
言葉なんて要らなかったのだ。
熱い指先が触れたところが熱をもて余してしまうように、彼に見つめられた所から火がついてしまったかのように熱くなる。
視線に焦がされて愛されて。ああ幸せだ、と意識を手放した。



身体だけの関係。まさに私たちがそれだった。
団長に密かに寄せていた思いは身体を繋いだ回数だけ大きくなっているような気さえする。
淋しい、と呟いてもひとり。
誰にも言えないわだかまりを抱えてしまうことになってしまったのだ。
彼が恋人をつくらないのは知っていた。だから私は只の性欲処理だということも。
誘われるたび、このままで良いわけがないのだと理性は塞き止めようとするけれど、それでもエルヴィン団長は優しくて、その腕に甘えたくなって流されてしまうのだった。

しかし、そんな関係で繋いでいた私にも飽きたのだろうか。
最近はめっきり誘われることがなくなった。
昼間ふたりきりで室内にいることも少なくないので誘うタイミングがなかった、というわけでもないのだ。
――確かに、私はセックスが上手いわけでも、スタイルが抜群に良い訳でもない。
飽きられただけ。やはり私は最初から団長の捌け口のひとつだったのだと気付く。
それでも隣で仕事を続けなければならなくて。
前の、今まで通りの関係に戻っただけだと自分に言い聞かせていた。

――つもりだった。

「ナマエ」

夕刻に。書類仕事の合間に休憩をしよう、と言い出したのはエルヴィン団長だった。私は紅茶を淹れる手をそのままに、はい、と返す。

しかしそのまま返ってこない声に怪訝になって振り向くと、私のすぐ後ろにエルヴィン団長は立っていた。
無表情のまま私を真下に見据える彼に、はっ、と冷えた空気が喉を鳴らした。
背後に迫る団長が何も言わないのがこわくて、でも近い距離にいることにどきどきして。相反する感情がない交ぜになって胸が高鳴ってしまう。
やがて大きな腕がぬっと伸ばされて、私の身体をすっぽり抱き寄せた。
そしてそのまま首に唇を寄せられる。
くすぐったくて、ひゃ、と小さく声をあげた私にエルヴィン団長はなにかスイッチが入ってしまったかのように、素早く私の口を掠め取った。すぐに侵入してきた舌に好き勝手に咥内を犯されて、解放されたときにはすっかり蕩けた顔を晒してしまうはめになる。

「ナマエ、このまま」

そう言うエルヴィン団長は色っぽくて切なくて。
でも、今日こそは、言わなくちゃ。
厚い胸をめいっぱい押し退けて、うつむいた。

「……あ、だめ…駄目です」

「どうして?まだ仕事が残っているから?」

ベルトに指を挟ませて遊ぶエルヴィン団長は余裕たっぷりで。このまま流されて抱かれてしまいたいと、私の心の女である部分は叫喚した。
でも。
この数週間で答は出ていた。
また飽きてどうせ最後には捨てられて。がっかりしたり期待したり。
もう振り回されるのは限界なのだ。
好きな時に呼び出されて、そんな気分だったからって抱かれて、そんな都合の良い女には私はなりきれないのだった。
それを伝えたくて、でも、うまく言葉を選べなくて。唇を開いては伝えたい言葉が空に消え、はらりはらりと口の淵から伝えたい言葉が落ちてゆく。

「もう…嫌、です」

うつむいて、それだけ伝えるのに精一杯だった。
ゆっくりとほどかれてゆく腕がやっぱり淋しくて、ずっと見つめていた自分の爪先がじわりと滲む。


「ナマエ」

幾分低いトーンで吐きだされた声音にびくりと肩を震わせる。エルヴィン団長は私を解放したその腕で、ぎゅっと私の肩を鷲掴むと壁に背を押し付け、顔を上げさせると鋭い光を孕んだ表情で私を見下ろした。

「他に男が出来たのか?」

エルヴィン団長の尋問するような威圧的な声と、訊かれた意味がわからなくて私はなにも答えられないでいた。
すると、答えろ、と更に追い詰められる。
声がうまく出せそうになくて、首を横に振るだけの私にエルヴィン団長は満足するはずもなく、そのまま恐いままの表情で、私の首に唇を寄せた。

「君は俺のものだ。絶対に他の奴になど抱かせない…いいね?」

そしてぺろりと首筋を嘗める。
それだけでびくりと身体を震わせてしまう私をエルヴィン団長はふわりと抱き上げ、そのまま隣接した自室のベッドにいつものような余裕はなく乱暴に下ろした。結局押し流されるようにして始められたキスと愛撫に私は早々に声をあげてしまう。
ちがうのだと、私はあなたのものだけれど、あなたの愛を欲しがる面倒な女なのだと、伝えたくて、でも伝えずにこのままが良くて苦しくて、いつの間にか瞼の淵を濡らしてしまうのだった。


「エルヴィン団長、好き…なんです」

溢れてしまえば留まることを知らずに思わず漏れ出た彼への気持ち。
私の言葉を聞いたエルヴィン団長はぴたと動きを止めた。

「好き、だから…身体だけって…つらい、です。エルヴィン団長の恋人に、なりたいなんて思ってしまって…ごめんなさい」

彼の瞳を見据えながら言葉を繋げたものの。このまま面倒だからとフラれてしまうのだろうと気まずくて。
合わせた視線を自分からほどいてベッドを出ようとした。

「ごめんなさい、ってどういうことだ」

抜け出そうとした私を後ろからすかさず抱き留めた大きな身体。
そして耳元に、大好きな声が吹き込まれてゆく。
それだけでこの場から逃げ出そうなんて思えなくなるから不思議なのだ。

「団長は…恋人、とか面倒でしょう?」

「…否定はしないな」

「………」

「でも」

エルヴィン団長は私の顎を上げさせるとそのまま横を向かせるようにして瞳を捕らえた。
至近距離で見つめてみても整った彼の顔は綺麗で、反らしたくなる目線をしかし彼は捕らえて離さない。

「君なら大歓迎だな、公私共に一緒にいて欲しい。」

息を呑んで彼の言葉をしっかり咀嚼した後、返事をキスで返せばそのままベッドの上に再び引き戻されてしまうのだった。




憧れの、大好きな方へ*
20150101 title by ネイビー

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