かみのみぞしる



 テーブルの上に乗せられたトレーの上に、並べられたコップが五つ。
 せっかく用意して貰ったオレンジジュースは未だに手つかずのまま。
 ぷかりと浮かんだ氷がからり、と涼やかな音を立てる。
 宿題をするという名目の下、東家に集まった放課後。
 特に連絡を入れることなくおしかけるのはいつもののことと、家の人は笑顔で迎え入れ、お菓子とジュースまで出してくれる。「ゆっくりしていってくださいね」という優しい東の祖母の好意に甘え、すっかり寛いでしまっていた。
 きれいに掃除された床にごろりと横になり、彼女からかかってきた電話に応じる。
 今日、学校で起きたことなど他愛のない会話を延々と繰り返す彼女の声に、うんうんと答える滝田の声もまた甘い。

「あれ、たっきー、いつの間に彼女と仲直りしたの」
「昨日の帰りに会いに行ったんだって」
「たっきーん家と逆方向じゃん、さすが、モテる男は違うな。あじゅまも見習えって」
「えぇ、オレ、無理だよ。まず彼女とか無理。作れる気がしないもん」

 南風原の背中に張りつきながら極度の人見知りであることを自覚している東は、無理だとばかりに首を振る。
 幼馴染の人見知りの酷さをよく知る南風原は「少しくらい努力しろ」と言いはするが、それ以上は咎めることもない。今は買ったばかりのゲームに夢中らしい。忙しいほどにボタンを操作する指の動きは、この部屋に入ってきたから止まることなく動き続ける。
 勉強なんてする気など、端からない彼らはカバンから勉強道具を取り出すこともしない。
 部屋の隅にある学習机は、本来の用途として使われることなく、東が気に入ってるバンドのCDが散らばっている。
 完全な物置。それがデフォ。

「真中、そこ違う」
「え、何で」
「なんでっていうかさ、先に頭だけで考えないの。分からなかったら図を書けばいいんだよ」
「……そっか」
「素直でいいねえ」

 その学習机とはまた別のテーブル。肩を並べて来の目的を果たしているのは、たった二人。真中と、真中の専属講師、仁科だ。
 そもそも今日、勉強したいから東の部屋に行きたいと言い出したのは真中だった。
 順当にいけば明日は日直で、数学の教科担任が積極的に彼を指名する可能性が高いから、と。
 生徒指導部に所属するその教師は、真中のことをあまり良くは思っていない。
 真中だけではなく、滝田や東、いつもつるんでいる彼らのことを総じて「要指導」とばかりに目を光らせてみているのだが、こと真中に関してはなぜか厳しい。
 おそらく、個々の性格を考えれば、一番「言いやすい」ポジションにいるからだろう。
 教師の前ではあからさまな優等生面する仁科や口が上手い滝田、南風原と違って嘘や誤魔化しをすることがあまり上手ではない。彼にとって真中と東は格好の的であろう。
 教師すべてがそうというわけではなく、ごく一般的な真中に癒しを求める教師だっている。
 新人教師の八津に至っては「いつも大変だね」と真中を労うこともあるくらいだ。
 要は、お互いの相性が悪いのだ。
 極端に勉強を苦手とする東と違い、元々は生真面目な性格の真中には嫌味を言われたくなかったらやる、という公式が成り立っているのだ。
 とはいえ、

「でも、もうやだ。数字見たくない」
「嫌味、言われたくないならやらなきゃねぇ」
「俺の代わりに仁科が授業出てよ」

 頭を使うことに疲れたらしい。テーブルの上に突っ伏し休憩を訴えるのも虚しく、追い打ちをかける一言。

「真中、これ、答え違うねぇ」
「え? 嘘!?」
「最初の代入から間違ってたからね」
「なんでその最初の時点で教えてくれないの」
「困ってる真中も可愛いねえ」

 ごめんね、と小首を傾げて可愛らしく言ったつもりだろう。
 しかし、幼馴染の、それも男で自分よりも身長の高い男のぶりっこなど、滝田には目の毒でしかない。
 度を越した好意は本人の意志とは無関係に表情に表れている。
 数式地獄に音を上げる真中の様子に満面の笑みを向ける幼馴染。「きもちわるいわぁ」と心の中で呟いたつもりだった言葉を、うっかり口にしてしまったらしい。あれだけ賑やかだった彼女の声が、すっかり静かになってしまった。

「あ、ごめん。あいらの笑顔が気持ち悪くてさあ」

 失言というつもりはない。が、電話の向こうで彼女は機嫌を損ねてしまったようだ。
 大方、なんで友だちといて私といてくれないの、と拗ねでもしたのだろう。可愛いものだ。明日はうんと甘やかして放課後デートをしよう。その予定を尋ねれば途端に機嫌を直したらしい。電話の向こうで「絶対だからね」と必死な様子。
 うん、やはり可愛い。
 絶対、と約束を取り付けて切った電話の後。背後から東とゲームを中断した南風原が背中から圧し掛かる。

「うっわ!」
「おとうさん、にっしーがおれたちの真中をいじめてる」
「浮気だよ、たっきー」
「ごめん、たっきー。真中は亭主より愛人を取るって」
「馬鹿言ってないでもう答え教えてよ、仁科ぁ」
「それはダメ」

 真中に対してでろでろに甘い対応をする仁科だが、今回に限ってはぴしゃりとその要求を遮断する。
 本人のためじゃない、という理屈もあるのだろうが一番の理由は「真中の困り顔がみたい」これに尽きる。

「ほら、あとちょっとだから、頑張りなって真中」
「仁科の眼鏡掛けたら、頭良くなるかな」
「頭痛くなるだけだと思うけど」

 現実を見たくない真中の言葉に、眉尻を下げつつも自分の眼鏡を外す。
 それを受け取り、掛けてみたは良いものの、仁科よりは確実に視力は良いであろうその目に、彼の眼鏡は度が強すぎる。
 おそらく平衡感覚がくるっているのだろう、しぱしぱと瞬きを繰り返す真中の頭が非自然に揺れていた。
 しかし、うわ。おぉ、なにこれ。と、借り物の眼鏡を付けたり外したりと繰り返しながら遊ぶことをやめようとしない。
 その真中の膝に腕を乗せ、その様子を間近で堪能する仁科。その笑顔の裏で何を考えているかなど、想像するに難くない。
 仁科との距離の近さに疑問を抱くこともない真中は「眼鏡がなくても見えるものなの?」と不思議そうに呟くだけだ。

「意外とね。輪郭はぼやけてるけど、見慣れた場所ならどこに何があるかとか、誰の後ろ姿かとかは分かるんだよ。だから眼鏡外してもキスを失敗する心配はないから、安心して」
「へえ、そんなもんなんだ」

 おそらく真中は冗談と捉えているのだろうが、仁科としては本気で言っているのだから始末に負えない。
 本気と冗談とを上手に混ぜて、真中を揺さぶることを楽しんでいるのだ。
 対する真中が、本気で自身に惚れているということを微塵にも信じずに。
 敵わない恋をしていると、彼らは互いに思い込んでいるからこその反応。
 端から諦めていると言う癖にくせに、その恋を手放そうとしない。次の恋に向かえばいいのに、それをしないのは本当は諦めていないのだ。
 口先だけではどうとでも言える。

「でもあいらの眼鏡で答えが分かるならテストの時貸して欲しいね。ねえ、真中」
「……何で俺に振るの」
「だって、一番欲しい人でしょ?」

 南風原もそろそろ対戦相手を欲しがる頃だから、と彼らも会話を妨げるように口を挟む。
 一番必要としているのはあじゅまだろ。ひどいよみなみ、という外野の声を他所に、気まずげに眼鏡を外した真中は「それで分かったら苦労しないよ」と拗ねた口調。
 もう少し、仁科の視界を共有したかったのだろうが、視力まで共有する必要はないはずだ。

「あ、ごめん。これ、返すね」
「お礼は真中からのチューでいいよ」
「は? またテキトーなこと言って」

 こっちの気も知らずに何言ってんの。そんな真中の気持ちが透けて見えそうな言葉。その直後。
 南風原と東が、ゲームの画面に夢中になり。
 滝田が放置したばかりの携帯の画面を確認し、仁科が返されたばかりの眼鏡を掛け直していたその瞬間。
 ちゅ、と。
 小さなリップ音が響く。

「……え?」

 その瞬間を、誰も見ていなかった。

「なに、今なにしたの、真中」
「なにって、チューで良いって言うからチュってやったんだろ」
「もう一回」
「やだよ」
「誰も見ていなかったから無効だよ、もう一回」
「ここからは有料です」

 予想外の真中の反応に、さすがの仁科も早口に捲し立てる。
 しかし、真中は既に広げたノートに視線を落とし、なかったこととでも言うように宿題に向かう。
 その耳が赤いところを見ると、自分でもらしくないことをしたと後悔しているのだろう。

「眼鏡なくて見えなかったんだからそれくらいサービスしてくれても良いんじゃないの?」
「眼鏡なくても見えるって言った。もう、なんでそんな必死になるのさ」

 繰り返し要求されることと、自分の行動を反芻し、頬まで朱を広げた真中は「トイレ」と誤魔化すように席を立つ。

「あ、真中。今、二階のトイレ使えないから下の使って」
「わかった!」

 勢いよくドアを閉め、階下へと降りる友人の足音を聞きながら、両手で顔を覆う幼馴染の姿を追う。

「なあ、あじゅま」
「なに、みなみ」
「おれ、さっきの空気まじ噴きだしそうでやばかった」
「なんか、見ている方が恥ずかしいよね」

 呑気な二人の会話も、今は聞こえていないらしい。
 
「てかさ、にっしーもホントは見えてたんじゃないの?」
「あー、そうかもなー」
「だってさ、この間、たっきー言ってたじゃん。にっしーは色眼鏡で物事みてるからって。ホントは見えてるんだって」
「お前、色眼鏡ってちゃんと辞書で引いてみろよ、意味違うから」
「そうなの?」
「じゃあ、どういう意味だと思ってたんだよ」
「やらしい意味」
「あってるけど、違うんあじゃないかなあ」

 半笑いで応える南風原は、中断していたゲームを再開させる。
 東も東で「ふぅん」と気のない返事をしながら、真中が残した宿題のノートを写す作業を始める。
 おいおい、せめて今の会話の収集くらいつけてくれよ。口に出せない心の声は届くはずもなく。
 どちらも辞書を引く素振りを微塵にも見せない二人に代わり、と重い腰を上げる。
 うっすらと埃を被った立派な本棚。の中から国語辞書を引っ張り出す。下から三段目の欄に押し込められた一冊を手にする。
 新品同様の辞書は紙が滑って引きづらい。行ったり来たりを繰り返しながらようやく「色眼鏡」の言葉に辿り着く。その右隣に線を引く。つまり、こういうことですよ、と。
 解説に「仁科吾平」の名前を書いておくべきかと悩んでいると、背中に軽い衝撃。本日、二度目。


「ちょっと、たっきー……」
「なに、あいら。重い」
「あいらの愛の重さですぅ」
「……そういうのは真中に言えばいいじゃん」
「その向けたい人からのテロが怖いんだって! なんなの、あの人」
「いやぁ、それは俺たちが言いたいですね。お前らなんなんだよ〜って」

 背中にぴたりと貼り付く男は、背中で愚痴を漏らす。
 そんな幼馴染は放っておきながら、引き出したばかりの国語辞書への作業を終えると、今度は隣にあった英和辞書を手にする。
 国語辞書に比べて随分と年期のはいった代物だ。

「よかったじゃん、真中からキスしてもらったんだろ」
「そんな事実、ないよ。むしろ何やってたか本気で見逃した」
「まあ、ただチュって言っただけじゃん。せいぜい唇尖らせたとかそんなんじゃん?」
「あの真中がだよ! 照れながらやったに決まってるじゃん、見逃したのが本気で悔しい。この感情をどこにぶつけよう」
 
 仁科とは長い付き合いだが、彼が自分の行為をこんなに悔むことも珍しい。
 常に相手の出方を窺って発言をするからこそなのだが。
 その予想にすら掠らなかった真中の行為に未だに混乱しているらしい。そんな幼馴染の姿は、なんだか面白い。
 すべて俯瞰しきった顔つきで物事を語られるよりはずっと良い。ずっと人間らしいと思う。

「なあ、ジョーカーと番狂わせってさ、どっちがそれっぽい?」
 
 手にしていた英和辞書。
 使い込まれたそれをぱらぱらと捲りながら、背後の男に尋ねてみる。
 その言葉が何を、誰を示すのかを瞬時に察したらしい男は、少し目を細めるだけで答えようとはしない。

「ああ、もう。まじで一回、真中泣かせたい」

 答えの代わりに呟かれた物騒な言葉な言葉。それを背中で受け止める。
 どうして真中はこんな男に惚れたのか。
 きっとこの部屋にいる誰もが疑問に思っていることだろう。
 

「たっきー、なにしてんの?」
「ん? 宝探し、的な?」
「あじゅまのちょっと恥ずかしいものとか?」
「それならそこじゃない。クローゼットの靴箱の中」
「わー! みぃ、ダメ! なんで知ってんの!?」
「むしろ何でおれが知らないと思ってんの?」
「え、なに? あじゅまの恥ずかしいものとか面白そうじゃん。中身なに?」
「ああ、確か、」
「ぎゃーっ!」

 ぎゃいぎゃいと騒ぎ始める友人たちの輪に加わるために、手元の辞書を放りクローゼットに足を向ける。
 秘蔵のお宝が隠されている扉の前で通せんぼする東との攻防は、真中がトイレから帰ってくるまで続く。

「なにやってんの?」
「真中さん、にっしーがいじめる! 助けて!」

 机の上に放置された英和辞書。
 結局引かれることがなかった開きっぱなしのそれは、開け放った窓から入りこむ風に吹かれ、ぺらり、ぺらりとページを捲る。
 滝田が引こうとしていた言葉も、仁科が告げなかった答えも、すべて曖昧に。
 本人たちす忘れてしまったその単語と、それに相応しい意味は誰も知らない。
 知っているのだとすれば、それは風に遊ばれた辞書のみだ。
 
「東の恥ずかしいものってなに?」
「オレだって知らないよ!」
「え?」

 それこそ、かみ、のみぞ知る。

End


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