ネクタイと練習
カバンの奥底で眠っている私は、いつも遠くから聞こえる「服装検査」という言葉を待っている。
制服の一部であるというのに、校則の緩さのせいで私が活躍する場は少ない。
それでも私の持ち主は、粗末な扱いだけはしないのが救いだ。
今日は久々に聞こえてきた私を救い出す言葉。
一度は私をその首元に巻き付けてくれたのに、ミコト君はちょっと考え込むような素振りを見せると、するりと私を解き、丁寧に畳んで、そして今度はポケットの中へと仕舞いこんでしまった。
ちょっと、どうしてなんだい! と言ってやりたかったけど、物である私の言葉は届くはずもなくて。ただポケットの中でお利口さんにしているだけとなった。まぁ、普段カバンの中に押し込められている生活に比べればこちらの方が幾分マシだ。
「あ、仁科」
ミコト君の声だ。いつもより若干弾んでいるように思えるのは、なにか良いことでもあったのだろうか。私が知る限り、ミコト君がこんな声を挙げるのは美味しそうなお肉を前にした時と想い人に仕掛けた悪戯が成功した時くらいだろうか。
夏の終わりに想いを告げ、多少のいざこざはあったものの無事に恋人という形に納まった二人は、あれから半月も経つというのに初々しいカップルのまま。
二人の行動を直接目にすることは滅多にないが、カバンの中に聞こえてくる会話に色気というものがない。
特に仁科氏のミコト君に対する遠慮と躊躇いが痛いほど伝わってくるのだが、きっと私の持ち主には通じていないのだろう。
「今日、全校集会の後に服装検査あるって本当?」
「何故か皆、俺に聞くよね。俺、生徒会の人間であって風紀じゃないんだよ?」
「ちがうの?」
「……まぁ、ネクタイくらいはした方が良いとは思うけど」
素直じゃない返答は、やはり仁科氏のもの。
顔を見なくても分かる。私が間違えるはずがないのだ。
「……一応、さっきまでやってたんだけど」
途端、ミコト君の声のトーンが下がる。
なんだ。何を緊張しているんだい。
「なんかさ、仁科みたいに結べないんだよね」
どうやるのと、と彼はポケットの中の私を指先でなぞり、嘘をつく。ついさっき、その手で、私を完璧な形に整えてくれた癖に。
ポケットから手を抜いた拍子に、私の一部が外に出た。
少しだけ広かった視界の中。
ついさっきまで私を撫でていた指先が、仁科氏の首元の結び目に掛かる。
いつもの完璧な形の結びを解いたミコト君の柔らかな声が響く。
だからさ、と。
「仁科で練習させて」
甘く響くその言葉で隠した嘘を、知ってか知らずか。
自分の首元を乱されたというのにかかわらず仁科氏は目を瞠るだけで、もたもたと対面したままけれど幸せそうにタイを結ぶミコト君。その視線は毒のように甘くて。
それに中てられた仁科氏の表情は、冷静さを努めているようだが口の端が緩んでいるところをみるといろんな感情を抑えこんでいるのだろう。
やれやれ、私がちゃんと結んで貰えるのはいつになることやら。
どうにかこの昼休みが終わるまでには、私の仕事が始まるのを期待するだけだ――
end
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