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 新聞配達自転車のブレーキ音。
 階下から聞こえる調理の音。
 鳥の声とお隣さんの親子の会話。
 朝を迎えて徐々に重なっていく音と白んでいく空にぼんやりと意識を覚醒させる。
 結局考えもまとまらぬまま迎えた朝。
 寝不足でぼんやりする頭のまま身支度を整えて降りる階段と庭先の光景はいつもと変わりない。
 そのことに少しだけ安心した。
 慌ただしく出勤する母の背中を見送ってから居間へと赴く。
 既に用意されている食卓に着きながら、新聞を読む祖父に声を掛ける。ねぇ、じいちゃん、と。

「どうした」
「今日、学校休みたいんだけど」
「具合でも悪いのか」
「いや、元気だけど。友達と喧嘩して、どうしても話をしたくて。学校じゃ捕まらないからこっちから出向こうと思って」
「……それは勉強よりも大事なことなのか」
「俺にとっては、一番大事なことだよ」

 だから、どうしても休みたい。
 今日だけにするから。お願いします。
 事情は知らずとも孫の意志の固さは知っている。
 掲げていた新聞を畳んだ祖父は「爺は孫のお願い事に弱いものなんだよ」重い腰を上げて受話器を取る。

「電話だけでいいんだろう」
「うん」

 ごめん、ありがとう。
 電話をする祖父のすらりとした背中に感謝の気持ちを送り、朝食もそこそこに玄関へと向かう。

「いってきなさい」

 厳しい母の目を誤魔化すために着込んだ制服は着替えぬままでいなさいと、祖父のその一言に背中を押され、玄関を飛び出した。
 同じ制服を着た生徒とすれ違いながら、駅へと向かう。
 怪訝な目で見られても気になどするものか。
 足を休めることなく向かった駅。
 駅員から怪訝な目で見られることを危惧したけれど、注意されることなく切符も買えた。
 存外、サボりというものは簡単に出来るものらしい。
 けれど、ばれるかもしれないというこのスリルは、心臓に悪い。常習するつもりはないがやらないに越したことはない。
 ピーク時を過ぎた駅構内は人の波も比較的穏やかだ。
人の波を縫い改札へと向かう。知り合いと擦れ違わなかったことに安堵したのも束の間。
田舎ゆえに限られた台数しかない門の手前で見知った金髪が手を振るのが見えた。

「おはよ〜」
「なにやってんの? もう八時過ぎてるじゃん」
「ちょっと寝坊しちゃってさぁ」

 あいらを起こしに行ったら休むって言うし、散々だよ。
 そう零しながら笑う滝田はスポーツバッグの中に突っ込んでいた拳を差し出す。「手、出して」と。

「本音を言うと真中にこれを貸そうと思ってね」
「なにこれ?」
「恋愛成就のお守り。あいらん家行くなら必要だと思って」

 押し付けるように握らされたのは、年季の入った巾着袋。
 護符が入っているにしては硬すぎる感触に首を傾げる。
 中身を確認するよりも先に流れるアナウンスは次の電車が到着する旨を伝える。
 もう一本遅らせても構わなかったが、善は急ぐべきだと追いやられるように改札を通された。
 隔てられた門の向こうで、協力者は笑う。

「上手くやんなよ」
「なんかその言い方嫌だな」

 昨夜もそんなことを言われたような気がする。
 繰り返されると下世話な言い方に聞こえなくもない。
 改札の向こう側でにやにやとキツネ目が笑う。
 なんだか居心地が悪くなって手の中の塊をいじっていると、その形にものすごく身に覚えがあることに気付いた。
 恋愛上手の彼がくれたお守りは、なるほど、確かに効力はありそうだ。

 駆け込むようにして乗り込んだ電車内。
 ラッシュ時を過ぎたとはいってもそこそこ混み具合。
 ドア側に身を寄せながら飛ぶように過ぎ去る景色を横目に握ったお守りの中身を確認する。
 小さな巾着の中には銀に光る鍵がひとつ。
 キーホルダーもなにもない。
 剥き身のそれは、おそらく仁科家の玄関の鍵。
 両親が不在で、家族ぐるみの付き合いがある滝田の家の人が鍵を預けることはなんら不思議でもない。
 けれど、それを持ち歩くことのできる滝田に少なからず嫉妬する。ずるい。羨ましい。
 そんな場合ではないと分かっていても、やはり、好きなものは好きなんだと。改めて思う。
 この一週間で整理したが、結局言いたいことの大半はまとまらないまま。それでも、どんなことをされても自分の中の仁科の存在は揺るぎないということ。
 それだけあれば十分か、と。
 開き直ることにした。
 この恋の見通しなんてまるで経っていないけど、諦める必要はない。それだけは確かだ。
 たくさん、人に後押しをして貰った。
 もうこうなったら、思いの丈をぶつけるだけだ。



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