二百二十日目の変事


 深緑の板を黄色いチョークの粉がするすると下りていく。
 読み上げられる教科書の内容や、解説、癖の強い文字を追うよりも、ついさっき記された文字の欠片。
チョークの粉の行方が気になる。
 ぷつりと切れた集中力。
握ったシャーペンの動きは、鈍いままだった。

 新学期が始まって一週間。
 夏休みを満喫した身体が、勉強へ拒否反応を示す。
 勉強に対するやる気はどこへ行ってしまったのだろう。
 休みに入る前の自分は、もう少し真面目だった気がする。
 授業に身が入らず、古文のきれいな言葉すら右から左に流れていく。こうなってしまえば、読み上げられる言葉はただの子守唄も同然だ。
 お気に入りの腕時計が昼休みを告げるまであと十分。
 時間の流れはいつにもましてゆったりだ。

「高校生活はあと半分しかない」
「差をつけるためには」
「志望校に合格するためには」

 教師たちのその言葉は聞き飽きた。
 そうまでして現役合格をしなければならないのか。
 勉強に疲れた脳が駄々を捏ねる。
 公立の進学校に通っているのだから仕方ない話ではあるのだが。
 教室の真ん中はそこそこ教師の目も集まりやすい。
 板書を取っているフリをしながら、友人たちの様子を窺う。
 教卓の前の特等席の東は、背中を丸めてノートに向かう。
 授業に集中しているようにも見えるが、一切黒板を見ることもなければ教師の顔を見上げることもない。
 終いには丸めた教科書がとん、と机の端を叩き「ちゃんと聞きなさい」と注意を受ける。
 きっとノートに落書きすることに夢中になっていたのだろう。
 滝田はといえば、真中の斜め後ろの席で勉強道具に触れることなく机の中に手を突っ込む。視線は下。
 最近口説いているという他校の女子とラインでもしてるのだろう。
 言っておくけどそれ、先生には丸わかりだからな。
 教卓からの景色を知っているだけに、分かりやすい滝田の行動に苦笑が漏れる。
 呆れを含んだ視線を感じたのか、不意に視線を上げた滝田は様子を窺う真中に手を振り、ウィンクをひとつ。
 おまけに投げキッス。
 このキザ野郎!
 心の中で罵りながら渾身のしかめっ面。
 机の中で静かに点滅したケータイにはラインの通知が一件。
 滝田から「すごい不細工な顔してたよ」と一言。
 余計なお世話だ。
 ムッと眉間に皺を寄せたところで、待ちわびていた鐘の音。
 それと同時に、ガタガタと音を立てて椅子を引く数人の生徒。

「やった、真中! 飯行こう!」

 そのうちの一人が、日直の号令もほぼ無視して呼びかけてくる。
 既に気持ちは昼休みに突入している東は弁当包みを掲げながら満面の笑み。教壇に視線を送れば、そんな彼とは対照的になんとも言い難い表情の教師の姿。
 普段の授業態度を知っているだけに、挨拶もないのはまずいのではないか。あるはずのない親心から、彼の通知表の心配をする。
 きっとマイナスに近付いたであろう評定。
 どうか無事に進級してほしい。

 机の上に広げていた勉強道具を片付けて、昼飯の準備を整える。
弁当と財布、ケータイ。
 これだけあれば十分。

「たっきーも早く」
「ん〜」

 賑わい始める教室の中、もう一人の連れに声を掛けると、隣の席の女子に絡んでいた男は「また後でね」なんて軟派な台詞を吐いて軽い足取りで入口へ。
 その手は財布のみ。
 昼飯の類がないところを見ると、今日はコンビニに寄る余裕はなかったようだ。

「今日、購買?」
「うん。ついでにお遣いもするけど」
「じゃあ、飲み物、よろしく」
「了解」

 先を急ぐためお金の遣り取りは後でいいから、と。
 そう言ってこの昼一番の激戦区に向かう背中を見送り、弁当組の東と真中は一足先に廊下の奥へ。
 教室、食堂、中庭、部室。
 中学の時と異なり好きな場所で飯を食えるのは高校の良い所。
 真中たちの昼食場所は、今日も校舎二階。一番奥になる多目的教室。
 授業で使用するため冷暖房完備、昼休みの喧騒からは遠く、その居心地はなかなかだ。
 いつからだろう、気が付けば一緒にいるようになった四人と共に騒ぐ時間が、最早日常。
 さて、今日も皆が揃う前に机をくっつけて飯の準備をしておこう。
 のんびり来るであろう三組の面子を思いながら秘密基地の扉を開けると、

「おせーよ」

 ぶっきらぼうな声。
 扉を開けて一番手前の席。
 椅子の上に胡坐を掻きゲームに打ち込む南風原が出迎える。

「遅いって、今、昼休み始まったばっかりだろう」
「だって、おれ、ずっとここ居たし」
「……あぁ、ここで授業してたの?」
「うん」

 授業はまともに受けていたのだろう。
 ゲーム機の下、広げっぱなしになっている教科書とノートには、数式と解がしっかりと書きこまれていた。
 真中たちよりも進んでいる単元。
 さすが理系といったところか。

「みなみ、にっしーは?」
「購買行くって。たっきーも?」
「うん。ついでに飲み物も頼んだから、少し遅くなるんじゃないか」
「うわ、真中たちばっかズリぃ! おれもにっしーに頼んでおけば良かった」
「って、言うと思ったから頼んでおいた! オレが!」
「金は? おれ今日財布忘れたわ」
「じゃあ、オレ持ちでいいよ。トイチの利子で」
「エグい!」

 東の先まわった行動に嬉しさを隠せない南風原は、ゲーム機を放り、幼馴染の背中を容赦なく叩く。それはもう、無遠慮に。親友からの褒め言葉に、東も嬉しそうである。
 そんな二人の様子を眺めながら、南風原の周囲の机をくっつけ食事の準備を整える。
 南風原の席がお誕生日席。
 その前に四つの机を向い合せにすれば完了。後は王様の前から順に座るだけ。
 南風原から見て右側に真中。左に東の並び。
 仁科と滝田の到着にはまだかかる。
 先に食べるか。
 誰かが言い出すよりも早く、腹を空かせた男子高校生は早々に弁当の蓋を開ける。

「うわ、真中の弁当、すげぇ」
「なんか、やけに茶色くない?」
「いつももっとカラフルだろ。どうしちゃったんだよ、今日」
「もしかして自分で作ったの?」

 隣と向かい側の席から覗きこまれた弁当は、確かに自分で作ったものだ。
 忙しい母に代わり、昨日の晩御飯の残りを中心に冷蔵庫にあるもので埋めた弁当箱。
 好きな物を好きなだけ詰められることもあり、嬉々として台所に立った。
 米よりも肉料理の方が多い結果となった。
 完成してから彩のなさを自覚したが、食べ飽きたブロッコリーやトマトを入れるくらいならもう一品、肉が食べたい。
 美味しい物は大抵茶色くなるのだから仕方のない話なのだ。

「そうだけど、残り物を詰めただけだよ」
「それにしたって肉多すぎだろ、米と野菜はどこ行った!」
「米はあるよ。おにぎりもあるし。野菜は、まぁ、ちょっと入りきらなかったくらいで」
「嘘吐け! ちゃんとお野菜も食べないと、お通じ悪くなってイライラするわよってお母さんいつも言ってるじゃないの」
「ほぉら、真中さん、ブロッコリーだよ」
「おれの葉っぱもやろう」

 それぞれの方向から橋が伸び、弁当の端っこに緑を添える。
 塩ゆでしただけのブロッコリーもしなしなになったレタスも、弁当のおかずで残されがち。
 食べ飽きているのは真中だけではないようだ。

「いらねーよ、これ、お前らが嫌いなものだろ」
「そんなことねぇよ」
「おれらの愛だよ、受け取って?」

 可愛らしく語尾を跳ねあげて言っても、相手は男。
 例えきれいな顔をしていたとしても「可愛い」とは思えない。
 箸同士の攻防に負け、無事に引越しを終えた野菜たち。
 弁当の隅でくしゃくしゃになったレタスと、放るように入れられたブロッコリー。
 形ばかりの優しさをさっさと口の中に入れて処理。
 やっぱり、おいしくない。

「もうちょっと美味そうに食べろよ」
「あげた甲斐がないじゃん」
「実際美味しくないんだって」

 後味の悪さに眉間に皺が寄る。
 好物で掻き消そうと、自分で用意した肉巻おにぎりに手を付けたとほぼ同時に、こちらの向かってくる足音の存在に気付いた。

「あ、ジュース来た」
「おっせーよ、早く!」
「……お前ら」
「労いもなくそう来るところがこいつらだよね」

 購買組の二人の登場に挨拶も労いもなく手を伸ばす。
 そんな南風原の態度にも苦笑一つで許してしまえる滝田は、伸ばされた手におつかいの品を落とす。

「うわ、肉ばっか」
「……うるさいよ」

 その感想はもう聞き飽きた。
肉好きは自負しているし、この遣り取りは挨拶みたいなものだとわかっていてもそろそろいい加減にして欲しい。
 真中の自作の弁当が肉ばっかりなのはお約束みたいなものなのだから。驚くことでもないだろう。
 視界の端でチラつくキツネ顔を無視して、食事再開、といったところで今度は横から手が伸びる。
 最後に食べようと残していた唐揚げが、その手に掠め取られ、

「あ!」
「ん、うまい」

 仁科の胃の中に。
 真中の隣の席に腰を下ろすその手の主は、レジ袋を漁り「ごちそうさま」と笑顔を振りまく。

「これ、あげるから許して?」

 差し出されたペットボトル。
 滝田に頼んでいた筈の物が、仁科の手によって届けられた。
 それも、最近気になっていた新発売の炭酸飲料。

「奢り?」
「当然」

 その一言にしょうがない、と溜息一つで許してしまう。
残されていた中でも比較的小さな唐揚げだったこと。東たちをからかいたい、そんな仁科の意図が透けて見えたこともあるとはいえ、たったそれだけのことで食べ物の恨みは一瞬で消え去る。我ながらチョロい。

「うわ、にっしーズルい!」
「なにが?」
「真中さんの好物で肉を奪おうだなんて」
「策士か!」
「はいはい、何とでも言えばいいさ、君らに同じことが出来るのであればね」
「おい、真中、聞いたか! こいつはこういう奴だよ」
「知ってるよ。仁科がそんな性格良い奴なわけないじゃん」

 真中のその一言に、その場の誰もが固まった。
 次の瞬間、東と南風原は笑い出し、仁科は無表情、その向かいに座っていた滝田は「あいら、どんまい」と声を掛ける。
 
 静かだった教室が騒がしくなる。
 やはりこの「秘密基地」は、声が満ちてこそだ。



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