春告げ いちばん


 吐き出した息が、唇を離れた途端霧散する。
 それだけで改めて冬であることを思い出しマフラーで温めた首の後ろが寒くなる。
 最近はすっかり春めいていたから、昨日からの冷え込みがつらく思える。
 特に昨日の夜は寒さが厳しくて、テスト前であるにも関わらずベッドの中で勉強をしようと早々に布団の中に足を突っ込んだ。あったかい毛布の魔力は夜でも有効なのだと改めて知ることになったのは母親の「ソウタ、電気点けたまま寝たの?」の声で。
 何もしていない絶望感に叫んだのは言うまでもない。
 文字通り飛び起きて、朝食よりも先に知識の方を詰め込んだ。
 今年度最後のテストの最終日。
 幸いにも科目は数Tとライティングの二教科だけ。
 数学の公式を呪文のように呟いて、付け焼刃が剥がれ落ちないように必死になる。
 テスト範囲として配られた演習問題を眺め、濡れた路面を黙々と歩く。

「そのままじゃ、ぶつかるぞ」
「ぐぇ」

 下を向いていたせいか。
 自分の声で周囲の音が聞けていなかったせいか、背後に他人の気配があることに気付かなかった。
 マフラーごと襟首を掴まれ潰れたカエルのような声があがる。
 なんだその声、とツボに入ったらしい。
 爆笑する南風原に気持ちに余裕のない東の表情は一気に不機嫌なものになる。

「なんだよ、みぃ。邪魔すんなよ」
「それが助けてやった人間に言う言葉か。は〜、やだねぇ、友情に厚くないやつは」
「ん?」

 視線を前に戻すと、灰色の柱。
 随分前から貼られたビラの中の迷いネコと目が合った。
 雨避けのビニールも放置されたせいでボロボロ。本来の写真よりもずっと色褪せてしまってはいるが、当初、白い毛並に嵌めこまれていた目は、東と同じ青色だったはずだ。

「見つかったのかな、この子」
「さぁな? それよりもこれって違法なんじゃなかったっけ?」

 雪が降る前に無事に帰れたのかな、という想いも幼馴染は現実味のなる言葉で方向性を変えていく。

「なにそれ?」
「しらねーの? この前授業でやったじゃん」
「あ、やめて! 今のオレに余計な知識を与えないで」
「勉強してねえの?」

 首を傾げる南風原は口の端を上げ「愉快」を顔に表出しながら尋ねる。
 素直に寝落ちたことを告げると、彼は更に笑みを深くして東の背中を叩き、励ます。

「おれもさ、徹夜でゲームして殆ど勉強してねえから。安心したわ」

 自信持てよ、と励ます言葉。
 開き直っているせいか。それとも単に寝不足で思考回路がくるっているのか。ドヤ顔で告げる南風原の表情に、不安は濃くなるばかりだった。
 取り上げられたプリントはカバンの中に押し込まれた。

「あ。梅、咲きそうじゃん」

 通りすがりの石塀の上から零れた枝。
 その先端に白くてまるい塊がぷくりと膨らんでいた。
 中学時代に教えられた知識の引き出し。春一番に咲くからハルツゲグサ、コノハナという名前も持つ。あれはたしか、真中家の墨の匂いが沁み込んだ書道教室の一角で。まだ中学生の東と南風原に梅の花を眺め教えてくれたのは、真中の祖父。
 春の訪れは素直に嬉しいが今は手放しで喜べる状態ではないのに。

「ううう、過去の知識がオレの邪魔をする……」
「諦めろ、腹括って追試受けようぜ」

 な、と再び悪魔の声。
 うっかり頷いてしまいそうになるのは、その声に同調することが多いから。反射って怖い。
 南風原の誘惑を振り払い、踵を返し、まわれ右。今しがた通り過ぎた梅の樹を仰ぎ、両手を合わせ神頼み。
 梅干しにいるという天神様は、確か学業の神様だったはずだ。突然の奇行にもすぐに合点が言ったらしい。
 東の悪あがきを笑いながらも隣で南風原も手を合わせる。
 また同じクラスになれますように。
 願いを込めた梅の枝は風に揺られる。ゆら、ゆらゆらと。
 手を振っているようにも見えるその動きはいったいどういう意味なのだろう。願いに対する答えは了承か、拒否か。
 尋ねたくても天神様は影すらも見えない。
 最後の悪あがきに教科書を開いてみても、余計なことが頭の中をめぐる。

「お願いだから勉強させて……」

 とっ散らかった思考回路をまとめたい。
 思わず漏れた一言に南風原の笑い声と共に梅の小枝がさわさわと揺れた。
 
end

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