ライラック狂想曲
屋根の上を引っ掻くような。不規則に響く、カリカリともトントンともつかない不思議な音。
朝や夕方。眠りから覚醒するのを待っていたかのように、寝起きの鼓膜を揺するその音の正体が気になった。
おそらく、カラスだろう。
そんなことは当時小学校高学年だった東にも、容易に想像できた。
だが、それを決定づけるものは何もなかった。
トン、トン、カリリ。
軽快なリズムで屋根を歩くのは、なんとも楽しそうだ。
もしかしたら、近所の猫かもしれない。
もしかしたら、見たこともないきれいな羽を持った鳥かもしれない。
同級生に言えば絵本の読みすぎと馬鹿にされるかもしれないが、それでも確証がない限り想像は無限大だ。
板を数枚挟んだ向こう側で、彼らは一体何をしているのだろうか。
それが気になって、仕方がなかった。
好奇心旺盛で、家には自分と祖母だけ。
実験をするには、最高の日だ。
思い立ったが吉日と、物置から大きめの脚立を引っ張り出す。
最近家の者の誰かが使ったのだろう、手前に仕舞われていたそれを出してくるのは造作もないことだった。
「そうた、脚立なんて危ないもの、どうするの」
「野鳥観察すんだ!」
意気揚々と階段を上がっていく孫の発言に、祖母は心配そうに首を傾げたが目の前の事柄に夢中な東は気にすることもなく自室へと戻る。
部屋に入って真っ直ぐ、ベランダへ。
脚立をしっかり広げて、首からカメラをぶら下げて、準備はOK。
わくわくと、目の前に広がるであろう光景に期待してアルミの階段を上る。
庭に咲いた藤の香りが此処まで届く。
ちょっとした、冒険小説の主人公にでもなったみたいだ。
屋根の上には何があるのだろう。
宝物を目指して進むかのように、わくわくとドキドキが止まらない。
一歩、また一歩。視線が高くなるにしたがって気分も高揚する。
しかし、それも天辺までのことだった。
屋根のふちに捕まって見上げた屋根の上は、想像していたものとは違っていた。
残念ながら、東家の屋根はファンタジーではなかった。
「なんだ、カラスかぁ……」
カツカツと屋根の表面を擦る鉤爪が音の正体で、あくびをする猫もいなければ黄金色の羽の鳥もいなかった。
狭い日本のどこにでも現れる黒くて、狡猾で、大きなカラスが数羽、羽を休めに来ているだけだった。
「あ。しょーこしゃしん、撮っとかないと」
ひどく落胆した気持ちになりながらも、せっかく正体を確認しにきたのだ。
父親のカッコいいカメラも借りたのだからと構えて液晶を覗く。
レンズ越しに見たカラスは随分と大きく感じた。それもそのはず。東と同様、好奇心旺盛なうちの一匹が近付いてきていたのだから。トン、トン、と跳ねたり歩いたりしながら。
使い勝手の分からないカメラは、真昼だというのにフラッシュを焚き近寄ってきた黒い鳥を威嚇した。
驚いたのであろう。鳥も人の子も。互いに目を丸くする。
カラスたちは叫ぶように鳴きながら力強い羽音と共に青い空に飛び立った。
大きく羽を広げ、頭上を通り過ぎるカラスに襲われると勘違いした東颯大少年は、慌てて脚立を下りたが焦っていたせいで足場を捕え損ね、滑るように落ちていく。
幸いにも打ち身と軽い捻挫だけで住んだが、腹の真ん中がひどく冷たく、初めて実感した「死んでしまうかもしれない」という恐怖に声を上げて泣いた。
もう十歳なのに、とか。変なプライドが脳裏を過ったが、それよりも恐怖の方が強かった。
その後、帰宅した両親にこっぴどく叱られた。
落ちた際に破損したカメラは、月々のお小遣いから削られるという減俸処分が取られた。
悪いこと尽くめだと、不貞腐れ気味で布団に入る。
ただの、事故のように思っていた出来事は、思いの外、少年の心に爪痕を残していたらしい。
その変化に気が付いたのは翌日のこと。
友人と別れて、自宅に向かうその最中。
カア、カア、と。
頭上に響く、不吉な声。
見上げた先は電線にとまり此方を見下ろす複数羽のカラスたち。
「ひぃっ!」
小さく悲鳴が漏れたのは、彼らが昨日のカラスたちに思えたから。
東自身、知らなかったとはいえ、驚かせてしまったのだ。
カラスは頭が良いと聞くし、もしかしたら仕返しに来たのかもしれない。
そう思うと、血の気が引いていくのが分かった。
昨日の恐怖がじわじわと迫ってくる。
手と背中に冷たい汗を掻き、心臓は知らず内に早くなる。
怖い、怖い、と心の中で叫んでも口は金魚のようにパクパクと間抜けな音を立てるだけだ。
背中で聞いたカラスの声は、まるでそんな東を小馬鹿にしているように思えて、悔しさから涙が滲む。
それから買い物帰りのお隣のおばさんが来るまで、カラスとの睨めっこは続いた。
大丈夫だと笑うおばさんに「家に入るまで見送ってくれなきゃ嫌だ」と駄々をこねた。
自分でもガキだと思ったが幸い見た目が近所でも評判の美少年だったため、多少の我儘は「かわいい」で済まされた。
泣きながら帰ってきた孫に祖母は大層驚いていたが、カラスに対する恐怖心はそれ以降も続き、時には学校に行きたくないと泣き、友人の背に張りついて帰ったこともある。
東くん、かっこいいのにかっこ悪い。
思えば、クラスメイトの女の子からそんな評価を受けたのは、その頃からだったかもしれない。
言うなれば、トラウマにも近いカラスへの恐怖心は、今も尚、続いていた。
「いってきまぁす」
意気揚々と家の中にいる祖母と両親に告げて早五分。
時間にも余裕を持って通い慣れた通学路に踏み出し大きな通りに出た頃。
少しだけ早かった東の歩調が徐々に鈍くなる。
「……げっ」
忘れていたわけではなかった。
今日は火曜日。
燃えるごみの日。
住宅が密集するこの土地は、彼らにとって天国のようなものだ。
どんなに人間が工夫を凝らしても意外な方法で食料を荒らしに来る彼ら。
いくら自業自得とはいえ、幼い頃に植えつけられた恐怖は高校生になった今も根深く残っていた。
さすがに近所の大人たちに手を繋いでくれと駄々を捏ねることはしなくなったが、一匹以上のカラスの群れの前を横切るのには時間と勇気を要する。時には遅刻することだってある日もしばしばだ。
円らな瞳をした悪魔が三匹。距離にして十メートル。
未だに東の存在に気付いていない彼らはまるで何かを相談するかのようにカア、カアと短い鳴き声をあげる。
どうしよう。
どうしたら、彼らに気付かれないままここを通り過ぎることが出来るのか。
ばくばくと心臓が早まり、冷や汗が背を伝う。
こんな時に限って「お前の目、結構きれいな色してるから、そのうちカラスに取られるんじゃねえの」とからかう南風原の台詞を思い出す。
「みぃ〜……」
反芻したその台詞に更に恐怖を煽られ、ここにはいない人物を恨んだその瞬間。
「あずま〜、お前、なにやってんの?」
自転車の走行音、ブレーキに次いで聞き慣れた声。
「みぃー!」
振り向けばそこには、今しがた脳内で東のことを盛大に笑っていた友人、南風原瑞樹の姿が。
自転車のハンドルに肘を掛け、呆れた様子でカラスと東を交互に見やる。
「なに、またカラスにビビってんの?」
「仕方ねえじゃん、怖いものは怖いんだって」
「だっせぇ!」
「ださくていいよ! みぃしか見てないんだから!」
吹っ切れたように叫んで、南風原の自転車の荷台に勝手に跨る。
こんな風に朝、南風原に遭遇した日は荷台に乗せてもらっている。
仲の良い友人たちの中で、こんな風に東を乗せてくれるのは南風原しかいない。
「仕方ねえな。ほら、カバン寄越せよ」
「ん。ありがと、みなみ」
なんだかんだ言って東に甘い南風原の態度に、うっかり頬が緩んでしまう。
差し出された手に中身の薄いカバンの柄を引っ掛けると、乱暴にカゴの中に突っ込まれる。
「ひっでぇ!」
「お前なんてこんな扱いで十分だ」
「愛を感じないよ、みなみ!」
「大丈夫、大丈夫。俺の愛は無限大だから」
二次元の方向にねぇ、と余計なひと言を付け加え二人を乗せた自転車はゆっくりと進む。
ゴミ捨て場を通り過ぎ、
「あ〜……、ありがと、みなみぃ」
「あれ? もうみぃって呼ばねぇの?」
「……カッコつかないから、いいの」
「今更カッコつけたところで、あじゅまはヘタレじゃん。無駄だって」
「ひっでぇ!」
懐かしいあだ名がうっかり出てきてしまったのは、それだけ自分が必死だった証拠だ。
拗ねるような口調で誤魔化した言葉は、南風原の言葉によって容赦なく切り捨てられた。
だって東は東だから。更に続く言葉に喜ぶべきか、落ち込むべきか。
東の微妙な男心を分かってくれない南風原に恨みがましい視線を向けても、彼の背中は何も語らない。
「なー、東。今何時?」
「ん〜? 8時46分」
「はぁ!? やっべ、遅刻じゃねえか!」
今から自転車を飛ばしたとしてもここからはあと10分は掛かる。
家を出た時にはもっと時間に余裕はあった筈なのだが、カラスと対峙している間に随分と時間を食ってしまったらしい。
おそらく南風原も、ぎりぎりのところを飛ばしていたのだろう。それを東のために停まってくれたことを思うと、堪らなく嬉しい。
「いいじゃん、みなみ。のんびり行こうよ」
「……そうすっか。にっしーに遅れるってメール打っといて」
「りょーかい」
立ち漕ぎで頑張ろうとしていた南風原に声を掛けると、二人分の体重を支えて緩い坂を上りかけていた彼は少し間を置いて、ストン。サドルの上へと戻る。
遅刻することを決めたせいか、ギコギコと錆びた音を立てて彼の愛車がゆっくりと進む。
ゴミ捨て場を通りすぎてから、何羽かカラスは見かけたが不思議と怖くはない。
たぶん、南風原と一緒だから。そう思えば汗で冷えた身体もぽかぽかと暖かい。
見慣れた光景も、南風原と一緒だと、なぜだかわくわくしてしまう。
「みなみ」
「何よ?」
「このままサボってデートしよ」
「だめ、おれのクラス、今日小テストあるから」
「え〜……、みなみのいけず」
「帰りなら良いぞ、一緒に服見にいこうぜ」
冗談交じりのお誘いは、あっけなく振られた。
残念。でも、放課後が楽しみ。
照れ隠しと悔し混じりに目の前の背中に額を押し付けると、彼の言動に一喜一憂する東を小馬鹿にするように頭上からカラスの声がした。
カア、カア、カア。
End
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