君は百薬の長




 ただいま、と。
 玄関を開け、カバンを置いたと同時に家中に轟く父の怒声。
 何事かと居間へと赴けば、姉と父親がテーブルを挟んで言い合っている只中だった。

 血の気が多いのは南風原家の特徴のひとつ。
 誰かと誰かが衝突することなんて茶飯事だ。
 決して家族仲が悪いというわけでもないのだが、

 だが、家族としてもどうしても許せないことだってある。

 二人の喧嘩の仲裁に入ったはずだったのに、気が付けば南風原の方が父親に頬を叩かれていた。
 鈍い音が耳元でした。
 目の前が白く明滅し、脳を揺さぶられる。

 その瞬間、ぎりぎりの所で堪えていた怒りが更に火力を増した。

 姉の味方をしただとか、原因は自分の態度だとか、話し方だとか。
 要因は様々あるだろう。沸点が低いのはお互い様だ。

 ただ、どうしても許せなかったのは彼の「ガキのくせに」のその一言。
 姉の意見を頑なに聞こうとしないその態度。
 親の一言は、態度はどんな些細なものでも救いになる。凶器になる。
 
 やりたいことを聞いてくれてもいいじゃないか。
 応援してくれたっていいじゃないか。
 
 子どもっぽい意見と言われても、南風原の主張だった。
 いくら叫んだところで、頑固者の父親は既に背を向け自室に籠る直前。
 姉の悔しそうな横顔に、うっすらと涙が滲んでいるのが見えた。

 負けず嫌いなのは、彼女も一緒なのか。
 拳を握り堪えようとする彼女は、自分を擁護し父に殴られた弟に「ごめんね」と静かに言葉を紡ぐ。

 お前は何も悪くない、と言ってやりたかった。
 けれど、そんな優しい気分にはなれない。
 身の内に発生した重くて黒い感情が、腹の底で渦を巻いている。
 忌々しい、腹立たしい。父親や姉に対するものもあれば自分を責める感情もある。
 
 口を開いて誰かを傷つけてしまう前に、逃げ出した。
 制服のまま、玄関に置いていたカバンを引っ掴んで、どこにも吐き出せない感情を抱えたまま。
 救いを求めて家を跳び出した。







 胸に大きな穴が開いた時。
 自分一人ではどうしようもない状況に陥った時。

 行きつく先はいつも同じ。

「……あじゅま、開けて」

 全力で走れば数分の距離にある、幼馴染の家。
 インターホンを押し、聞き慣れた声に機械音が混じるのが聞こえる。
 すかさず告げるその言葉に「開いてるから入って良いよ」と不用心な応え。

 いつもなら言えるお邪魔します、の一言もないままに敷居を跨ぎ、家の奥へと向かう。
 目指すは己の秘密基地。東の部屋だ。

 一昨日訪れた時と殆ど変らない部屋の装いにどこか安堵しながら、鞄を放り投げ定位置のベッドの前へ。
 柔らかい布団に頭を預けながら、見上げたきれいな天井は、先程父親に言われた言葉をじわじわと思い出させる。

 張られた頬がじんじん痛む。
 加減を知らないあの男に「クソジジイ」と悪態を吐いて床を殴る。
 叩いた分、拳は痛むが、それ以外に胸のしこりを取る術を知らない。

「お待たせ〜」

 いつもと違い、暗くて重たい南風原の心境などお構いなしに訪れる部屋の主。
 南風原の家出への対応には慣れたものと、お菓子とジュースを運んできた盆の上には冷却シートまで添えられていた。

「……またやったんだ。今日は泊まり?」
 
 笑いながら手当てをしてくれる東に対しても、頷くだけ。言葉は出ない。
 口を開くと傷つける言葉を発してしまいそうで。
 熱を持っている頬を冷やされても、腹の奥底で煮えたぎっている感情にまでは届かない。
 どうにか消火してしまいたいのに、自分じゃどうにも出来ない。
 悔しくて、腹立たしくて、行き場をなくした想いが、出口を求めて爆発してしまいそう。
 
「みなみぃ」

 それでもこの幼馴染はお構いなし。
 いつものようにのんびりとした口調が、穏やかに鼓膜を揺する。
 こんな時、一人にさせてくれない幼馴染の存在がありがたくも思う。
 少しだけ、強張っていた肩の力が抜けた瞬間。
 襟首を掴まれ、引き倒された。

「っぎゃ!」

 硬い男の膝の上に強かに頭を打ち付けた。
 そこまで勢いはついていなかったが、肉付きの薄い東の膝は寝心地が悪いのだ。

 不満を抱きながらもそこから動こうとはしない南風原の姿が青みがかった鏡が映す。
 笑うこともなく、怒ることもない。
 ただ静かで穏やかな目と見た目よりも視界を奪われた。

「……なんだよ」
「なんでもないよ」

 手で覆われ、何も見えなくなって。
 そこに降ってきた一言に、見えないはずの視界が霞む。歪む。
 堪えていた物が堰を切ったように溢れ出す。

 鼻の奥がつんとする。
 濡れた感覚が頬を目を濡らし、押さている東の掌にまで伝わっている。
 下唇を噛む歯が小刻みに揺れる。
 鼻を啜る音が自分の弱い部分が剥き出しになっていることを、今更になって自覚した。

 泣きたかったわけではないが、自分の弱さを認めてくれる場所に安堵する。
 父親に可能性を否定されて辛かった。悲しかった。
 姉のために間に入ったくせに何もできなかった。悔しかった。
 忌々しかったのは親にではない。不甲斐ない自分自身に対してだ。
 
 普段はあんなに威張っている癖に、大人の前では歯が立たない。
 惨めで格好悪い姿を、姉に見られたくなかったのだ。

 けれど、ここでならそれも出来る。
  
「……なんだよ、あじゅまぁ」
「へへへ」

 視界が明るくなり、細められた青い目を見上げる。
 震える声も泣いてぐしゃぐしゃになった顔も、ここでは隠す必要もない。
 その気軽さが、今はありがたかった。
 
 小さな子どものように大泣きしたわけではないが、涙と一緒に不安な想いはどこかに行ってしまった。
 スッキリとした気持ちで言葉が出てくる。

「……あほ面」
「ひどい、こんな美人を捕まえておいて! あの言葉は嘘だったの!?」
「なんの言葉だよ!」

 何も考えずに出てくる言葉。
 何気ない、いつものやりとりが小さな笑いを誘った。 

 涙がついて微かに濡れて指先が目の上を撫で、額を撫で、頭を撫でる。
 長い指が短い前髪を梳き、また額へと戻っていく。

「おい、やめろ。眠くなる」
「わかった、子守唄歌えば良いんだね」
「頼んでねえって!」

 なぜか昔から眉間を撫でられると眠たくなってしまう。
 悔しい気持ちも悲しい気持ちも一頻り笑ったら吹っ飛んだ。
 久々に泣いたせいか、撫でられ押し寄せる眠気。
 連日の寝不足がたたり、この睡魔には抗えそうにもない。

 くあ、っと漏れる欠伸。
 先ほどとは異なる意味合いの涙を撫でていった手が払う。

「眠い?」
「一時間したら起こせ」
「起きれんの?」

 からかうような声音が降る。

「起きんの。今日の晩飯カレーだろ?」

 東家のキッチンから漂う匂い。
 市販のルーに一手間加えたお手伝いさんのカレーは昔から好きな味だ。
 良い日に家出をしてきたものだ。

「カレーって美味いよねぇ」
「美味くないカレーって、……あんの?」
「わかんない。じゃあ今度皆でカレー作ってみようよ。カレーパーティ―みたいなやつ。にっしーとかやたらお洒落なの作ってきそうじゃない?」

 材料は持ち寄って、味付けはそれぞれ分かんないようにして。
 明確なプランを立てていく東だったが、それは一人一つずつ鍋が必要ということだろうか。
 カレーは好きだが、そこまでカレー尽くしも飽きが来る。
 もっと他のことにも気を回そうぜ。

「みなみ?」

 そういえば、家出したということを母に伝えるのを忘れていた。
 姉は悪くない、ということを言いたかったことも忘れていた。
 父の発言には未だにカチンと来るが、そこには姉を想ってのなにかがあったのだろう。
 なんせ、南風原の親なのだ。
 彼の性格の半分以上は、彼から譲り受けたもので出来ている。

 言いたいことは山ほどあるのに、声になるのは「あ〜」とか「うぅ」とか掠れたものばかり。
 意識よりも先に身体の方が眠りにつこうとしていた。

「寝ればいいのに」

 ふは、と。
 柔らかく笑う気配。
 眉間の辺りを擽るように撫でられ、とろとろと訪れる眠気に拍車がかかる。

「……ぁ、めろ」

 小さく示した抵抗。
 ゆるゆると伸ばした丸い爪が東の手首を柔く掻き、力尽きたように腹の上に落ちる。
 眠りの淵へと落ちる間際、ぽつりと落とされる言葉が鼓膜を揺する。

「今日は夜更かしできるね」

 まるで遊びに来たことを喜ぶみたいな口振り。
 父親に言い負け悔しかった気持ちも。
 姉を庇うことが出来なかった自分の弱さも。
 世間を知らない己の恥ずかしさも。
 その言葉が削り取る。
 東の存在がみなみの心を軽くしていった。

 本人は、自覚なんてしていないのだろうが。
 こうやって、南風原の気持ちを優しくしてくれたことは一度や二度のことではない。
 だからこそ、なにかと此処へ来てしまうのだ。
 ここが南風原の逃げ場なのだ。

 このまま目を閉じれば。
 目を覚ました時にはすっきりした気分で起きられるだろう。
 
 そしたら、姉に連絡を入れよう。
 母に東の家に泊まることを伝えておこう。

 だから、今は少しだけ眠ることを許してほしい。

 目を覆う掌の温度が心地好い。
 鼻歌交じりに聞こえるゆりかごの歌が、泣きたくなるほど優しかった。



 男の硬い膝の上。
 肩の上に、暖かな毛布の感触を感じながら、元気を蓄えるため眠りの淵へと落ちていく。

 誰も知らないヒーローの膝の上で、今しばらくの充電を――
 
end


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