君は百薬の長
夕焼けにピンクや紺が滲み始めた頃。
真中や東たちと別れ、家へと帰ると父親の怒鳴り声が出迎えてくれた。
それに応じる身内の声は、同様に荒い。
血の気の多い家族だと思いつつも、自分もその血の影響を少なからず受けていることも否めない。
決して家族仲は悪くはない。良好である。
けれど自分の意見を通そうとして誰かがぶつかることも、そう珍しいことでもなかった。
「なにしてんだよ」
尋ねてみれば、深夜帯のバイトを増やしたいという姉とそれを反対する父の意見がぶつかりあっている、ということだった。
「今のバイト代じゃ足りないのか」
「足りなくはないけど、増やしたら出来ることもあるんだって」
「それが何かって聞いてんだ」
「明確には決まってないけど……」
南風原自身にも言えることではあるが、金が掛かる姉の趣味。
複数ある中の彼女の趣味の中で、最も金が必要となるもの。
それには心当たりがある。
親にはなかなか言い出せない創作活動。
内訳を出せば相当な金額だ。それをどういうことに、なんてこと細かく伝えることの都合の悪さは想像に難くない。
「いいじゃん、バイトくれぇ。やりてぇことを自分で賄うって言ってんだからさ」
「ミズキ、お前はちょっと黙ってろ」
「はぁ!?」
明確な理由を言えない姉も悪いとは思う。
だが、自分は自分の意見を伝えたかっただけだ。
それを真っ向から否定され、閉じ込めようとする父親の態度が腹立たしかった。南風原の沸点を急激に下げたのだ。
姉の擁護をするつもりもなかったが、そういう形になってしまった。
手が出そうになるのを寸でで止めた。その代わりに「やりたいこともやっちゃいけねえのかよ」と聞こえるように呟いた。
不機嫌を隠そうともせず椅子の脚を蹴り部屋を出ていこうとする息子の態度に、同じ血を思わせる気短な男はその肩を掴んでその頬を弾いた。
「社会に出たこともねえガキが生意気な口利いてんじゃねえ」
その言葉に抉られた。
彼の言う通り、バイトの経験がない南風原にその言葉はどんな武器よりも凶器になる。
「バイトの件は保留にしといてやるから、ちゃんと断りの電話入れておけよ」
「嫌よ!」
「ダメったらダメだ!」
頑なに否定し合う言葉。
目に涙を溜める姉の横顔。荒々しい足取りで自室に向かう父の背。
視界に入るその二つに腹の中で黒いものが育っていくのが分かる。
腹立たしい。忌々しい。
何かにぶつけたい衝動すらへし折られた。
「あ、ミズキ。ありがとね」
涙声の姉の背がいつもよりもずっと華奢なものに見える。
ありがとうと言われることなど何も出来ていない。
それならいっそ、「余計なことするな」と罵られた方がまだ良い。
「……別に」
これ以上は、きっと姉に当たり散らしてしまう危機を覚えて背を向ける。
帰ってきたばかりの装いもそのままに、無心で家から飛び出した。
親や姉と喧嘩をした時。
胸に大きな穴が開いた時。
行きつく先はいつも同じ。
「あじゅま、開けて」
全力で走れば数分の距離にある、幼馴染の家。
インターホンを押し、聞き慣れた声に機械音が混じるのが聞こえる。
すかさず告げるその言葉に「開いてるから入って良いよ」と不用心な応え。
いつもなら言えるお邪魔します、の一言もないままに敷居を跨ぎ、家の奥へと向かう。
目指すは己の秘密基地。東の部屋だ。
一昨日訪れた時と殆ど変らない部屋の装いにどこか安堵しながら、鞄を放り投げ定位置のベッドの前へ。
柔らかい布団に頭を預けながら、見上げたきれいな天井は、先程父親に言われた言葉をじわじわと思い出させる。
張られた頬がじんじん痛む。
加減を知らないあの男に「クソジジイ」と悪態を吐いて床を殴る。
叩いた分、拳は痛むが、それ以外に胸のしこりを取る術を知らない。
「お待たせ〜」
いつもと違い、暗くて重たい南風原の心境などお構いなしに訪れる部屋の主。
南風原の家出への対応には慣れたものと、お菓子とジュースを運んできた盆の上には冷却シートまで添えられていた。
「またやったんだ」
と、笑いながら手当てをしてくれる東に対しても、今は無言でやりすごす。
口を開くと傷つける言葉を発してしまいそうで。
熱を持っている頬を冷やされても、腹の奥底で煮えたぎっている感情にまでは届かない。
どうにか消火してしまいたいのに、自分じゃどうにも出来ない。
悔しくて、腹立たしくて、行き場をなくした想いが、出口を求めて爆発してしまいそう。
「みなみぃ」
それでもこの幼馴染はお構いなし。
いつものようにのんびりとした口調が、穏やかに鼓膜を揺する。
こんな時、一人にさせてくれない幼馴染の存在がありがたくも思う。
少しだけ、強張っていた肩の力が抜けた瞬間。
襟首を掴まれ、引き倒された。
「っぎゃ!」
硬い男の膝の上に強かに頭を打ち付けた。
そこまで勢いはついていなかったが、肉付きの薄い東の膝は寝心地が悪いのだ。
不満を抱きながらもそこから動こうとはしない南風原の姿が青みがかった鏡が映す。
笑うこともなく、怒ることもない。
ただ静かで穏やかな目と見た目よりも視界を奪われた。
「……なんだよ」
「なんでもないよ」
手で覆われ、何も見えなくなって。
そこに降ってきた一言に、見えないはずの視界が霞む。歪む。
堪えていた物が堰を切ったように溢れ出す。
鼻の奥がつんとする。
濡れた感覚が頬を目を濡らし、押さえている東の掌にまで伝わっている。
下唇を噛む歯が小刻みに揺れる。
鼻を啜る音が自分の弱い部分が剥き出しになっていることを、今更になって自覚した。
「……なんだよ、あじゅまぁ」
「へへへ」
震える声も、ここでだったらまいいか。
視界が明るくなり、青が滲む目が細められてもそんなことを思う。
見下ろすあほ面にひどく安堵している自分もいる。
小さな子どものように大泣きしたわけではないが、自分の弱さを吐き出した。
流した涙のお蔭か不思議とすっきりとしていた。
「……あほ面」
「ひどい、こんな美人を捕まえておいて! あの言葉は嘘だったの!?」
「なんの言葉だよ!」
何も考えずに出てくる言葉。
何気ない、いつものやりとりが小さな笑いを誘った。
涙がついて微かに濡れて指先が目の上を撫で、額を撫で、頭を撫でる。
長い指が短い前髪を梳き、また額へと戻っていく。
「おい、やめろ。眠くなる」
「わかった、子守唄歌えば良いんだね」
「頼んでねえって!」
なぜか昔から眉間を撫でられると眠たくなってしまう。
悔しい気持ちも悲しい気持ちも一頻り笑ったら吹っ飛んだ。
久々に泣いたせいか、撫でられ押し寄せる眠気。
連日の寝不足がたたり、この睡魔には抗えそうにもない。
くあ、っと漏れる欠伸。
先ほどとは異なる意味合いの涙を撫でていった手が払う。
「眠い?」
「一時間したら起こせ」
「起きれんの?」
からかうような声音が降る。
「起きんの。今日の晩飯カレーだろ?」
東家のキッチンから漂う匂い。
市販のルーに一手間加えたお手伝いさんのカレーは昔から好きな味だ。
良い日に家出をしてきたものだ。
「カレーって美味いよねぇ」
「美味くないカレーって、……あんの?」
「わかんない。じゃあ今度皆でカレー作ってみようよ。カレーパーティ―みたいなやつ。にっしーとかやたらお洒落なの作ってきそうじゃない?」
材料は持ち寄って、味付けはそれぞれ分かんないようにして。
明確なプランを立てていく東だったが、それは一人一つずつ鍋が必要ということだろうか。
カレーは好きだが、そこまでカレー尽くしも飽きが来る。
もっと他のことにも気を回そうぜ。
「みなみ?」
そういえば、家出したということを母に伝えるのを忘れていた。
姉は悪くない、ということを言いたかったことも忘れていた。
父の発言には未だにカチンと来るが、そこには姉を想ってのなにかがあったのだろう。
なんせ、南風原の親なのだ。
彼の性格の半分以上は、彼から譲り受けたもので出来ている。
言いたいことは山ほどあるのに、声になるのは「あ〜」とか「うぅ」とか掠れたものばかり。
意識よりも先に身体の方が眠りにつこうとしていた。
「寝ればいいのに」
ふは、と。
柔らかく笑う気配。
眉間の辺りを擽るように撫でられ、とろとろと訪れる眠気に拍車がかかる。
「……ぁ、めろ」
小さく示した抵抗。
ゆるゆると伸ばした丸い爪が東の手首を柔く掻き、力尽きたように腹の上に落ちる。
眠りの淵へと落ちる間際、ぽつりと落とされる言葉が鼓膜を揺する。
「今日は夜更かしできるね」
まるで遊びに来たことを喜ぶみたいな口振り。
父親に言い負け悔しかった気持ちも。
姉を庇うことが出来なかった自分の弱さも。
世間を知らない己の恥ずかしさも。
その言葉が削り取る。
東の存在がみなみの心を軽くしていった。
本人は、自覚なんてしていないのだろうが。
こうやって、南風原の気持ちを優しくしてくれたことは一度や二度のことではない。
だからこそ、なにかと此処へ来てしまうのだ。
ここが南風原の逃げ場なのだ。
このまま目を閉じれば。
目を覚ました時にはすっきりした気分で起きられるだろう。
そしたら、姉に連絡を入れよう。
母に東の家に泊まることを伝えておこう。
だから、今は少しだけ眠ることを許してほしい。
目を覆う掌の温度が心地好い。
鼻歌交じりに聞こえるゆりかごの歌が、泣きたくなるほど優しかった。
男の硬い膝の上。
肩の上に、暖かな毛布の感触を感じながら、元気を蓄えるため眠りの淵へと落ちていく。
誰も知らないヒーローの膝の上で、今しばらくの充電を――
end
PREV | TOP | NEXT