これから始まる
夏が迫る、夕暮れの放課後。
夕方といえど日向に出ればじっとりと背中に汗を掻く。そんな季節。
ベテラン方が授業で使った品々を「新人は片付けながら書類の場所を把握しなさい」とそれらしい理由を付けて押し付けられた仕事。
めんどくさい、と顔に出そうなのを歯切れの良い返事で誤魔化して西に東にと校舎を奔走。
途中で別の仕事を拾い、片付けと繰り返し、なんとか最後の目的地に着く頃にはやる気なんてものはとっくに減退していた。
社会に出て一年目。
慣れる、なんてことはまったくなくて、常にチョークを握りながら手に汗を掻いてる。
新人だから、と甘やかされることもなく、ちょっとのミスでも白い目で見られ、難しい顔をされ、生徒には軽口を叩かれる。そんな毎日。
少しずつ、少しずつ自分を否定される日々は、否定されただけ己を卑屈にさせた。
正直、子どもは好きじゃない。
教師なんて、なりたくてなったわけじゃない。
なにをしたくてこの道を選んだのか。
あっという間に薄れてしまったその熱は、いったいどこに消えたのだろう。
たまたま入った学部で、取れるだけ資格を取って、運よく就職口を見つけた結果がこれ。
部活にばかり打ち込んで、それ以外のことを疎かにしていたツケが、大人になった今、回ってきた。
やる気なんてない。遣り甲斐なんて感じない。
それが、相手には透けて見えるのか。
新米教師の周囲には敵が多かった。それには八津自身、自覚があった。
仕事に身が入らない状態でいくら明日の準備を整えていても終わることはない。
書きだすことだけは簡単だが、皆が均等に理解するわけではない。
受け持つクラスは少ないが「全員に」「わかりやすく」教えることの難しさを、この二ヵ月で嫌というほど思い知った。
これ以上は埒が明かない。
気分転換に飲み物でも買ってこよう。
そう判断して、数学準備室を出て人気のない廊下を歩く。
既に生徒の殆どが下校、乃至部活へと向かった教室棟は静けさに満ちていた。
遠くから聞こえてくる楽器の音や、生徒の笑い声、掛け声がその静けさをより一層際立たせ、卑屈な気持ちをより一層強くした。
母校とはまったく違う造りだが、夕日の差し込む教室はどことなく似ているようにも思える。
野球がしたい。部活がしたい。
なんの覚悟もなかった学生時代に戻りたい。
「先生、ちょっといいですか」
「ん? 授業で分からないとこでもあった?」
背後から声を掛けられ、肩が跳ねる。
そろそろと振り返れば、見覚えのある生徒がひとり。
数少ない受け持ちの一年生の女子生徒だった。
最近の子には珍しい、清楚で勤勉な子という印象がある。
予習や復習を丁寧に行ってきて、授業後も納得するまで聞きに来る。
八津の中では一番印象に残っている生徒だった。
今日も教えて欲しいことがあるのだろうか。
愛用のボールペンを取り出そうと胸に手を運ぶも、その指先は空ぶり。
準備室の机に投げてきたのを思い出し、せめて解説できるようにと近場の教室に足を向ける。
今日はどの問題、と背中を向けたその瞬間。
背後から、四つの音がぶつけられた。
すきです。
その四文字を。
一瞬、我が耳を疑って、振り返った先の赤い顔を見て後悔する。
面倒くさい、そんな言葉が脳裏を過った。
女子高生にモテる、なんて高校教師になる際に、一度は夢見た状況だけど。
この時点で感じたのは嬉しさよりも、どう返せば悪者にならずに済むかということだった。
「……気持ちは嬉しいんだけどさ、」
暫しの沈黙の後にやっと告げたのは月並みな台詞。
真っ赤な顔をして震える年下の子に対して。
少女漫画の脇役みたいな、ありふれた一言で彼女の勇気を引き裂いた。
ぶったぎった告白への返答に、感情を堪えて逃げ去った彼女の後ろ姿を眺めながら、そういえば今日は教材のひとつも持っていなかったことに気がついた。
こんな時間まで、告白するためだけに待っていてくれたのだろうか。
約束もしていないのに。健気な子なんだな、と思いながらも彼女のフルネームすら言えない自分の薄情さに溜息が出る。
ほら見ろ、こんなやる気のない教師なのだ。
明日からはきっと来てくれないだろうな、と予想しつつもきっとすぐに忘れるだろう。
そんなことも想う。
どうせ自分は彼らの青春を彩るだけの存在にすぎない。
たぶん、三か月もすればその恋心すらなかったことにされるんだから。
やり場のなくなった「教師の顔」を引き剥がすと、疲れ切った溜息をひとつ口の端から抜けていく。
教卓に腰を掛け、チョークの粉が残る黒板のフチをぼんやりと眺める。
ますます卑屈になっていく自分がどうしようもない。
頭を抱えそうになった瞬間。不意に視線を感じた。
ちりちりと送られてくるその視線を辿り、真横へと滑らせる。
閉じていた筈の教室の扉が僅かながらに開いていた。
その間から見える、こちらを窺う四つの目。
「うわぁ!淫行教師!」
「え〜、ありえなーい!」
静かな廊下に響くその声。
ギャーと声を挙げ、逃げ出そうとする二人を咄嗟に捕まえる。
教室に押し込む。
戸を閉める。
流れるような動作だった。
「あじゅま、逃げろ! ケツの穴しっかり引き締めて走るぞ!」
「やだ、切れちゃう!」
「なんも、そんなたいした大きさじゃねえって!」
「ふざけんな、平均以上はあるって!」
「何を持ってして平均と言い切るのか」
「その自信はどこにあるんだろうね」
それだけを言い置いて再び脱走を試みる二人の襟首を捕まえ、教卓前の二つの席に座らせる。
本気で逃げるつもりはなかったらしく、あっさりとその場に留まる彼らはからかうような笑みを湛えてこちらを見上げていた。
「なんてことを言ってくれてるんだお前ら!」
「いやだなぁ、ちょっとした冗談じゃないですか」
その冗談で、始まったばかりの教師人生が終わるところだったというのに。
一年生の証であるシューズの色。
赤みの強い茶髪。
陽光を溶かした金髪。
クラスを受け持ってはいなかったが、その顔には覚えがある。
アズマ ソウタとハエバラ ミズキ。
職員室で早くも話題となっている生徒たちだ。
どのクラスにも目立つ生徒はいるもので、良くも悪くも人を引き付けるのが上手い彼らは、グループの中心にいて、クラス運営を行うための鍵となる人物だ。
そこまで手を焼くような問題児ではないものの、たまの悪戯に対する発言が目立つ。
特に新任教師である八津は話しかけやすいのか、こうやって無意味にからかってくることもしばしば。
元々体育会系の出であるためか、年下に舐めた態度を取られるのは面白くはない。
けれど「年上だから」とそれだけで威張ることも好きではなかった。
特に、この年頃の子の扱いが面倒くさいのは、かつての自分を例に例えてもよく分かる。
「……そもそも何しに残ってたんだ、君たちは」
帰りのHRはとっくに終わっていて、部活にも委員会にも所属していない生徒は早々に帰っていてもおかしくない。
頻繁に授業をサボるような問題児ではないものの、学校に残ってまで勉強をするような勤勉な生徒という印象もない。
そんな彼らが、一体なんの用事で、この空き教室にいるのか疑問に思うが、答えはひどく簡単なものだった。
なにか悩んでいることがあるなら早めに担任に相談することを進めると「アンタが相談に乗ってくれんじゃねーんだ」と笑う。
その笑い方が、なんだか妙にぎこちない。
東が心配そうに隣を窺うのは気のせいだろうか。
見て見ぬふりをしようとした。
さっさとコーヒーでも買って戻ろう。
そんなことを思ったのに。気まぐれに沸いた教育心に火が点いたのか気が付けば「どうかしたのか」と彼らを気遣う言葉を掛けていた。
「別に大したことじゃねーよ」
「真中にね、ひどいこと言って落ち込んでんだよね。別にみなみに悪気があったわけじゃないんだけど、」
「おい!」
「でも発散しなきゃ溜るよ」
随分と呑気な口調ではあるものの、少なくとも東は南風原の方を心配しているのだろう。
その真中とどんな衝突の仕方をしたのかは分からないが、謝り損ねでもしたのか。
気に病んでいることをあっさりとバラされた南風原の眉間にくっきりと皺が刻まれる。
「ヤヅ先生に言うようなことじゃねーし」
「別に俺も聞くって言ってねえよ」
「そこは聞けよ!」
「なんだ、君は。天邪鬼だなあ」
言いたくないと言った癖に、否定すると受け入れろと言うのか。
なんて我儘の奴だと、内心煩わしくも思うも「それで?」と次の言葉を促せば、ぽつり、ぽつりと暗い声が感情を漏らしていく。
友人を思ってのことなのだろう。
話の順序に少々ばらつきはあるが、彼が言いたいことは分かりやすい。
徐々に感情的になる頃には、友人を大切にする気持ちが南風原を熱くしていった。
「別にさ、真中が悪いってわけじゃねーんだけど。なんか悔しいじゃん、対して仲が良いわけでもねえのに、あいつら真中に頼ってばっかでさ! 頼るって言うかあれじゃ利用って感じだしさ。便利屋じゃねーんだぞ! ってその横っ面ぶん殴ってやりてぇ!」
「そのせいでオレたちに構ってくれないの、つまんないよね」
どうやら、その真中の交友関係に文句があるらしい。
彼らの言葉をまとめれば、誰にでも優しい真中とそれを利用する周囲への不満が爆発したのだろう。
「あ〜! でもおれもなんであそこでああ言っちゃったかな〜」
そして、自分自身にも。
頭を抱えて人気のない廊下に蹲った南風原に対し、東は眉尻を下げる。
「あ、違うよ。真中さんは見返りを求めてやってるんじゃなくて、流されやすかったりするだけで」
「まあ、聞きようによっては八方美人ってとこか」
「……なんか他の奴に言われると腹立つ」
仲の良い友人を他人から貶されるというのは腹が立つ。
それだけ、南風原たちと真中たちの間には確かな情があるのだろう。
「仲良いんだな、お前ら」
「中学から一緒だからね」
「そんで、高校に上がったら他の奴に取られて寂しいと」
「まぁ、そんなとこ」
むっつりと黙り込む南風原とは対照的にあっさりと口を割る東。
面倒な生徒という印象が強かったが、見た目とことなり離しやすい人物のようだ。
「……よし、あじゅま。教室戻るぞ」
しばらく東と二人、他愛もない会話を続けていると蹲っていた南風原が顔をあげる。
ぺちり、と両方を叩いて気合を入れた彼が、立ち上がる。
その顔に、不機嫌な様子も不満の色も見えない。
決意の表情を浮かべた彼に、隣に立つ東は「今から?」と首を傾げる。
「忘れ物でもした?」
「おれもあの子見習って告白して来ようと思って」
「え!? みぃってば、好きな子いたの? はっち?」
「ちげーよ、なんでおれがはっちに告白すんだよ! 真中に謝ってくるって言ってんの」
南風原が言う「あの子」が先程告白してくれた子を指すのだとしたら、もしかして「はっち」というのは自分のことだろうか。
ぎゃいぎゃいと言い合う彼らに苦笑しながら、どうやら南風原は勇気を出して踏み出すらしい。
自分で出した答え。
八津が何をしなくても、彼らは自分で答えを出してしまった。
「うじうじ言ってても仕方ねーし、取り敢えず言ってスッキリしておこう」
さらりと言ってのけるものの、誰も彼もがこんなことを言えるわけじゃない。
人を認めることは否定することよりもずっと難しい。
自分の非を認めることは、それよりも更に難しい。
もしかしたら、自分は七つも年下の彼らより未熟な人間なのかもしれない。
「……お前らかっこいいな」
そんな言葉が、自然と零れた。
突然の八津の発言に顔を見合わせた二人は、口元をにんまりと歪め、
「だろ?」
「でしょ?」
自信満々。声を重ねて言葉を紡ぐ。
「じゃあね、はっち!」
「また明日ね〜」
この瞬間、少年が一人、羽化した。
まだまだ不完全ではあるけれど。
素直に変わっていける彼らが、無性に羨ましく思えた。
七年前の「八津将弘」は、野球に一生懸命な少年だった。
だが、友人に対してあんな全力でぶつかりあおうとしていただろうか。
部活にしか打ち込んでこなかった。
一時は本気でプロも目指した。
その道を絶たれてから、ずっと不貞腐れていたけれど。
どうして教師の道を選んだのか。
「資格が取れたから」
そんな単純で無責任な理由だったかもしれない。
もう少しこの道に、教師というものに真剣に向き合ってみよう、と思わされた。
あいつらみてぇになりたいな、と教師の癖に生徒に教えられた。
恥ずかしい話ではあるけれど。
「……しろさんとこ、行こうかな」
同じ一年生。
ちょっと頑張ってみよう、と伸びを一つ。
年上の友人に、彼らの話をしてみよう。
彼らの友情が更に良いものになれば良いと、胸の奥で小さく願い残りの仕事を終えるべく準備室へと向かう。
自分の内側のなにかが変わった。
コーヒーは買わずとも、気分転換にはなった。
鬱屈とした気持ちは、どこかへ行った。
慣れない仕事、不慣れな仕事へと向かう足取りは、どこか軽かった。
end
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