命題、これは恋である




 四時間目が終了の鐘と共に、一斉に安堵の溜息が重なった。
 高校に入って初めての期末テスト。
 中間の時より格段に広がった範囲。
 中学の時より数段上がった難易度。
 それだけでも悲鳴を上げるには十分だ。

 苦手な公式を一気に詰め込んだせいで、疲れ果てた頭はもう何も考えたくない。何も考えられない。
 椅子から立ち上がることすらも億劫だ。
 
 机の上に置いたシャーペンや消しゴムを仕舞うことすら面倒に思える。
 机の上に突っ伏して、ただただ急激に襲ってくる睡魔に堪える。

「あれ、たっきーどこ行くの?」
「ん〜、ちょっと野暮用」
「……彼女か」
「……え〜、まぁ、いいじゃないの、そういうことは」
「お前、彼女か! 彼女なんだな!」
 
 クラスの後ろの方で、テストからの解放感に喜ぶ友人たちのはしゃぐ声。
 たしか、テスト休みに入る前。
 部活に行こうとする彼を呼び止める女の子がいたのを思い出す。
 テスト勉強でそれどころではなかったが、どうやらあれは告白で、二人はめでたく付き合うことになったのだろう。

「なぁに、滝田さんてば、おれらを捨てて女のとこに行くって言うんですか! へー、ほー、ふぅ〜ん?」
「なんでそんな拗ねてんだよ」
「べっつにー、拗ねてません〜。僻んでもいませんけどぉ」
「ねぇ、みなみ。たっきーの彼女見に行こうよ」
「そうだな、折角だから拝んでおくか!ミズキより良い女じゃなかったら承知しないんだから!」
「来んなよ」

 見せもんじゃないから! と、拒否する滝田と共に教室を出て行った南風原と東はそのまま噂の彼女の元へと直行する。
 遠ざかっていく三人分の声の中に「真中、こいつらどうにかして!」と応援を求めるものもあった気がするが、今の真中は動けそうにもなかった。ごめん、滝田。でも、幸せだからいいよね。
 心の中で謝罪と言い訳をしながら、彼らが出て行った扉に視線を送る。

 正面から背後の扉までの百八十度、右に旋回。
 既に三人の姿はなかったが、別の友人の姿を見つけた。
 真中の席から右に一つ。
 後に二つ離れた席。
 文庫本に視線を落とす仁科の姿が視界に入った。

 駅前の本屋のカバーが掛けられたその本の中身は、最近彼が嵌っていると言っていた作家のものかもしれない。
 どんなタイトルなのか。
 どんな内容なのかを尋ねたい。
 テストの手応えも聞いてみたいし、さっき分からなかった問題の解き方も教えてくれないだろうか。
 しかしどんなに視線を注いでも、本の中に意識を落としている彼が気付くことはない。
 それどころか近寄りがたい雰囲気を纏っていて、到底声を掛けられそうにない。
 それでも絵になるとか、かっこいいとか、そんな単語が浮かぶのは一度懐に、心の深いところに招き入れてしまったからなのか。
 果たしてそれは、友人に向ける物に適しているのか。
 憧れとか崇拝とか、そういうものに近い気もする。
 でも、そうとも言い切れない。
 自分の感情なのに、それに対するラベル張りが難しいのはテスト明けで頭がパンクしてのことなのだろう。
 理解したことは、自分の語彙のなさ。
 それを自覚しながらも、視線はただただ、本の虫となった友人に注がれていた――のだが、

「なぁ、真中。ちょっといい?」

 その視線の糸はあっけなく切られた。
 ぷっつりと、人の身体によって。

「……なにが?」

 わざわざ人の視界にまで入ってきた友人は、寝不足の真中とは対照的に大きな笑みを湛え此方を見下ろす。
 せっかくの至福の時間を邪魔されたせいか、思わず言葉に棘があるのを自覚した。
 誰かに読み取られるような、そんな大きな棘ではなかったけれど、今までの真中からすれば、かつてないほど攻撃的だった。


「今日の掃除当番、代わってほしくてさ」
「……それはいいけど、何で?」
「実は今日、初デートでさ」

 以前、同じ中学の出身だからと恋愛相談を持ち掛けられ、不器用ながらも答えていたが、真中の応援の甲斐あってか、見事お付き合いにまで発展したらしい。

「へぇ、良かったね」

 そんなのしらねーよ、とバッサリ切ってやりたかったがさすがにそれを言うには良心が痛んだ。
 そうなんだよ、と至極幸せそうに笑う彼を突き放す勇気は、やはり真中にはないのだ。 

「あらやだ、そうやって真中さんに嫌な仕事押し付ける気なのかしら」
「うっ、わ……!」
「えぇ〜。ソウコね、ちゃあんと自分のお仕事する人が好きぃ」

 目の前にいた友人に、密かに伸びてきた二つの手が首に絡み、肩を組む。
 現れたのは滝田の彼女を見に行っていた筈の東と南風原。

「安心しろよ、心も体もぴっかぴかにして迎えに行ってやるからよ」
「きゃあ! ミズキさん素敵!抱いて!」
「おう、無駄毛の処理でもしてろよ、ベイビー」
「いやあ、ソウコはいつもツルツルよぉ」
「なに、何なんだよ、お前ら! 気色悪い!滝田の彼女見てくるんじゃなかったのかよ!」
「あー、それね。二人の世界作ってたから、ちょっと冷やかして帰ってきたんだよね」
「そうよ、人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死ぬって言うじゃない?」

 変わらずオカマ口調を続ける南風原にその口調気持ちわりぃ、と彼は言うが、おそらく幸せなカップルにあてられてきたのだろう。
 どちらも裏声と女性らしいシナをつくり、気持ち悪いくらいに絡んでいく。

「掃除当番ならおれが変わるわ。お前んとこの班に荻窪いんべ? おれ、あいつにゲーム返して貰いてーからさ」
「あぁ、じゃあ頼むわ」

 交渉は早々に成立し、早々に席に戻って行くクラスメイト。
 南風原に頼んだは良いが礼の一言もない姿に少々むっとする。
 とても些細なことだ。現に、掃除を請け負った南風原は気にも留めていない。
 引き受けたわけでもない自分がとやかく言うのは違う事も知ってはいる。
 きっと寝不足だからと、内側に溜めた不満を人知れず鎮める。

「ただいま〜。あいら、帰りどっか寄る?」
「さあ、真中たちにも聞いてみないと」

 滝田と仁科の声。
 穏やかな彼の声に、不意に下降していた気分が急上昇。

「あれ、真中? ちょっと機嫌悪い?」
「腹でもいてぇの?」

と、
更に二つの声。
 付き合いが長いだけあって、彼らの勘は真中の心を無作為に探って来る。

「そんなんじゃないよ、ただ、」

 俺も、デートがしたい。
 
「……誰と?」
「なにが?」

 続く言葉に、自問自答。
 そこに思い当たる人物は、ただ一人。
 ぎりぎり、友達の枠に引っかかっている、あの人。

「うわ、……うわぁ」

 想像したら止まらない。
 デートに喜ぶ自分と、彼の姿。
 いつものように買い物したり、買い食いしたり、ただ喋るだけでも良い。
 急な恥ずかしさに襲われて、じわじわと熱が昇ってくるのがわかる。
 今、きっと自分の顔は赤いはず。

「真中?」
「どうした?」
「……どうしよう、」

 ちらりと視線を送る。
 さっきはまったく気付かなかった癖に、滝田と話しているせいかこちらの視線にも気付いたらしい。
 目が会う寸前で前を向き、机に突っ伏す。
 どうして、今更気付くんだよ! と罵りながら、心配そうにこちらを窺う二人の友人に泣きごとを漏らす。

「欲望がとまんない」

 早鐘のような自分の心音を聞きながら絞り出した一言に、ふたりの爆笑が重なる。
 本当に困ってんのに! と、思っても一度隠した顔は、担任がくるまで上げられないままだった。


 
end


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