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学生の本分は勉強だと大人たちは口々に言う。
だが在学している彼らからすれば学業なんてただのおまけでしかない。
合間の時間にどれだけ遊べるか。
どんな会話をして、馬鹿をやって大人に怒られるのも良い。
部活に入って汗を流すことも青春だ。
彼女を作って甘酸っぱい思い出を作るのも最高。
そんな中、南風原と東は友人たちと遊ぶことに青春を捧げていた。
恋愛面に興味がないと言ったら嘘になるが、それよりも今は新しく出来た友人たちと遊ぶことの方が楽しいのだ。
「真中ぁ、今日委員会だろ? おれら待ってるから、帰りどっかよろーぜ」
「買い物して行こうよ」
真中の背中に圧し掛かり、今しがた思いついた放課後プランを口にする。
しかし、南風原の下敷きになった彼が返す言葉は、
「あ、ごめん。今日は一緒に帰れないわ」
ノー、だった。
一緒に帰る約束をしているわけではない。
中学から帰る方向が一緒だからと三人並んで帰ることが当たり前になっていて、それが今も続いているだけだった。
とはいえ、最近は真中が忙しくしているせいか、高校に入ってからは数えるほどしか一緒に帰れていない。
だからこそ、今日こそは一緒に帰ろうとしていたのだろう。
誰かが真中へ頼みごとをするよりも前に、予定を取り付けてしまおうとしていたのだが。
そんな二人の労力は報われず、今日も真中は多忙を極めていた。
「……なんで」
不満な態度を隠そうともしない南風原は眉間に深々と皺を刻みながらその背中から離れていく。
そんな彼を見上げながら真中も申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ほら、グループ発表あるだろ。情報の。その準備が終わってなくてさ」
「真中の担当分は終わってるんじゃなかった?」
「他の奴らがまだなんでしょ」
仁科の言う通り、真中の残りの班員は未だに終わりを見せていないのだ。
「なんだそれ。だったらそいつらが必死こいてやればいーだけの話だろ」
なんで真中が巻き込まれなくちゃなんねーんだ、と声高に叫ぶ南風原に周囲にいた生徒たちも表情を曇らせる。
非難めいた言葉が、視線が、此方に集中している気がする。
チクチクと肌を刺すような視線が肌を刺し、なんだか居心地が悪い。
「まあ、そうもいかないのが連帯責任だからね」
「えー、じゃあ、今日も帰れないのかよ」
少なくとも滝田は真中の意見を汲んでくれるらしい。
頑張れよ、とばかりに労わるような掌が肩の上に乗る。
それでも尚、引く気になれない東たちを仁科と共に宥めながら「早く委員会行きな」という声に背中を押される。
「チッ、つっまんねぇの」
擦れ違いざま聞こえた声。
おそらく独り言だったのだろう。
地を這うような、南風原の攻撃的な一言。
心臓がどきりとして、その一瞬で掌に冷たい汗を掻く。
緊張とも恐怖とも言い難い。けれど、周囲の視線なんかを気にならなくなるくらいの感情がふつふつと沸き起こる。
後ろ髪を引かれる想いで教室を後にした。
その間際、背後を振り向くも背中を向けているせいで南風原の表情を見ることは敵わなかった。
図書委員の仕事といっても図書の整理と貸借の管理くらいでそれ以外は暇なもの。
同じく本日ペアを組む先輩も、カウンターの内側でうとうとと船を漕ぎながら夢の世界と現実とを行き来している。
本を借りていく人も極稀で、定時の時間よりも早く閉めることが出来そうだ。
カウンターの内側で宿題を広げながら思うのは、やはり先程の南風原の一言で。
本人に悪気はなかったのかもしれないが、真中にとってはそうではない。
喉に刺さった小骨のように、胸の柔らかいところに突き刺さって抜けない。
嫌われたりしたらどうしよう。
いつもはニカッと笑う彼の目が、明日の朝には氷河よりも冷たくなっていたら。そう考えるだけでぞっとする。
「真中。もう殆ど人いないし、今日は先帰っていいよ」
「良いんですか」
「うん、俺、ちょっと人待ちしてるし。どうせ暇だからさ」
ようやく眠りの世界から帰還した先輩は、人の良い笑顔を浮かべて早く行けと手を払う。
待っているという人は、自分がいては迷惑する相手なのだろうか。
少しだけ下世話な想いを抱きながらも、せっかくの親切を無駄にするのも失礼だ。礼を言ってから、勉強道具をまとめて図書室を出た。
それでもまだ、やることは山積みだ。
図書室から寄り道することなく教室へ戻る。
真中が図書当番をしている間、同じ班員の面々が資料を集めてくれているはずだったのだが。
扉を開けたその先には、同じグループの猪股、ただ一人。
「あれ、猪股さんだけ?」
「うん。みんなは部活だって言ってたけど」
「そっか」
無理にとは言っていなかったが、このままで来週の発表に間に合うのか。一抹の不安を感じつつもいない人間を責めるわけにはいかない。
以前、図書室から借りてきた分厚い資料を開きながら、関連した文章を抜き出しては集めていく。
「あの、真中くん。すごく言い辛いんだけど、」
「どうかしたの?」
「もうすぐ塾の時間で……」
委員会を早めに切り上げてきた真中にそれを告げるのは心苦しいのだろう。困り顔の彼女の声は次第に小さくなり、俯いていく。
資料集めはあまり進んではいなかったが、無理に引き留めるのも気が引ける。
その結果、出した答えは彼女の下校を促すもの。
「俺ももうちょっとやったら終わるから。いいよ、先に帰りなよ」
「ありがとう。ごめんね」
困った顔を見合わせながら、互いに手を振る。
ぎりぎりまで残っていてくれたのだろう。ぱたぱたと忙しく足音を立てて遠ざかる小さな背中を眺めながら、一向に終わる気配のない課題の面々に静かに頭を抱えた。
やるべきことはこれだけではない。
資料を調べたらまとめなければいけない。
その後は分かりやすくレポート形式でまとめて発表まで行わなければならないのだ。
たった一人でやり終えるほど器用ではないし、これに関しては南風原たちに頼ることも気が引けた。
めんどくさい。
投げ出したい。
そんな気持ちが頭の片隅を過ったが、そんなことをすれば批難されることが目に見えて分かっている。
そのことの方がよっぽど面倒くさかった。
「はぁ、」
不意に零れた重い溜息は、真中の心情の全てだった。
なかなか頭の中に入ってこない文章を読み進めながら、付箋を貼って、また別な本に手を付ける。
焦る気持ちだけはあるが、作業の効率は一向に上がる気配はない。
ただでさえ集中を欠いている状態に加えて、妨害するようになった携帯の着信。最初は無視を決め込んでいたが、立て続けになるものだから、気になって仕方がない。
急な用でも入ったのかと開けば、昨日の恋愛相談の答えが出ていないといった内容のものだった。
一方的に語られる、惚気とも取れる言葉の数々に「一人でやってろ」と荒んだ気持ちが現れる。
投げつけるように床に置いたカバンの上に放って読みかけていた資料に視線を落とす。
「荒れてるねぇ」
そんな心の内を見透かすような声。
きっと、一連の行動を見ていたからであろう。
落ち着いた声が、此方の神経を逆撫でする。
「みんなでやるんじゃなかったの?」
随分前に帰った筈の仁科が、廊下から続く窓から此方を覗いていた。
「みんな、忙しいみたいで」
「じゃあ帰ろうよ。真中の作業分はとっくに終わってるんでしょ」
仁科こそ、とっくに帰っている筈ではなかったのか。
そんな疑問が頭に浮かんだが、そんな言葉を口にする暇もなく、教室に足を踏み入れてきた彼は、真中の机の前まで来ると積み上がっていた本の一冊を手に取り、無造作に捲り出す。
「なんで放課後にやろうって思ったの?」
「いや、だって」
「部活や塾があるのって最初から分かってたことだよね。それが出来ないなら授業の合間とか昼休みとか、家に持ち帰れば出来ることでしょ。これ、持ち出し禁止の本ってわけでもないんだし」
「そう、だけど」
「真中だけが割を食ってるようにしか思えないんだけど」
時間を上手く使えと、そう言いたいのだろう。
仁科の物言いはきつくはあるが、正論ではあると思う。
ただ、それを真中に言われたところで何かが解決するというわけでもない。
「仁科の言う通りだと思うけど。でも、みんな忙しいんだよ。俺は帰宅部だから、こういうのには慣れてるし」
「は?」
目の前の顔が険しいものになる。
声のトーンが少し下がる。
その瞬間、心臓が大きく跳ねたのが。身体の真ん中が掴まれたようにぎゅっと縮こまったのが自分でも分かった。
「何言ってんの? 真中が一番忙しいくせに」
理解できない。
または、心底呆れた。
そんな表情で真中を見下ろす仁科からは普段の優等生な一面なんてまるでない。
完全に怯んでしまった真中は、作業する手を止めて、眼鏡の奥の二つの目に映る感情を窺う。
「頼まれてもいないのに人の手伝いして、委員会行って、相談にも乗って。ストーカーにまで付き纏われて、更に勉強もしてって十分忙しい範囲だろ?」
自分の何を知っているんだと、言ってやりたかったが思いの外真中の作業量を把握していたらしい。
「そんなん別に、」
「たいしたことじゃないって?」
奪われた言葉は、間を置くことなく否定の言葉へと続く。
「でもそのたいしたことのないことで、みなみに『つまんない』って言われてりゃ世話ないね。傷ついてるくせに」
指摘された言葉はまだ塞ぎ切ってない傷を抉るように刺さる。
図星だ。
図星だからこそ何も言わない。言えない。
それが肯定だと捉えられているのだとしても、言い返す言葉が見つからなかった。
「人に優しいのは良いことなんだろうけどさ。それで身を滅ぼすってこともあるんだよ。それに気付きなよ。真中はさ、自分が思ってるほど器用な人間じゃないよ」
「……う、るさいな」
言葉はナイフだ。
俯いて聞いている間、そんな言葉を思い出す。
客観的に見て、真中のやっていることは無駄なことかもしれない。お節介かもしれない。
それでもこちらにだって、言い分だってある。
誰かが声を荒げたり、言い合うことが苦手だ。
それが友情の範囲であっても、ぎすぎすとした空気に胃を締め付けられる気がする。
自分の発言で、行動で、少しでも穏やかな空気になるのならそれに越したことはない。
褒められたい、評価されたいという気持ちも少なからずある。
だからこそ、少し無理をしてでも自分が過ごしやすい緩急を作っていたつもりだったのだ。今、この瞬間まで。
だがその行動も、自分で思っている以上にストレスを溜めこんでいたらしい。
パンクしそうなほどに押し込んでいた物が、仁科の言葉の数々に、はち切れそうだ。
「放って置けばいいだろ!」
はち切れて、しまった。
「別に、好きでやってんだからいいじゃん。それで仁科に迷惑かけた? それで俺が何か押し付けたりしたか? ただ一人でやろうとしてるだけだろ。それで仁科が嫌な思いをしてるわけじゃないんだから、俺のことなんて放っておけばいいだろ」
本の上で握った拳のせいで、薄い紙に皺が寄る。
たった二人しかいない教室に険悪なムードが漂うが、対峙する仁科はどこ吹く風。
何を言ってもそんな態度を取る奴なのだ、仁科という奴は。
ならば知ったことかと、思いつく限りの言葉を並べていった。次第に力が入り、語尾も言葉もめちゃくちゃだったが、それらを浴びせられた男は、ひどく涼しい顔で「なんで一人ですんの?」と。ひどく冷静な口調で疑問点を指摘する。
「なんでそういう答えになるかな。…まあ、俺の言い方も悪かったんだろうけど」
呆れ混じりの溜息と共に眼鏡を押し上げ、彼は言う。
「そうじゃなくてさぁ。俺らのこと、もっと頼れって言いたかったんだけど」
机の上に並べられた資料のひとつを手に取りながら、意外にも穏やかな声が続く。
無造作に紙を捲る音も重なって、そこだけ切り取ったように空気が穏やかだ。
「真中の誰かのために頑張ろうって姿勢は良いことだと思うんだけど。自分を押し殺してまでする必要ないんじゃないかなって思うわけ。誰かの意見に合わせなくていいんだよ。頼まれたら必ずしも頷く必要もないし、余裕がないなら引き留めても良いし手伝ってって誰かに言えばいいじゃん。そうじゃないとさ、自分に優しくしてくれる人に優しくできなくなるよ?」
真中は人の意見を受け入れるから。だから言うよ。
最後にそんな言葉を添えて彼は視線を上げる。
眼鏡の奥で目じりが優しく歪む。
そうして届いた言葉は随分と優しいもので、心の柔らかいところに沁みていく気がして、俯いた。
ほんの一瞬とはいえ、敵対心を剥き出しにしてしまったことが恥ずかしい。でも、嬉しい。
あと一言、優しい言葉を向けられたら泣いてしまいそうなほどに。
「真中のそれで助かる人は多いのは確かだけどね。要は配分の問題だよ」
自分のしていることは間違いじゃない。
きっと、無駄じゃない。
でも、パンクしそうなことに気付いてくる人がいたことがなんだか嬉しくて堪らない。
「……優しくしてくれる人って?」
「その筆頭が俺」
「嘘つけよ」
お前なんかやさしくなんてないよと、思わず笑う。
仁科吾平という少年は、見た目以上に、成績以上に頭の良い奴なのだろう。
先の言葉から人間観察に優れていることはわかる。
人の気持ちを汲むことに長けているのだろう。
きっと場の空気を読んで必要な言葉を与えることも奪うことすらできるのだろう。
優しくもなれるが、きっと鬼にもなれる。
「なんで? 俺ほど優しい人間はいないよ。まぁ、あとはみなみとか東ね。ついでにたっきーも」
ねえ、そうでしょ。
そう続いた言葉に応じたのは真中ではなく、
「にっしー、話が長ぇよ!」
「俺はついでかよ」
「……」
教室の後ろ側の扉が勢いよく開き現れた人影は三つ。
聞き慣れた声の主は、随分前に帰った筈の友人たちのものだった。
賑やかに現れた東や滝田とは対照的に、その後ろに控えていた南風原はむっつりと唇を引き結んだまま。不機嫌を前面に押し出す彼は一言も発しないまま真中の隣に立つ。
喧嘩したというわけではないのだが、先程の仁科の時とはまた別の緊張感が走る。
「……ちがうからな」
そんな気まずい沈黙を破ったのは、南風原の方だった。
「さっきのは言葉の綾っつーか。真中がつまんねぇとかじゃねえから。一緒に帰りたかっただけで」
「そうだよ、せっかく同じ高校に入ったのに全然遊べてないじゃん」
「だってよ、母さん」
「母さん?!」
南風原の言葉に東の甘ったれた台詞が重なる。
そんな三人に掛けた滝田の言葉は聞き流せるものではなく。思わず突っ込む。
「だってさ、こいつら意地でも真中と帰るって聞かないんだよ。子どもじゃん」
「おい、たっきー! 言うなよ!」
「嫌だよ、こんな手の掛かる息子産んだ覚えないよ」
「そんな! 認知してよ、真中さん」
「しません」
「ひでぇな!」
さっきまでの気まずい空気もあっという間に消え去って、胸に刺さった棘もすっかり抜け落ちてしまった。
「高1で二人の子持ちとは、苦労するね」
まるで「自分は関係ありません」とでもいうようなスタンスをとる仁科を見上げ、「だったら」と切り出す。
目の前にはグループ発表用の資料の数々。
四方には気が置けない友人たち。
「だったらこれ手伝ってよ。俺の苦労を分け合おうよ」
精一杯の、真中なりの弱さを見せたつもりだったのだが、
「やだ」
「忙しいからダメ」
南風原と仁科からの返事はノー。
せっかくいい感じの雰囲気だったのにと思わず肩を落とす。
「言っとくけど、真中がだよ」
「え?」
しかし、そんな真中を救ってくれたのは意外にも滝田の一言だった。
顔を上げると口元をニヤつかせた四人の姿。
「真中はこれから俺らと買い物だからね」
「もう一時間は無駄にしてんだから、急げよ」
「ねえ、みなみ。ロスタイム枠は設けてあんの?」
「そこはありっしょ」
あれよあれよという間に彼らのペースで事が運ばれる。
机の上に広げていた本はことごとく閉じられ、資料もノートも一纏めにされていく。
「え、ちょっと、ちょっと。待ってよ」
「いいけど、三分だけな。あじゅま、さっさと片付けようぜ」
「あいあーい、ブルドーザー入りまーす」
南風原に制止を求めても、彼の言葉に従って東が軽い口調で閉じていた資料の類いを抱えていく。
細く長い手足にすっぽり収まった本たちは、そのまま教室後ろのロッカーへと向かう。
真中と同じ班の男子生徒の所に押し込む。
「おれらの真中を利用しやがって! 何が部活だ、オメー生物部だべや」
「ほうていで会ったら覚えておきな!」
乱雑に放り込み、乱暴に閉じられたロッカーに向かって罵倒を浴びせる。
すっかりきれいになってしまった机の上と真中を取られた腹癒せをする二人を交互に見やる。
「あいつら、ホントに真中のこと好きな」
「ほんとに子どもみたいだよね」
真中を挟んで漏らす滝田と仁科の言葉に思わず苦笑が漏れる。困ったように笑うのは真中の癖のようなものだが、今回ばかりは違った。
むず痒くて恥ずかしい。
嬉しい気持ちの裏返しだった。
自分のために怒ってくれる友人。
自分のことを想って親切にしてくれる友人。
同じことを共感してくれる友人。
この友人たちこそ、真中が親切にしたい人たちなのだ。
彼らにこそ、嫌われたくなかったのだ。
そういえば、大事なことを見落としていた。
それに気付けたことはとても素敵なことだ。そのことが嬉しくて溜らない。
「真中ぁ、帰ろうぜ」
いいだけ暴れて気が済んだらしい。
東と別の話題で盛り上がり始めた南風原が、ご機嫌な様子で召集する。
慌てて帰り支度を整えて、久々に友人たちと肩を並べての下校だった。
「あ〜。でも明日なんて言おう」
こんな賑やかな面子と肩を並べて帰るのも久々だ。
和やかな気持ちになりながらも、ふと過る不安な事柄に腹がしくりと痛みだす。
今は良いが、明日以降、どうしたものか。
グループ発表の一件は未だに進んでいないのだから。
「なに、発表のやつ?」
「うん」
「そんなん、にっしーのせいにしたら良いんだよ」
「そしたら俺はみなみのせいにするね」
「じゃあ、おれはオメーが何もしねぇからだろって追い詰めるわ。安心しろ、真中のせいじゃねーから」
ニッと意地悪く笑って見せる四人は、不安を寄せ付けない程頼もしい。
それじゃあ、よろしく。
気楽な気持ちで今後の問題を預け、今日の予定を尋ねる。
「で、どこ寄るの?」
「あ、決めてねーわ」
「時間あったんならその辺決めておけよ」
「うるせーな。ミズキもいろいろと立て込んでたんですぅ」
グラウンドから聞こえる運動部の掛け声、遠くから聞こえてくる金管楽器の音。
傾き始めて日を背景に、五人揃って帰る夕刻はいつになく賑やかだ。
「仁科、」
「なに、真中?」
「……ううん、やっぱなんでもないわ」
入学式から二ヵ月。
間もなく梅雨も近づこうというその日は、真中にとって自分を変える最高にいい日だった。
切欠を与えてくれた仁科に対する「ありがとう」を伝えようとするも、なんだかそれは違う気もして飲み込んだ。
その感謝の気持ちが別のものに芽吹くことになるのだが――それはまた別の話。
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