君リミット
授業を終えたばかりの騒がしい教室。
がやがやと人の流れ激しい教室内で、今しがた出て行ったばかりの担任が思い出したように顔を出す。
「おーい、今日の日直誰だっけ?」
「荻窪と鹿嶋でーす」
「地理の三輪先生が地図とノート取りに来いって言ってたぞ」
朝から顔を合わせていたのだから、その時点で教えてくれればいいものを。
そんな不満を漏らす日直の一人は、面倒くさいとばかりに立ち上がる。教室を見回しても荻窪の姿はない。
授業が終わると同時に教室を飛び出して行った彼が戻ってくる可能性は低い。
なんせ、クラス一の面倒くさがり屋だ。
それを回避するためなら多少の苦労は厭わない、と変なところで矛盾を見せる少年だ。
「私一人に取りに行けと?」
「私、手伝おうか」
「大丈夫、沙織は次の準備してていいよ。その代わり、荻窪の野郎が来たら今すぐ手伝えって伝えて」
運動部らしい、と言えば偏見になるがさっぱりとした口調で友人の申し出を断った彼女は颯爽と職員室を目指す。
しゃんと背を伸ばし、きびきびとした姿勢で歩く彼女の後姿をクラスの半数が見送っていた。
「やべーな、鹿子。男前だわぁ」
「それだから沙織ちゃんが他の男に靡くはずないんだよねぇ」
教室の後ろの席でそれを眺めていた南風原と東は、感心したように鹿子もとい鹿嶋陽子に讃辞の言葉を送る。
「あじゅまより頼れそうだよね」
「しつれーな! 見ろよ、この筋肉を」
「うわ、非力」
ぺろりと捲られた制服の下から「貧弱」という言葉が似合う肉体が現れ、南風原に留まらず周囲の失笑を買う。
中学三年間、サッカー部に所属していたというのに、盾に縦にばかり伸びた体だ。
もはやお決まりとなってきた仁科のあじゅま弄りを聞きながら、おもむろに立ち上がったのは真中。
「俺、手伝ってくる」
自然な動作で鹿嶋を追う真中の背中。
それを眺めながら滝田は「すげーな」と呟く。
「真中かっこいいな」
「何が?」
「だって、普通あんなナチュラルに手伝いに行くとか言えないだろ。マンガみてぇ」
「たっきーはやんないの? 一番やりそうなキャラじゃん」
高校に入学して一ヶ月と少し。
ゴールデンウィークも過ぎ、ようやく五月病から抜け出したという頃。
早くも彼女をゲットしたという色男に東の意見がぶつかる。
「まあ、タイプの子だったら真中を押し退けてでもやるけどね」
「つまり鹿子は範疇外、と……」
「みなみ、鹿子ちゃんだって好みがあるよ!」
「お前ら自分で振っておいて酷いな!」
「でも、一番酷いのは真中じゃない?」
机を囲んでぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる東や南風原、滝田たちの声を聞きながらぽつりと落とされた仁科の一言。
それを聞き届けた南風原は眉間に力を入れて聞き返す。「あ?」と地を這うような低い声と共に。
「真中のあれって、アピールでもなんでもないんでしょ」
鹿島のようなタイプは、逆に優しくされるのに弱いのではないのか、と。そういう仁科の見解だ。
「女心弄びやがって! みたいな?」
「そうそう」
さすが幼馴染、と言うべきか。
仁科が言いたい言葉を補足してくる辺り滝田との付き合いの長さが窺える。
「あー……」
「まあ、にっしーの言いたいことも分かるけどよ」
「真中さんだもんね」
しかし、東と南風原も仁科の言い分を理解できなくもないようで。
互いに顔を見合わせて、言葉を濁らせる。
「まあ、それも真中の良いとこでもあるんだけどな」
「にっしーと違って優しいからね」
「あじゅまは残念だからねぇ」
「しっつれいな!」
「ハハハ、確かに」
「ちょっと、みぃ!」
どさくさに紛れて仁科を弄った筈が、即座に返される。
真中本人がいない所で、これ以上どうこう言うのもすきではない彼らが、この話題はお終いね、と言外に感じ取る。
付き合いは短いが互いの言いたいことがなんとなく分かるのはフィーリングが合うからなのかもしれない。
さて、次の授業はなんだったっけ。
地理だろと話題が切り替わるその時、調度トイレから帰ってきた荻窪が、真中たちが出て行った方とは逆の扉から戻ってくる。
「おー、みなみ。なんかさ、お前のこと呼んでくれっていう子がいるんだけど?」
すげーかわいい子なんだけど! と、やや興奮気味な彼が南風原の肩を叩く。
「いってぇな、マサヒロ、てめぇ! てか、呼び出しとか誰よ」
「わたし」
「……」
南風原の声が大きかったのだろう。
直接声を掛けられた荻窪よりも先に当の本人が扉の影から姿を現す。ひょこり、と。
きれいな黒髪をさらりとゆらし、小動物のように可愛らしい少女が微笑む。「あ、かわいい」とうっかり滝田が漏らしてしまうほどの美少女であるというのに、彼女と向き合う南風原の表情は険しい。
「……いないって言って」
「みぃ、それは無理だと思うよ。宮園さん、こっち見てる」
南風原の隣に座っていた東の表情もまた、歓迎しているとも思えない。
「せっかくかわいい子が来てるのに?」
「それはたっきーの主観でしょ」
友人たち二人の様子に滝田と仁科も怪訝な様子で尋ねるも、彼女に縁のある二人はだんまりだ。
そうこうしているうちに、遠慮なくクラス内に踏み込んでくる。
このクラスに主に生息する女子たちと違ってガサツさのない、上品な歩き方。
短すぎず、長すぎず、清楚という言葉がぴったりな清潔感のある女性だ。
そんな彼女は南風原の前で両足を揃えると、にこり、可愛らしい笑みを浮かべて尋ねる。
「ねぇ、ミコトくん、どこにいったの?」
今しがた出て行ったばかりの人物の名を。
「さーな。知らねえから、とっとと帰れば」
対する南風原は視線も合わせることなく、ゲーム機の電源を入れる。
心なしか、その口調にも棘があるようにも思える。
もともと口の悪い南風原ではあるが、女子に対してそこまで雑な対応はしていなかっただけに、その反応に滝田と仁科は少なからず驚きを見せた。
だが、彼のそんな態度は慣れた物と彼女、宮園さやかは笑顔を崩すことなく続ける。
「ミコトくんね、今日私のこと置いて行ったんだよ。一緒に行こうって約束したのに」
「さあ、真中も忙しいからな。嫌いな女のことにまで構う余裕なんてないんだろ」
「ひどいこと言うね、南風原くん。でもミコトくんはそんな意地悪なこと言わないよ」
「事実だっての……」
静かにだが、地を這うような声で告げる南風原の声に舌打ちが続く。声音同様、急下降していく機嫌に彼のことを良く知る東はこれ以上はまずいと勘の良さを発揮させる。普段は鈍いくせに、こういう時にばかり発揮される勘だ。
何も知らない仁科に「どうにかして!」と視線を送るも、冷戦は既に始まっていた。
「っつーかさ、なにしに来たの? お前の愚痴聞くほどおれも暇じゃないんだけど」
「朝は一緒に行けなかったんだから、お昼は一緒に食べようと思って」
いないのだったら伝えてくれないかな。柔らかく口元に弧を描いた彼女は、おろおろとする東に向けて「東くんからも伝えてくれるよね」と問う。
人見知り激しい東にとって彼女は最も警戒する類いの人物らしい。何の反応も返さないまま、友人たちに乞うような視線を向けるばかりだ。
「あ〜、ごめんね。それ、ちょっと難しいかも」
幼馴染小突かれて、仕方がないと溜息交じりに援護に出たのは柔和な笑みを張りつかせた仁科だった。
「どうして?」
「俺たちが先に誘われちゃったんだ。聞いて欲しいことがあるんだって」
「……わたしだったら何でも聞いてあげるのに」
「なんか内緒にしたい雰囲気だったから、宮園さんに聞かれて困ることなんじゃないかな。いろいろあるじゃん、女子に聞かせ辛い話とかさ。心辺り、あるでしょ?」
「あいら、それも言ったらダメだったんじゃねえ?」
「あ、そっか、サプライズだったら台無しだね。宮園さん、真中が俺らに相談してるって言うことも知らないふりしてくれる?」
「え、……うん」
「あ、真中帰って来たんじゃない?」
「ほら、顔合わせるとばれちゃうから、早く自分の教室戻んな」
「今のことは俺たちだけの秘密ってことで」
押し寄せる言葉の波に押し流されるように曖昧に頷き、退室を命じられた彼女は、そのまま滝田に送られながら教室を後にする。「今度は俺に会いに来てもいいよ」と余計な言葉まで付け加える滝田と素知らぬ顔で友人たちに向き直る仁科。
「なんだ今の?」
「二人ともすげーな」
宮園とは常に対敵していたのであろう南風原と東から感嘆の言葉が漏れる。
羨望にも似た眼差しを浴びた二人は、顔を見合わせながら、
「こういう時、優等生でいると便利だよね」
「いや、あいらのそれは優等生面なだけだから」
「眼鏡だからじゃない?」
「あじゅまが眼鏡しても優等生には見えないけど?」
「ひっでぇ!」
にっと笑う滝田の顔はキツネを思わせるし、それに対してたれ目の仁科はタヌキを思わせる。
狐狸に騙されていたのだと、彼女が気付くのはいつのことになるのやら。
少なくとも期待して帰って行ったであろう宮園に、苦手な女子であっても少々可哀相にも思えた東だった。
PREV | TOP | NEXT