ショコラに溶けた
チョコを貰った。
とくに特別な想いも込められていない、ただのチョコ。真中、おはよう。これあげる、と。何気なく滝田から渡されたもの。
十円程度で一口サイズ。久しく食べていなかったそれを懐かしく思い、「ありがとう」の言葉を添えて受け取った。
朝の平和で忙しい時間のたった十数秒の出来事だ。
その後は東を交えての下らない会話が続き、小腹が減った頃にでも食べようとスラックスのポケットに入れたのが悪かった。
日向の席で三時間分の陽光を浴びたチョコレートは、ポケットに手を突っ込んだ瞬間、ぐにゃり。滑らかに形を崩した。
四角とも菱形ともつかない。変形してしまったそれを、今さら食べる気にもなれず、ポケットからだしたそれを机の上に置く。
机の上に広げられたノートの上に。
黒板に書かれた古文訳を眺める。生徒が書いた原文に教師の解説と注訳を伴う文字が重なる。
予習のおかげで訂正箇所は殆どなく、その分、意識はとろけてしまった菓子へと向く。
そこまで期待していたわけではないが、一番美味しい状態を崩してしまったことに授業中であるにも関わらずがっくりと肩を落としてしまった。形が崩れてしまったチョコレート。勿体ない。せめて、少し時間が食べられるようになるだろうか。
少しでも涼しいところにと、机の奥にそっと仕舞った、その瞬間。
かさり、
指先になにかが触れた。
「ん?」
誰にも気づかれない声で、疑問が形になった。
机の中から引っ張り出したそれは、小さな封筒。
真中の名前と住所が活字で印刷されたラベルが張り付けられた、小包。
そういえば、先日買ったそれが、届いたのだった。
ネットで見つけた瞬間、仁科の顔が浮かんだ。本を読む、仁科の顔が。
迷わず支払いの手続きを行った。コンビニ決済。
630円。支払いを躊躇うような金額ではないし、貰って気を遣うようなものでもないだろう。
届いた時には早く仁科の喜ぶ顔が見たくて、封を開けるよりも前に通学カバンに突っ込んだ。
いつでも引き出せる場所に置いておこうと机に中に置いた。それから二日放置してしまったのを、たった今思い出した。いつも弁当を持っっていくことに夢中になって、つい忘れてしまった。
ごめん、仁科。誕生日でもなければ、最初から約束していとわけでもないのだが。心の中で謝罪して今日渡そうと決める。可能であれば、今すぐにでも。
机の中から封筒を引っ張り出し、カバンの中から弁当包みを掴む。
授業終了の鐘と共に、さぁいつもの場所へと向かおう、と立ち上がる。起立。日直の号令。それとほぼ同時に滝田は購買へと駆けて行った。挨拶もそこそこに。それに倣って数人の生徒が続き、置いてけぼりを食らった教師の咎める声が廊下に響いた。
その様子に思わず苦笑しながら、改めて自分の席から離れようと一歩、
「真中! 新しい自販機見に行こ!」
……踏み出そうとした瞬間、東に捕まった。
食堂の券売機横に新しく自販機が設置された。缶やペットボトルの物ではなく、紙パックのものだ。今までにはなかった物に、生徒たちは朝からはしゃぐ。
きっと、大学生や社会人からすればたいしたことではないのかもしれない。だが、高校生の日常からすればそんな大人の些細なことですら重大ニュースだ。
「ん〜、でもちょっと寄りたいとこあるから南風原と先に行ってて」
「えぇ、そんなんじゃ売りきれちゃうよ。ハイエナ共に食われちゃうぜ」
「……だったら、代わりに買ってきてよ」
どうしてそのような言葉選びになったのか、甚だ疑問ではある。突っ込みたい気持ちはあったが、それでも今日の目的は自販機ではなく別のところにある。
「いいよ。真中さんはカフェ・オレとカフェ・オ・レだったらどっち派?」
「……お茶が良いかな」
「あーい、じゃあ了解」
それじゃあいつもの場所でと東と別れ、五人で集まる空き教室に向かうつもりだったのだが、東とすれ違うように滝田が戻ってきた。
自分の席に戻りカバンの中を漁る。
「やべぇ、財布忘れた」
「なにやってんだよ」
「いやぁ、いつもとコンビに行って財布出したの忘れてたんだよ」
「覚えておきなよ。飯もコンビニで買ってくれば良かっただろ」
「俺は学食の麻婆丼の気分なのよ。美味しいんだよ、真中食ったことあるの?」
「で、今から行って間に合うの?」
「うん、朝のうちに食堂のオネーサンにお願いしてっから」
焦った口振りとは異なり足取りが緩いと思ったら、どうやら彼には余裕があるらしい。
どういう手口を使ったのかは謎だが、平均年齢41歳の食堂の厨房メンツを「おねえさん」と言い切れる辺り、彼の手腕が窺える。
仁科とは異なった意味合いで末恐ろしい男だ。
取り置きをお願いしているのであれば最初のスタートダッシュもいらなかったのでは、と疑問に思うがどうやら彼の中ではそういうしきたりらしい。
「あ。真中、このまま真っ直ぐ行く?」
「うん」
「あいらに飲み物いるかメールしろって言っておいて」
「え、なんで」
「あいつ、今日コンビニ飯だからさ」
「朝、コンビニ寄って来たって言ってたもんな」
「そうそう」
それじゃあ、よろしくとゆったりとした足取りで食堂へと向かっていった滝田の背中とは反対の方向に足を向ける。今度こそは誰にも捕まるまいと急ぎ足で一番奥の教室を目指してた。
彼らの昼食場所は、空き教室。
今年度になって自然とそこで食事をするようになり、気が付けば真中たちのテリトリーとなった。
その教室の一角に、仁科はいた。
強い日差しが当たらない涼しい席で、文庫本に視線を落とす。
背後の入り口から真中が入ってきたことにも気が付いていない。
それほど、面白い本なのだろうか。それならば、尚更この贈り物は都合がいい。
封筒から抜き出したそれを手に、仁科の前の席に移動して。
わざと、音を立てて椅子の背凭れを跨いで座る。
「……真中。いつ来たの?」
「今だけど」
本当に真中が来ていたことに気付いていなかったのだろう。
不思議そうな表情で此方を見上げる仁科が可愛くてつい、笑みが漏れる。
早く渡してしまおうと、次の言葉が出てくる前に文庫の間に手元の品を挟む。
「なにこれ?」
「ん、あげる」
新品のそれを手に取り、裏と表。交互に返して観察する。
ひらがなの「あ」
その二画目の先端に紐が結び付けられたもの。シンプルだけど、かわいい栞。
活字の中から飛び出してきた、と銘打たれていたそれを、一目見て気に入った。
その字を選んだのは勿論、
「あいらの、あ」
呼び慣れない名前を呼ぶ違和感と照れ臭さに思わず笑みが溢れた。ふは、と。随分間抜けな笑い。
デザインの都合上、限られてくる文字数の中で彼の名前の一部があるのはとても好都合だった。誕生日でもなんでもないけれど、単なる思い付きの贈り物。本を読む仁科にとっては迷惑とも思わないだろう。
きっと、いつまのようにニヤリと笑って「ありがと、」そう返してくれると思っていた。
だが、予想とは反対に仁科はポカンと口を開け、その後頭を抱えるように黙り込む。
「あれ、仁科?」
「……真中、それは卑怯だよ」
「え?」
「いや、ありがと」
「どーいたしまして」
平たく薄い栞を、何度も撫でまわしながら眼鏡の奥が柔らかく細められる。
少し照れくさそうにはにかむ笑みに、やはり自分の選択は間違っていなかったと安堵した。
「嬉しかったから、お返しにこれあげる」
机の横に掛けられたビニール袋から取り出されたチョコが。
朝、真中が滝田から貰ったものと同じもの。溶かして、形を崩してしまったものと同じもの。それが今度は仁科の手から、真中の手に落とされた。掌に収まるだけのそれを、掌に収まるだけ。
また溶けてしまうのは嫌だ。
受け取ってすぐにひっくり返して底の合わせ目を引っ掻く。
つるりと向けた四角いそれを、口の中に放り込む。
噛んで、奥歯にビスケットが割れる感触が伝わる。
チョコレートの甘さが沁みる。
喜んで貰えた嬉しさと、甘さがじわじわと舌先から広がっていく。
「あまい」
「そりゃぁ、俺の愛が詰まってるからねぇ」
「仁科の?」
「そ。あいらの愛」
「はは、」
くだらないお決まりのダジャレ。
なにその笑い、と真中の反応に仁科は不満げだ。
それでもこの遣り取りですら楽しいと感じてしまう真中は、甘さに緩む頬を更に緩ませる。バレンタインでもないのに。クリスマスや誕生日でもないのに好きな人から貰った物にはしゃいでいる自分が恥ずかしい。
形に残すことは出来ない代物だが、その甘さが幸せで嬉しい。
得られたものは与えた物よりもずっと大きい物の気がした。
口の中で溶けきってしまったチョコレート。
一つ食べると、空腹の胃は更に次をと要求する。
弁当の包みを開けるよりも前に、もうひとつをひっくり返して、包装紙の端を探る。
「あげた俺が言うのもなんだけど、ご飯前にチョコなんて食べて舌が馬鹿になるよ」
「いいんだよ、今食べたいんだって」
「ふーん」
仁科の手元の栞が、するりと本の間に挟まれる。
自分が贈ったそれを、せめてその一冊を読み終えるまでは使ってほしい。
一冊分でいいから、それを見た時に今日の日を思い出してくれたらいいな。
コンビニで代金を支払いながら、そんなことを思っていた。
我ながら、女々しいと感じながらも密かな想いを託した栞の活躍の場に安堵する。
薄いセロファンの外装を剥がし、中身を露わにしたチョコを抓んで口に含む。
「おいし」
そうだ、帰りにコンビニに寄ろう。
柔らかい表面に歯を立てて、そんなことを決意する。
好きな人に贈り物をした今日。
好きなものがひとつ、増えました。
End
PREV | TOP | NEXT