瞳の驟雨
いってきます、と姉に次いで家を出たその瞬間、黒く濡れたアスファルトに、げんなりと肩を落とす。
昨日から降り続く雨音は、朝になっても止むことはなく、南風原の通学時間を引き延ばす。
本来ならば自転車で数十分とかからない好条件なのだが、雨の日に限ってはそうもいかない。
手にしていたビニール傘を広げ、いざ通学路へ。
一歩踏み出した瞬間から、雨で濡れた路面との戦いだ。
踵から足を下ろせば大丈夫、そう教えてくれたのは友人たちのうちの誰だっけ。
いざ、そのアドバイスを試みたその瞬間。
足元でぱしゃ、と潰された水に反撃された。
汚れてしまった制服の裾に自然の眉間に力が入る。
全然大丈夫じゃねえよ、と。
厚手のビニールを静かに雨足は昨日の夜に比べれば随分とマシになってはいる。
だが、いっそのこと豪快に、バケツを引っくり返すくらい豪快の方が気持ちがいい。
肌にじっとりと張り付く極々小さな雨粒が中途半端に不快感を煽る。
「あ〜、もう、めんどくせえな」
いっそのことサボって家でゲームでもしたいと切に願うが、それを許せない自分の性格を恨む。
適度に真面目で、適度に不真面目。
それが南風原を含む友人たちの共通したところだ。
途中で寄ったコンビニで昼食を買うついでに制服の裾を織り上げて、靴下の端を侵入した雨で濡らしながら学校の門をくぐったのは予鈴が鳴る15分ほど前だった。
時間に余裕のある日なら、鞄を置いて友人たちの集う五組に顔をのぞかせる。
だが今日はまず靴下を替えたい気持ちで頭がいっぱい。
靴を脱ぐのと同時に靴下も剥ぎ取った。くるり、とひとつにまとめて鞄の中に放り込むと、あとはロッカーに直行。
裸足に上履きの表面が張り付いているようでなんともいえない気分だった。
しかし、そんな不快感ももうすぐおさらば。着替え一式が入ったロッカーを開けようと手を掛けたと同時に、
「みなみ〜」
聞きなれた、情けない声が届く。
「おー、おはよ」
「おはよ〜。もう聞いてよ、今日大変だったんだから」
「それ、靴下履きながら聞いてもいい?」
「いいよ」
黙っていればいい男なのに、と同学年の女子一同が口を揃えるほど条件付きの男前が背中から圧し掛かり拗ねた幼い子どものような口調で話しかける。
どうせ今日も大した内容ではないのだろうな、とものの数秒で足元の着替えを終え、自分の席に着く。言わずもがなぴったりと隣をついてくる東はそのまま面識のない隣のクラスメイトの椅子へ何の違和感もなく腰を下ろす。
その席の主は居たものの友人とのお喋りで席を立っていたし、座ったのが東だ。
多少なりとも「残念な男」と認識されていても顔の造形のせいか、憎めない性格のせいか、不満を持たれることは滅多にない。
顔が良いってのは得だよなあ、と鞄の中から取り出したゲーム機の電源を入れながら改めて思う。
「この間さ、俺、にっしーとたっきーと帰ったんだけど」
「この間って、いつよ」
「先週? の、雨の日」
具体的な日付や曜日を求めていたのだが、どうやら彼はその意図を汲み取ってはくれなかったらしい。
「……ああ、うん。そんで?」
「あ、でね。にっし―たちと別れた後にさ、傘なくて困ってる女の子がいたからタオル貸してあげたのね」
「傘じゃねえのかよ」
「や、傘貸してあげたかったんだけど、家もうすぐそこですからっていうからさ。制服透けてたからさ、変なおじさんに声かけられたらやばいかなあって思って」
タオルなら透けたブラも隠せるだろうという、東なりの気遣いだったのだろうがそこまで出来るなら送ってやるとかしろよ、と言ってやりたくなる。
「その子、かわいい?」
「ちっちゃくてボブで目がくりっとしてた。化粧しなくても可愛いかんじ」
タオルを洗って返したいという少女に押し切られ、アドレスの交換までしたという。
リア充め、とそんな言葉は包み隠さず本人にぶつけた。
「それの何が大変なんだよ。ただの恋愛フラグじゃねーか」
「ちがうよ〜。でね、昨日、そのタオル返してもらったんだけど、俺気付いちゃったんだ」
「なにを」
「昨日さ、その子、オレんちの近くまで来てたんだよね」
「近くって?」
「家の門」
「それもう、家じゃん!」
近くじゃねえよ、もっと物事を正確に伝えろ。
東の言葉に気を取られていたその一瞬のせいで、主人公が的にやられプレイ画面が真っ赤に染まる。
「オレさ、家、教えたつもりないんだよ」
「メールしてんだろ、それなら、ポロっと言っちゃったんじゃねえの?」
「やりとりしたの、今日返しに行ってもいいですか、いーよー、だけだよ?」
ほら、と何の気負いもなしにそのメールのやり取りを見せてくる。それ、おれ以外にやったら反感くらうからなと鈍感な幼馴染の振る舞いに苦笑しつつ覗いた文面は、確かに彼の言うとおり。
たった一往復のやりとりのみ。
それ以外は「み」と「にっしー」と「真中」「たっきー」と馴染みの名前が並ぶくらいだ。
「なんで知ってんの? って聞いたら、明日デートしてくれたら教えますとか言うんだよ。朝も家の近くで待ってるしさあ」
「……家の前で?」
「ううん、いつもカラスいるとこ」
苦手とする生き物の出現場所で待っているとは、また何の因果か。
東の苦手とするものをいくつも知っている南風原にとって、その怯え方になんだか覚えがあった。
「その子、カラスなんじゃね?」
「そんなん嫌だよ! ただでさえなんか目が怖かったっていうかさ」
「見た目に反して肉食系なんじゃねえの? 一回食われてみろって」
まだお前の見た目を好いてくれているだけマシだろう、と恐らく不幸な現状をポジティブに捉えられるように、言い方に工夫をする。
「やだよ〜、あの子よりみぃの方が断然良いよ」
「え〜、ミズキ知らない女に恨まれるの困るぅ〜、言い寄られるのは二次元で満足してまぁす」
「それにオレだって怖い人彼女にしたくないよ、性質悪いのに捕まるのは真中さんだけで十分だよ!」
「それって、俺に失礼じゃない?」
おいおい、と東のセリフに突っ込みを入れたのは「性質が悪い」その男。
「どしたの、あじゅま、そんな必死になっちゃって」
「にっしー!」
「東が超一途な女子に迫られてるって話」
「おめでとう、東。うちの生徒は望み薄だけど、他校の女子なら可能性は沢山あるね」
「もー、そうじゃないんだって!」
それなりにからかったので、そろそろ助け舟でも出してやろう。
コンティニューを当画面をぶつりと切り、隣に座る東の様子を窺えば、どうやら本当に必死なのだろう。青みがかった瞳がゆらゆら揺れていた。
「あー、はいはい。猛獣の女子力にビビったわけね」
「もっと他の言い方ないの?」
「もっと酷い言い方なら俺の方が得意だよ?」
「いい、いらない! にっしーのは心が折れるから!」
「……で、おれはどうすればいいわけ? 一緒に帰ればいいの、泊まればいいの?」
仁科が加わると余計にややこしくなる話題を早々に片づけてやろうと手っ取り早い方法を提案すれば「泊まりで!」と弾んだ声が返ってくる。
「でも、おれは一緒に歩くだけだからな? 話しかけられても断るとか、そういうのは自分で考えてやれよ」
「うん! ありがと、みなみ!だいすきー!」
「あー、はいはい。ミズキもそーた好き好き」
言葉だけのお決まりのやり取りで締めくくる。間もなく予鈴も鳴ろうかという頃合いだ。
用が済んだからとっとと帰れと、直前にやりとりした言葉とは全く真逆の言葉を吐いて追い払う。
「過保護だねぇ」
「自覚はしてるっての」
にっしー、みなみ、またあとでねー、とにこやかに手を振る幼馴染を見送りながら、隣に立つ仁科の言葉を肯定する。
これでは彼のためにならない、と感じることは多々あれど、なぜだか許してしまう自分がいる。
しとしとと窓の外は相変わらず灰色が続くが、彼の気に入りの青は晴れやかな表情を湛えているのであるのだから、まあ良いだろう。
どことなく、詩人のようなフレーズを浮かべながら、予鈴が響く教室の中、切ったばかりの電源に指を掛けた。
End
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