なまえが帰ってきた。 高校を卒業して上京したなまえは、そのまま向こうで就職。6月に結婚するらしいということは、同級生を通じて何度も耳にしていた。 なまえはよく笑う人だった。優しくて、可愛くて、自分の信念をしっかり持っている人だ。 そして、俺の彼女だった。 「徹…」 「なまえ」 ただランニングをしに来ただけだというのに、神様はつくづく意地悪だと思う。なんてタイミングが悪いのだろう。それともむしろ、良すぎるのかもしれない。 もうなまえと会うのはもう7年ぶりのことになる。その間俺たちの時間はすっかり止まったままだ。卒業式の日に最後に見たなまえの面影をそのままに綺麗な大人になっていた。可愛らしいと形容するにはもうほど遠い。 「ひさしぶり」 「うん。…元気だった?」 元気だよ。そう言うとなまえは控えめに微笑んだ。あの頃のなまえはもういないのだと思った。左手の薬指に光る大きなダイアモンドの指輪が、なまえはもうおまえのものじゃないと主張しているみたいだ。 「結婚おめでとう」 「ありがとう」 「ものすごーく、玉の輿なんだって?」 「うん。ちょっと気後れしちゃうけど…」 なまえが悪戯っぽく笑ったのを最後に、何を言えばいいかわからなくなった。たぶん、この場所のせいだ。駅前の小さな公園が目の前に見える。そこには付き合っているときによくなまえと来たことを昨日のことみたいに覚えている。 ふわりと俺たちの間を駆け抜けた風からは春を感じた。風に流された髪をなまえが自然な仕草で耳に掛ける。 ギュッと締め付けられた感覚がする。急に落ち着かない気分になる。それは高校生のとき、なまえを好きだと感じたものと同じだった。 どうして帰ってきたのか聞こうとして、やめた。実家に用事があったか友達に会いに来たに違いない。俺のために帰ったわけではない。会いたいと、ずっと思っていたのは俺だけだ。 卒業式にピリオドを打ったのは自然なことだと何度も自分に言い聞かせてきた。ずだった。お互い遠距離は不可能だとはじめからわかっていたことだ。遠く離れて辛い思いをするのなら、近くで支えてくれる人と幸せになってほしい。そう思って別れた。なまえも同じだったと思う。 それなのに、残ったものは後悔だけだった。大学で付き合った彼女にも、どこかなまえの姿を重ねていた。そして、彼女たちに振られるときの台詞は決まって「徹が好きなのはわたしじゃないよね?」だった。 まったくその通りだ。自分では気づかないフリをしていたけれど、俺はずっと、なまえを好きなままだ。 「新幹線の時間があるから、もう行くね」 スマートフォンで時間を確かめたなまえは弱々しく言った。切なそうに笑う。桜色の唇が緩やかに三日月を描いた。 「なまえ、」 踵を返した背中に伝える。ハイヒールの音が止まった。振り返ったなまえの瞳からは涙が溢れていた。 「幸せになって」 これが、俺の精いっぱいだ。 今すぐなまえを抱きしめたいと思った。キスしたい。もう一度、あの温もりを感じてみたい… それも、指輪を思い出して踏み止まった。 しばらく見つめあっていた。ふたりだけの時間が一瞬だけ動いた気がした。沈黙を破ったのは、なまえの「ありがとう、徹」の言葉とくしゃりとした笑顔だった。その笑い方は昔と変わってないんだね。なぜだか俺までつられて笑っていた。 なまえが乗った電車を公園から眺めた。電車の過ぎる音が遠くからのものに感じる。引きずっていた後悔はなくなったりはしないけど、妙にあっさりした気分だ。これでよかったのかもしれない。最後にはなまえの笑顔に救われた気がしてならなかった。座っているブランコがぎこちない音をたてて揺れた。 もうなまえと会うことは二度とないだろう。俺これがたちの最後の1日になる。別れてからずもっと覚えていた記念日の一つとして加わってしまうのだろうなと思った。ほんの少しだけ動いた時間は、永遠に今日のままだ。 空ふとを見上げる。皮肉にも今日は、雲ひとつない青空だった。 おわりということ |