昔から後悔の塊のような人だった。散々揺らいだ後、優柔不断な彼女の決断が大抵いまいちなものなのは俗に言う幼馴染というやつだからよく知っている。
頼んだアイスのフレーバー、新調した赤いスカート、中学の頃断ることが出来ず入部した弓道部、小さな事から大きなことまで。恐らくその性格はなまえの母親にも原因があるのだろう。何しろ彼女の母親は古風な考えをもっており、厳格な人だ。教育ママという言葉もしっくり来るかもしれない。
今となっては昔の話となるが小学校の頃なまえを遊びに連れ出そうと家のチャイムを押したら、覗いたおっかない顔が俺をじろりと睨んだ。『なまえは今からピアノの習い事だから、帰ってもらえる?』、子供相手とは思えない棘のある口調。あれ以来俺は彼女の母親のことをこっそりなまはげと呼んでいる、ニックネームでも付ければ愛着が湧いて苦手意識も薄れるかと思ったがニックネームがニックネームなので可愛さなど微塵もない。
ああすればよかった、あっちにしたらよかった、口には出さないけれどいつも決まって浮かない顔して泣きそうになる癖は高校生になった今でも変わらないままだ。



「運命なんかじゃ、なかったんだね」


偶然出会った彼女は、学校からの帰り道の河原に一人ちょこんとうずくまってただ水辺に思い馳せていた。何してんの、と隣に座れば潤んだ瞳は俺を見るなりふにゃりと笑って突如泣き出しそう言った。化粧っけのない唇からこぼれた運命という単語は如何にも夢見がちななまえらしい言葉だった。彼女が握りしめる拳から覗く銀の細いチェーンは小刻みに震えている、恐らくこの間会ったときには首元にぶら下がっていたシルバーのネックレスだろう。戸惑う俺に涙で濡れる頬を横に伸ばすように乱暴に拭いて、なまえはごめんと謝った。

「なんかあったわけ」

大概想像はついているくせに、敢えてそう尋ねる俺はやはり彼女が昔事あるごとに言っていたとおり意地悪なのかもしれない。単純な心配もあった、だけれど俺は嬉しさのような複雑なものを持ち合わせていたことを告白する。名状しがたいような感情がいくつも絡みつく胸の音がいつもよりもはっきりと聞こえた。
まだあふれるものは余っているはずなのに、無理やりに涙を塞き止めたなまえはもう一度伸びきったセーターの袖で目元を拭う。泣き止む事に慣れたその様子に胸が痛んだ、いつもどれだけのことを我慢しているのだろうか。友達の為に我慢して、先生の為に我慢して、母親の為に我慢する。自由を奪われ、時間を拘束され、厳しい言い付けにも背かない。優しい彼女は悲しそうに、ただ笑うだけ。

私も堅治と一緒の伊達工行きたいんだ、中学三年の頃そんな事を零していた彼女が結局提出した志願書には青葉城西の名前があった。良いところの家の奴らが行くような私立校で、明らかにあの教育ママの意向だった。痛々しい笑みを貼り付けて俺にごめんねとそれだけ言ったなまえの目元が真っ赤だったのが、ずっと忘れらないでいる。

「……ふられちゃった」

痛々しい笑顔を、風になびく長い髪が容赦無く自身の頬を叩いてゆく。青葉城西へと進んだ彼女は初めは戸惑っていたが、順調に高校生活を過ごしていたようだった。そしていつの日か、恋人が出来たと報告したあの無邪気な笑みときたら。やわい俺の心臓をぐさぐさ刺す鋭利な凶器そのものだった。
彼女の首元で光るネックレスの眩さに顔をしかめたら彼氏がくれたのだと幸せそうな笑顔。……何も分かってねえな、俺ならもっとなまえに似合うやつ買ってやれんのに。そんな負け惜しみをいつの間にか覚えていた。

「もう、好きじゃないんだって」

徐々にひくつきはじめる肩、またなまえは両手で顔を覆って俯いた。細い肩を抱き寄せて頭をくしゃっと撫でてやると声を上げて彼女は泣いた。私ばっかり馬鹿みたいだとか別れたくないだとか時たま聞き取れた言葉の中に俺の知らない男の名前が混じっていたりして呆然とそれを聞き流す。

「苦しいならさ、忘れちゃえば?」。間抜けな顔がこちらを向いて、俺を見つめる。ちょっと貸してと一言声をかけてなまえの手中の銀色をひったくる。じゃらじゃら指に絡みつくそれが、胸中の苛立ちとそっくりだった。立ち上がって、おおきく振りかぶった俺になまえが小さく悲鳴のような声を上げる。

「け、堅治……!?何、して…!」

「何って、捨てた」

「どうして……」

「じゃあ何だよ、お前はいつまでもお前を捨てた男から貰ったもんを大事にすんのかよ」

伏せる睫毛を濡らす涙は朝露にもよく似ている。川の水面が反射する夕陽の色を閉じ込めた瞳はぐらぐら揺れて、口の端をきゅっと結んだ。でも、と弱々しく吐き出して彼女は小さく笑った。


「……私にはもうあれしか残ってないから」

そう言い捨てた彼女の視線は真っ直ぐ前を向いて、なまえは突如前のめりにつんのめって走り出す。さっさと革靴と靴下だけを石ころの上に散らかして、飛沫をあげて川の中への足を突っ込んでいった。びしょ濡れになることもお構いなしに腰をかがめ、袖をまくった白い腕で必死に探し回る。
何やってんだ、ぼうっとする頭でそう言いたくなった。なまえ、そんなことしたら母親に怒られるぞ。お前は母親の言うことは絶対な優等生じゃんか。なのに何やってんだよ。
……お前そういうことする奴じゃなかっただろ、悔しくて悔しくて噛み締めた唇から鉄の味がした。それほどその男のことを好きなのだとわからないほど俺は子供ではない。息を切らすなまえが時々漏らす嗚咽に、目を伏せた。彼女があれほど必死になって良い子の自分を捨てるのは、俺の為であって欲しかった。

「……なまえ、もう帰るぞ」

「……やだ」

「やだってお前、」

「だって、私、後悔したくないの」

涙ながらの言葉はいつもの通り柔らかい声だけれど、強い口調だった。後悔ばかりのはずのなまえの小さな身体の内で渦巻く熱い感情は、きっと燃えるような色をしている。
捨てたふりした手中のネックレスを握り締めて、また唇を噛む。俺の体温を吸い取ったそれはすっかり生ぬるくなっていた。今更気持ちなんて伝えても彼女にはきっと届かなくて、俺はいつかの意気地のなかった自分自身に後悔するべきなのだろう。実際の胸の内は清々しい程にからっぽだった、だけれどただ苦しかった。
そうしてまた俺はくだらない嫉妬心を言い訳にして、なまえのたった一つしがみつかずにはいられない愛した人との繋がりを返してやれずきっとまた後悔をする。わかってはいるのに、それが出来ない。愚かであることはわかっているのに、愚かでなければいられない。

お前も苦しいだけどさ、俺だって苦しいよ、なまえはそんなの知らないだろうけど。これっぽっちの懺悔のつもりで目を逸らすこと無く彼女をただ見つめた。聞こえるのは派手な水飛沫の音と、嗚咽混じりの乱れた息。元来なまえは特別美人でないけれど美しかった。笑顔も長い髪も優しい心も、美しかった、ただ下手くそな呼吸だけを除いては。



尖んがった呼吸


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