女と認識されたわけではない。私は身代わりにされているのだ。木兎光太郎と言う男の彼女だった女の面影を重ねられ、唇を貪られ、目隠しをさせられ、親にも見せたことのないショーツの奥を愛撫されて、ただひたすらに言うことをきかされる人形となって。


 口の中に流れ込んできた光太郎の汗は、ラムネの瓶に置き去りにされたビー玉の味がした。


 抹香の香りが家中を漂い、客間では親戚や近所のおじさんおばさん、友人だったと言う同年代の男女が何人かが、母や叔母の作った手料理などに手をつけながら談笑している。その中の数人は、梟谷学園の制服を着ていた。
 会話の内容は、リビングのチェストの上で1年前から笑ったまま時が止まっている故人のことでありながら故人のことではない。皆、故人を幹にそこから伸びた自分たちの話しをしていた。
 なぜそんな遠回りをするのか、理由は明白だった。本人の話しをすると、きっと心が泣いてしまうから。泣いてできた水溜りの底から、這い上がるのに気が滅入りそうなほどの時間がかかってしまうから。
 まるで今、私の膝の上でボクサーパンツ1枚でうとうととすぐにでも眠りそうな表情で窓の外を眺めているこの男の様に。

「重い」
「・・・マンガ、少女マンガばっかだな」
「光太郎」
「少女マンガばっか読んだって面白くねえだろ」

 話は一方通行。キャッチボールになりはしない。
 光太郎は私の部屋の大きな書棚2つ分を埋め尽くす少女漫画を横目で見て抑揚のない口調でいつもの数倍はゆっくりとしたスピードで言った。

「光太郎に関係ない」
「光太郎言うな。ちゃんとお兄ちゃんって呼べよ」

 先ほどまで私が「光太郎」と名前を口にする度「もう一回、もう一回」と苦しそうな掠れた声でせがんでいたのは一体誰だったのかと、光太郎のロールハッシャの様な何が正解かなどわからない幾通りにも姿形を変える気分には、付き合わされているこちらもため息が出る。
 光太郎は私に目配せをすると、再びすぐに窓の外へ視線をやった。
 窓の外には空しか写っていない。今の光太郎が一体何を思っているかなど明確に汲み取る事は出来ない。ただなんとなく予想はつく。

『ああ、またバカなことやっちまったな』

 己の衝動さに恥をかき、私に気づかせない様に小さく吐く後悔の溜息は、ある日突然目の前から泡の様に消えたあの笑顔に向けて、謝罪の言葉と共に乗せられているのだろう。
 私の姿は光太郎の後ろにあって前にはない。後ろの裾を掴ませておきながらも、視界には映らないようにされている。
 ベッドの上で光太郎は、かれこれ15分以上は私の露わになった腿に頭を乗せていた。膝を折って尻の下敷きになった足はもう痺れて徐々に感覚が無くなってきている。更にワックスでセットされた短い髪が皮膚を刺激して皮膚の薄い内太腿がむず痒い。

「光太郎、そこにあるパーカーちょうだい」
「だから、光太郎じゃねえっつーの」

 光太郎は私の指先から伸びる軌道を目で追いかけ、怠そうに身体を起こして視線の先に雑把に落ちているパーカーを持つと、向き合ったまま下着姿の私の背中に手を回して着せてくれるかの様な素振りを見せた。
 一体どこでそんな気の利かせ方を覚えたのだろうか。光太郎の顔を見つめたまま、私の脳裏を駆け巡るのは姉の姿だった。
 光太郎が手に持ったパーカーに、まるで目に映る全てを遮断される様に頭ごと包まれると気づいた時には、既に真っ暗になった視界で唇が触れていた。2、3度角度を変えながら触れた唇が最後はぺろりと舐めあげられて思わず子宮の奥が疼いた。
 姉にも同じ様なことをしていたのだろうか。

「なまえちゃんの受験が終わったらとてもいいお知らせがあります」

 姉の薄くて形の綺麗な唇は、嬉しさと照れを隠しきれないのか、少し不器用にはにかんでいた。
 中学3年の秋、受験のストレスで胃に物が入れられず5キロも体重が落ちてしまい、姉の言う“いいお知らせ”には正直、素直に関心が向けられなかった。
 ただ志望校に受かる事だけが私にとってのいいお知らせであって、それ以外には大小もつけられないほどの関心の低さが自分でもわかっていた。そして何より、その“いいお知らせ”は決して“いいお知らせでは無い”とわかっていた。

「お姉ちゃん光太郎と付き合うことにした。っていうか、もう付き合ってんだけどね」

 入試の合格祝いで久々にご飯を美味しいと感じた夜、姉は私の部屋に来て漫画を読みながらついでみたいに言った。
 それが恐らく姉が言いたかった“いいお知らせ”なのだろう。そんな事は胃が痛み続けた日々の中でとっくの前に気づいていた。
 高校生になってからも毎日の様に家に来る従兄弟の光太郎をただの従兄弟として迎え入れているわけではない事も、姉は気づいていないとでも思ったのだろうか。
 勉強中、ヘッドホンを手放せなかった理由を知っているのだろうか。何度、隣の姉の部屋から聞こえる二人の楽しげな会話をどれだけ鬱陶しいと思ったことか。
 きっと何ひとつ知る由もなかっただろう。私は、姉と光太郎が私を交えてするいつもの会話ではないただの女と男の会話に、時に下劣だと毒を吐いた。
 だが決して姉の事が嫌いだったわけでもない。姉は私の憧れだった。周囲を惹きつけるダリアの様な華やかな外見も、まるでシルクでできたスカーフみたいに綺麗で滑らかな雰囲気も、同じ親の遺伝子を受け継いだとは思えない程私とは違っていたから、とても羨ましかった。例え比べられても嫌いにはならなかった。だって、1番の味方は大好きな姉だったから。
 だから笑った。笑って、姉に誓った。

『光太郎おにいがもしおねえを不幸にしたら、私が光太郎おにいを許さないんだから』

 小さい頃から盆だ正月だと言えば顔を合わせていた私達3人は、小さな頃はどこへ行くにも手をつないでいた。右手は姉の、左手は光太郎の、二人の手に繋がれて、満悦に笑んでいた私を、私は一体どの季節に置き去りにしてきてしまったのだろう。
 光太郎の無骨で大きくなった男の手もいつの間にか姉だけのモノになり、姉の細くて長い指は光太郎を優しく包むようになったのだと改めて気づかされた時、私の世界だけが傾いているように思えた。
 大好きな姉に誓ったはずなのに、姉はきっと、私が寂しさに負けて抱かれることを泣きじゃくっていた光太郎のせいにして、後生貫かなかった私を恨めしく思っているかもしれない。

「・・・光太郎」
「なまえ、前みたいに“おにい”って、言えよ」
「何にも見えないよ」

 唇が離れた後、頭ごとパーカーに巻かれ視界を遮られたまま光太郎は私を抱きしめていた。
 姉を抱きしめていた腕も、姉の唇を塞いだ大きな口も、今私のこの手にあるのは好きだと思っていた光太郎のはずなのに、なんだかちっとも嬉しくない。そもそも私が臨んだのは、よく笑っておかしなことばかりする光太郎で、こんな幾つものネジが外れたポンコツな光太郎ではない。
 私が欲しかったのは、外からの窓越し、あの時ほんの数センチ開いたカーテンの隙間から見えた、姉を嬉しそうに優しく抱きしめていたあの光太郎だ。

 片腕を光太郎の懐から抜き、巻きつけられらパーカーから頭だけを出した。目の前にある窓の外は清々しいほどの雲ひとつない青空で、鳥が飛んで行くのが見えた。
 あの日から、“光太郎おにい”と呼べなくなった特別な光太郎を、部屋に何十冊と並ぶ少女漫画の中に大切に閉じ込めることにした。幾通りにも姿を変える私にとって都合のいい少年へと生まれ変わらせながら。

『ねえ、なまえちゃん。彼氏ができたら光太郎も誘って4人で遊びに行こうね』

 姉が描いた理想の世界で、私と光太郎はふたりぼっちだった。




 Fin.


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