手にじっとり汗をかき、少しだけ緊張しながら部屋に入ってみれば、床に寝転がった彼女がすやすやと寝ていて思わず「マジか」と呟いてしまった。同じく床に転がっている酒瓶。これは明らかに酔っぱらっている。
 先週ここへ来た時に、来週も部活終わったら来るからなと伝えたら「じゃあ鍵渡しておくよ」と、軽く放られたこの家の合鍵を一週間大事に持ち続け、たまに取り出して眺めてはにやけたりして、チームメイトたちに気持ち悪いと言われても気にせず、めちゃくちゃドキドキして今日ついに、鍵を開けたというのに。なんてこった。
 深いため息を吐いて、それから転がる酒瓶を拾ってテーブルに置いた。彼女の好きなチンザノのドライとロッソ、一本ずつ。未成年の俺には名前以外ちっとも分からない。前に聞いたら「ベルモットだよ」と教えてくれたが、その名前で思い浮かぶのは目の前の彼女とは似ても似つかない黒ずくめの服を着たセクシーなオネーサンだけだった。ハタチになったら真っ先に飲んでやろうとは思っている。
 彼女が酔っぱらって寝てしまうのはこれが初めてではない。けれど今日はせっかく合鍵で家に入れて、何だかようやく認めてもらえた気がして、すげー嬉しかったのに。返せ、俺の一週間のドキドキ。口を尖らせて彼女を見る。肘までまくられた袖のせいで、その腕が蛍光灯にさらされている。細くて、白くて、アザの一つもない。すぐにでも折れてしまいそう。もったいねーな、と思った。あの頃は、もっと。
 ため息を一つ吐いてから、とりあえず彼女の肩を揺すってみる。触れた部分がやけに骨ばっていて、俺なんかが触ったら折れて砕けてしまいそうで、思わず眉を寄せる。「なまえちゃん」と呼んで、ほんの少しだけ力を入れて揺すると、ようやくその目がゆるゆる開いた。今にも閉じてしまいそうな目で俺を見つけた彼女は「おつかれさま」と掠れた声で呟いた。呑気なそれに少しだけ、むっとする。

「なまえちゃんさ」
「うん」
「俺、今日、行くって言ったよな」
「そうだね」
「合鍵でドア開けんのすげードキドキしたのに。酔っぱらって寝てるとか、ひでえ」

 なんだかグチっぽくなった言い方に、彼女は二、三度睫毛を揺らしたあと、小さく笑う。どうせ、まだまだ子どもだなあとか思ってるに違いない。

「木兎くん、わたしねむい」
「ダメ」
「あと十分」
「やだ」

 今にも彼女の目が閉じてしまいそうで、また肩を揺らした。それが不快なようで、彼女の眉間にもシワが寄る。それにもめげず、ゆさゆさ揺らすと。

「もうむかしはあんなにかわいかったのに、木兎くんはひどいなあ」

 諦めてゆっくり起き上がった彼女はあくびをしながらやり返すようにそう言った。どう考えてもひどいのはそっちの方だと思う。

 地元のクラブチームにはときどき、高校生や大学生になったOBが手伝いに来ていて、彼女もそんな中の一人だった。バレーを始めたばかりの、まだ小学生の俺が打つボールを簡単に拾ってしまう彼女は本当にすごくて、格好よかった。何より楽しそうにバレーをしている姿がものすごくキラキラしていて、当時の俺はよく「なまえちゃん好きだ!」と言い、彼女はそれにはにかんで「そっかあ、うれしいなあ」と俺のあたまを撫でた。
 だから数年ぶりに再会した時、目の前の人間が彼女だと初めは分からなかった。記憶の中の彼女はいつもキラキラしていて、笑顔で、腕にも足にもアザが出来ていたけどそれも全部、格好良かったのに。今じゃあ手も足も細っこくなって、静かに笑うようになって、バレーをとっくに辞めてしまっていた。怪我とかではないらしいが、理由を聞いても教えてもらえない。「そういうものだよ」と彼女は言うけれど、何がそういうものなのか、俺にはちっとも分からない。

 水道から水をジャアジャアと出しながら彼女はのそのそと水を飲んでいる。その薄っぺらい背中を眺めながら昔を思い出していた。再会した日「もうバレー、しないのか?」と聞いた時のあの傷ついた目。「もうしないよ」とはっきり告げた言葉。記憶の中にいる彼女は決して見せることがなかったそういうものに、俺の知らない彼女の時間があったのだと見せつけられているようで、悔しい。
 ただ一つだけ、自分でも本当にすごいと思うのは、彼女がどんなに変わってしまっていても俺が子どもの頃よく言っていた「なまえちゃん好きだ!」の気持ちはちっとも変わっていないことだった。だからこうして会いに来るのに、それを言っても彼女は昔のように「うれしいなあ」とは笑ってくれない。困った顔をして、首をふる。「木兎くんは、まだまだ子どもだね」と言う。それでもどうしたって諦められなくて、チームメイトたちから「こじらせ木兎」と笑われても、気にしない。つーかもう気にしてられない。

「なまえちゃん」
「ん」
「好き」

 水をジャアジャア垂れ流し口にコップを付けたまま、ゆるり振り返ったなまえちゃんはやっぱり困った顔をしていた。

「まだ諦めてなかったか」
「んなわけねーだろ」
「もうそろそろおしまいにしようよ」
「ヤダ」

 俺の一言にふうと息を吐いて彼女は水をもう一口。いまだ出っぱなしでジャアジャアいい続ける水音がいよいよ気になって、無言で立ち上がり彼女の隣に立ってから勝手に手を伸ばして止めた。彼女は何も言わずに水を飲んでいる。白い喉が動く。あの頃は見上げるばかりだった彼女は俺よりずっと小さくなって、手を伸ばしたらすぐ掴めそうなところにいるくせに。それでも何一つ、心から許してくれない。ずるい。

「俺もう子どもじゃねーのに」
「子どもだよ」
「じゃあハタチになったら認めてくれんの」
「だめ」

 かたん、とシンクにコップを置いて彼女は息を吐いた。見下ろした横顔の、睫毛が揺れている。

「大人になるって、あんがい面倒なんだよ」
「よくわかんねえ」
「うん」

 小さく笑った彼女は俺の目を見ずに、どこか遠くを見ている。それはたぶん、今までを思い出している。俺の知らない時間。彼女が変わってしまった時間。俺がきっと、一生知ることができない時間。くやしくて、たまらない。
 思わず彼女の細い両肩を掴み、ぐいとこちらを向かせた。まあるくなった目がぱちんと瞬いて俺をまっすぐ捉えた。あ、ちょっとだけ、うれしい。

「俺は、まだまだガキなんだろうけど」
「うん」
「それでも、たぶん、なまえちゃんのコト誰より見てるし、好き」
「たぶん?」
「たぶん!」

 断言した俺に、もう一度目を瞬いて、彼女は息を吐くように笑った。恐らくまだアルコールの抜けてない頭には、俺の言葉なんて大して届いちゃいないんだろうけど。

「だから、なまえちゃん、俺のこと見て」

 骨ばった肩を掴む手に思わずぎゅっと力をこめる。そこは折れやしなかった。砕けてしまうこともなかったし、彼女が痛いと眉を寄せることもなかった。

「木兎くん」
「うん」
「きみのまっすぐさは美徳だと思うよ」

 それから彼女は息をゆっくり吐いて、やっぱり痛々しく悲しい目をした。どんなに好きだと言っても、あの日見せた輝くような笑顔は浮かばない。よろこんでくれない。それを分かっていて、それでも何度だって俺は言い続けていく。

「わたしも、きみのようであればよかった」

 そうすれば、と続けようとして、きゅっと口をつぐむ。少し黙ってからまた小さく息を吐く。ため息ばっかり吐くその口をふさいでやりたい。それをぐっと我慢して、かわりに掴んだ肩を引き寄せた。意外なほど呆気なく腕のなかに収まったことに少し驚いて、けれどああ酔っぱらってるからか、と納得した。
 本当は酒なんかちっとも飲めないくせに、無理に大人のふりして線引きしたり。そのくせ、部屋に来るようになった俺のサイズにあわせて足がはみ出ないような大きいソファーに買い替えたり。合鍵を、何気なく渡したり。なまえちゃんさァ。もう、マジで。

「好き」
「まだ言うんだ」
「モチロン!」

 すっぽり収まったままの彼女の顔は見えない。肩がふるえているのは、どっちなんだろうか。「うれしいなあ」って、笑っていればいいのに。

「木兎くん」
「なに」
「こじらせてるね」
「いーの!」

 逃がしてやんねーからな!と言えばもう一度肩がふるえた。やっぱり笑ってはいないんだろうけど、それでもこじらせてしまった俺には、もう、どうしようもない。

「わたしは」

 どっちの言葉も聞きたくなくて、ぎゅうぎゅうと強く抱き締めたら、むぐ、と変な声が聞こえた。ゴメン、でも、やめねーよ。目を閉じるとまぶたの裏側であの日の彼女が笑ってる。それをだんだん思い出せなくなっているのが、たまらなく怖かった。


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