塾が終わり外を出ると、辺りは既に暗くなっており、少し肌寒かった。羽織ったばかりのカーディガンの裾を引っ張っていると、どこか懐かしい、甘い香りが鼻腔をくすぐる。ちらりと植え込みに目を向けると、オレンジ色の小さい花が無数に咲いているのが見えた。私は参考書の入った重たいカバンを前のカゴに入れ、橙色を横目に自転車を走らせる。やっぱりいい匂いだなあ。今年もキンモクセイが綺麗に咲いたので、私は少しご機嫌になった。それと同時に胸がどくり、と軋むのも感じたが、私は気づかないふりをして信号を渡った。

この甘い匂いは、ネオンが光る仙台の街でも、高二まで通っていた烏野高校までの道でも、全く同じものなので私の心臓に悪い。時々瞳の奥がじんわり焼ける感覚がして、ゆらゆらと視界が揺れることもあった。私はこの匂いを嗅ぐ度に、脳裏に沈みそうな夕日に向かって一歩前を歩く色素の薄い髪色の男の子が浮かんでくることを知っていた。すが、と呼ぶと、少し困ったように眉をハの字にして、彼は振り返った。そして心なしか、どこか泣きそうなのを堪えるように目を細めて笑うのだ。もう手を伸ばしても、幻影として消えてしまうような、そんな笑顔で彼は笑っていた。

私とスガは、中学が一緒だった。さらに言うと、進学した高校も一緒だった。クラスが一緒になると、また一緒だな、なんて言って笑い合った。私と彼は、そんな、友達とは少し違うけれど、恋人とかいうそういったカテゴリーには分類されない関係だったのだ。それはお互いの認識の範囲内だったんだと思う。ただ、私はその領域を踏み越え、いっそのこと壊してしまったかった。私は密かに、誰にも知られない内に、スガのことが好きになっていたのだ。

去年の、今日みたいに綺麗な橙が道を彩っていた帰り道。私とスガは久々に並んで下校していた。たまたまスガは部活がなくて、一緒に帰ることになったのだ。私は、その時すでに彼に対してもやもやした思いを抱いていたので、内心嬉しく感じる反面、少し緊張していた。自転車を押しながら他愛のない話をしばらくしていたような気がするが、あまり覚えていない。
しばらく歩いていると、ふと、スガが遠くに浮かぶ沈みそうな太陽を眩しそうに見つめながら小さく呟いた。

「来年は、俺たちも高三だなあ」
「…そうだね」

私はかろうじてそう返しただけで、その後まもなく沈黙が続いた。カラカラと車輪の回る音が聞こえる。彼の言葉は私の心に重くのしかかっていた。高校三年生。自分の道を徐々に考えて、現実に目を向けなければならない。私はそんな風に考えていて、正直自分が再来年進学しているのか、または働いているのかさえ想像できていなかった。

「まだ、このままでいたいなあ」

気づいたらそう呟いていた。はっとして、慌ててスガの方に目を向けると口元を緩めてくすくす笑うスガが見える。

「何笑ってんのよ」
「いや、お前らしいってか、なんていうか、」

来年もきっと変わらないべ。彼はそう言って、楽しそうにこちらを見ていたのだ。夕日の光が反射して、キラキラと眩しい。私の気持ちは一瞬ふわりと浮き立ったが、その言葉を聞いて少し、違和感を胸に感じた。来年も私達は変わらない。果たして本当にそうなのだろうか。変わらないこともあるけど、変われることだってあるのではないだろうか。心臓ががむかむかするような、もやもやするような感覚に陥る。

「スガ」
「ん?どうした?」

私は思わずスガの名前を呼んでしまっていた。彼はまだどこか楽しそうに微笑んでいる。それを見ているのがなんだか辛くて、私は思わず足を止めてしまった。突然止まったので、スガは不思議そうに一歩先を行ってしまった足を止めてくれた。
しばらく、私とスガの間には静かな時が流れた。夕日もだいぶ傾いてきており、徐々に細かな星屑が光を帯び始めている。私はすう、と大きく深呼吸して前にいるスガを捉えた。彼に何か伝えなければ、と密かに思った。けれどなかなか上手く言葉にできなくて、自転車のハンドルを握り直してばかりいる。

「私、は、やっぱり変わりたいよ、スガ」

無意識にそう呟いてから後悔するのに時間はいらなかった。自分は何を言っているのだろう、と内心自分に問いかけた。コンマ一秒前まで、変わらないでいたい、とスガに言ったばかりなのに。口をついて出てしまった言葉に私自身さえも混乱してしまい、違うの、そうじゃなくて、とうわ言のように呟いていた。ほんの少し前に吐き出してしまった言葉を、帳消しできるのならしてしまいたかった。

一方スガは、私の言った言葉の意味が理解できなかったようで、一瞬固まっていた。大きな目をきょとん、とさせて瞬きを何度も繰り返す。はっと我に返り、私の様子がどこかおかしいと感じたのか、なまえ、どうしたと発せられたその声は心配の色を帯びているものだった。
言わなければ。私の脳内で繰り返し再生されるその言葉は、心臓の鼓動を次第に速くさせて、重くのしかかる。私の心は張り詰めていく風船のように徐々に膨れ上がっていった。

「すが、」

言わなければ。長年積もらせた、密かに大きくなってしまったこの想いを、伝えなければ。

「あのね、私、」

そこまで口にして、また私の口は閉じてしまった。このままスガに対する気持ちを言ってしまったら、私とスガの関係がこれからどうなるのか分かっているのか、と心の声が問いかけてきたのだ。私はその瞬間に怖くなった。果たして今、この気持ちを伝えなければならないのだろうか。でも嫌われてしまったら。スガと、そのせいで彼とぎくしゃくしてしまったら。いやスガは優しいから、大丈夫、だと思う。けれど、いや、でも、

「なまえ、大丈夫か?」

目線を落としていた私の顔を覗き込むようにスガは屈んでいた。思った以上に彼の顔が近くにあって、私は情けない声をあげてしまい、少し後ずさった。

「ご、ごめん、なんでもないから、大丈夫」
「そうか?なんか、様子おかしいぞ」
「わ、私が様子おかしいのなんていつものことデショ」

あははと笑ってはぐらかす私に、スガは全く納得がいっていないようだった。じっと私を見つめていて、いつも笑顔の彼とは打って変わって眉間にはシワが寄っている。
私はこのまま押し通しても、きっとまたスガは私に幾分都合の悪いことを問いかけるだろう、ということを本能的に察した。再び口を開こうとしている彼の声に被せるように、私は慌てて言葉を紡いだ。

「すが!キンモクセイ、綺麗だね!」
「ん?ああ…」
「私この匂い好きなんだー!」

ふいに視界に入ってきた無数の橙色の花に話を向けて、私は帰ろう、と彼に笑いかけ自分の告げかけた想いを誤魔化した。スガは一瞬また口を開こうとしたが、私は見えなかったふりをして再び自転車を押して歩き始めた。

それから私達は一言も交わさないまま、静かに下校をしていた。何か話題を振ろうかとも考えたが、さっきのこともあって、正直何を話したらいいか分からなかった。私達は黙々とほとんど沈んでしまった夕日に向かって歩いている。星の数がまた多く輝き始めたように見えたので、小さく空を仰いでいると、スガがなまえ、と声をかけてきた。

「俺、こっちだから」
「あ、そっか!じゃあ、またあした…」
「なあなまえ」

今度は私の言葉を遮るように、彼は言葉を吐いた。恐る恐る彼に目を向けた瞬間、私の心臓はどくり、と音を立てる。一瞬、スガが泣いているように見えたのだ。驚いて目を瞬かせると、少し切なそうに目を細めながらも笑っているスガが私の目に映った。

「キンモクセイ、俺も好きだよ、なまえみたいでさ」

そう言って彼は、じゃあな、と私に告げ、歩き始めた。一度も振り返ることはなく、彼との距離は次第に大きくなって行った。私は遠くなる背中にもう一度、また明日、と慌てて叫んでから、先ほどまで押していた自転車に跨がった。遠目から見たスガの耳が、心なしか赤かったのは彼が夕日に染まっていたからだろうか。いや、それとも。

私は帰ってからも、最後にスガが告げた最後の言葉を反芻するように何度も何度も頭の中でリピートさせていた。その度に、胸がぎゅっと苦しくなって、あの言葉の意味は何だったのだろうか、と考えた。

その意味を理解するには、恐らくスガに対して少しの勇気と自惚れが必要なのだということをひしひしと感じた。しかし意気地ない自分の気持ちが邪魔をして、彼に改まって聞くことは憚られた。まるでなんだか何かいけないことをこれからするかのように、私はスガに訊ねることに躊躇いがあった。また明日、また今度、またいつか聞こうと、この問題は次々と先延ばしにしてしまっていた。

スガと帰ったあの日以降、彼とは全くギクシャクすることなく、私達は穏やかに流れていく日々を過ごしていた。私の気持ちは積もり積もるばかりだったが、いよいよ彼に積年の想いを伝えることはできずに、今年の春、私は親の都合で転校が決まってしまったのだった。

全く会えない距離ではないが、明らかに会う回数は減る。私達の関係のように中途半端な距離を離れることになってしまった。寂しい気持ちを押しつぶしながら、私はスガと、さよならをした。去り際、彼はたまには連絡しろよ、といつものようにニッと笑って私の背中を叩いた。彼がその時、何を考えていたのかは、私には全く見当もつかない。

それから時々何度かメールを送りあったりしたが、高校三年生にあがり、お互いに部活や受験勉強で忙しくなって次第にメールの回数も少なくなってきた。彼は今、どうしているのだろう。元気にしているのだろうか。

今でも、と思う。キンモクセイの香りが漂う中、私も自分の気持ちを伝えていたら。何かが変わっていたのだろうか。でも一つ、私には分かったことがある。それは、私とスガは、ずっと意気地がなかっただけだったのだということだ。お互いに気持ちを燻っていたのだと気がついたのは、私が引っ越してから、何かの気まぐれに調べた花言葉を目にした時だった。
スガ、私にとってもあなたは『初恋』だったよ。

ふと我に返ると、北風が容赦無く私の体を撫でてどこかに行ってしまった。ふわりと橙から漂う香りは私の瞳を潤ませるのには充分すぎた。私の脳裏にはいつも寂しそうに笑うスガがいる。夕日に包まれた彼は酷く綺麗で、儚い。

私は自転車から降りて、カバンの中から何気無く取り出した携帯でキンモクセイの写真を撮った。オレンジ色が緑の葉と月の光に映えて、きらきらしていた。こんなにも愛おしい、あの記憶は今もなお、キンモクセイの香りとともに鮮明に蘇る。ねえ、スガ。またいつか会えたら、例えお互いに懐かしい思い出になっていたとしても、私の気持ち、今度こそ伝えるよ。私は小さい花から香る甘い匂いに焦がれながら、一人自転車を押して月明かりに照らされる道を歩いて帰った。


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